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六月三日目【瓦解】

 翌朝。けたたましくなり響く着信音によって目を覚ますことになる。  まさか、と赤髪の男のニヤケ面が過る。怯えながらも携帯端末に手を伸ばせば、そこには想像していた人物の名前――ではなく、珍しい相手からの名前が表記されていた。 「っも……もしもし……」 『佑樹か?』 「と……父さん……? どうしたんですか?」  着信相手は離れて暮らす父親だった。 『いや転校してから連絡ができてなかったからな、新しい生活はどうだ? もう慣れたか?』 「え……ええ、はい、なんとか……」 『そうか。ならよかった。……何か困ってることもないのか?』 「……っ」  父親は、穏やかで優しい人だった。だからだろう、本音を口にするのが苦手な俺の言葉を引き出そうと道を作ってくれようとする。  一瞬、揺らいだ。父親に助けてくれと言えば、きっと両親は助けてくれるだろう。けれど、それをするにはあまりにも遅すぎたのだ。 「だ、いじょうぶ……です」 『本当か? 授業に追いつけないときはちゃんと先生に聞いてるのか?』 「う、うん……大丈夫」 『そうか、佑樹は真面目だからな』 「あの、それより……お……僕に、なにか用があったんじゃ……」  いつもの癖で俺と言いそうになり、慌てて俺は言い直す。  父親がこうして連絡を寄越すこと自体俺にとって珍しい。もしかしたら俺に対して遠慮のようなものをしてるのかもしれないが、だからこそこうして連絡を寄越したというのには別の意図があるようにしか思えなかった。 『ああ。そうだった。……明日の学園祭、本当は覗くつもりだったが父さんも母さんも急用が入ってしまってな。どうやら間に合いそうにないんだ』  すまないな、と申し訳なさそうな父親の声が聞こえてきた。正直、俺はほっとしていた。  現状、両親に合わせる顔を俺は持ち合わせていない。 「そっか……まあ、父さんたちが忙しいっていうのはわかってたし」 『悪いな。父さんたちも楽しみにしてたんだがどうしても外せない用事が入って……』 「大丈夫ですから、僕のことは……気にしないで」  声からして携帯端末を片手にしょんぼりと項垂れる父親の姿を安易に想像できた。 『佑樹、お前にはいつも我慢させてばっかですまないな』 「いえ、僕は……その……」 『ああ、そうだ。母さんから伝言だ。たまには連絡を寄越せって言ってたぞ。佑樹、まだ母さんに連絡してなかったのか』 「あ……」  父親の言葉に、脳裏に懐かしい母親の顔が過った。  確かに、母親には実家を出てから一度も連絡を取り合っていない。けれどそれは父親も同じだ。  ……元々実家にいた頃もあまり話さなかったから、余計そう感じるのだろう。実際、俺は母親が苦手だった。優しい父親とは対象的に希少が荒く、厳しい人だったのだ。それでも俺に対しての愛情深く接してくれているのはわかるが、どうせ怒られるのが目に見えてるのでわざと避けていたところもある。 「……うん。わかった、母さんには今度僕から電話するよ」 『……そうか、よろしく頼んだぞ』 「うん、ありがとう」  二人からの愛情を感じれば感じるほど、後ろめたさに胸がはち切れそうになるのだ。まさか、男の恋人ができたなんて万が一二人の耳に届いたらと思うと気がきではない。それじゃあ、と通話を終えようとしたときだ。 『あと、それから』と不意に、父親は思い出したように声を上げた。 『理事長や先生方にも、よろしく言っておいてくれ』  その言葉を最後に、父親との通話は途切れた。  久しぶりの父親との会話だからだろうか、いつも以上に緊張した。  携帯をサイドボードに置き、そのまま起き上がる。いつもなら余裕持って朝の準備ができる時間に起きているのだが、寝過ごしたようだ。どうやらゆっくりとテレビを見る時間はなさそうだ。  一人部屋になってからというものの、どうにも寝すぎてしまう傾向がある。というより、疲労が増えてるのと眠りが浅いというのも原因かもしれない。俺は取り敢えず顔を洗うことにした。  忌々しい中学時代の夢をよく見るようになった。今置かれてる境遇が原因なのだろうというのはわかりきったことだ。  周りの人間が全員信じられなくなった中学時代。学校へと通えなくなり、卒業式も他の生徒とは別に、校長室で行った。イジメのことを知った両親の勧めで中学からは大きく離れた隣町の高校へと通うことになり、周りには中学時代の人間も殆どいなかったが……それでも俺は教室に入ることができなかった。  毎朝学校へ行くため家を出るも、そのまま教室へは行かず保健室で自習を受けていた俺を心配した保険医が両親に連絡を入れ、両親に伝わった。  中学とは違い、保健室登校だけでは進学することはできないと当時の担任に言われたのだ。  そんな俺の身を案じた父親が、地元から離れた、当時の知り合いがいないこの全寮制学園に転校させたのだ。  進んで俺の転校の手続きをした父親とは違い、母親は俺を寮に入れることを反対していた。  自分の息子がいじめられた上、逃げるような真似をするのが悔しかったのだろう。小さい頃の母親との記憶といえば、ぐずぐずと弱音を吐く俺を静かに叱りつける母親のことしか思い出せなかった。  父親同様多忙な母親は少しも母親らしいことをしてくれなかったが、それでも母親が自分のことを心配してくれているのがわかっていた。だからこそ、苦手だったのだ。  転校しても尚、変わるどころか悪化してしまった状態で転校を反対していた母親と連絡を取るのは怖かった。……何を言われるか見当つくからこそ、余計。  洗面所で身嗜みを整え、部屋へ戻ってきた俺は制服に着替える。  二人で使っていたときでさえ広く感じていた部屋は一人だと余計広く、ただただ寂しかった。  ……無意識に溜息が漏れる。誰も知らないところで別人として生まれ変われることができればまたやり直せるかもしれない。そんな期待を抱いていたときもあったが、今ならわかる。いくら見た目を変えようが中身までは変えられないのだと。  そろそろ部屋を出ようかと部屋の時計を一瞥する。今から食堂に行けばいつも通りの時間には教室に辿り着くことができるだろう。鞄を肩から下げそのまま玄関口へと向かう。靴に履き替え、扉を開いた。  瞬間。 「あぅっ」  勢いよく開いた扉がなにかにぶつかる感触がしたのと同時に、小さな呻き声が聞こえてくる。 「ごっごめん、大丈夫?」  慌てて扉から廊下へ出てきた俺は、扉の前で頭部を押さえ踞るその生徒に近付く。  真っ黒い髪に、濃い目の下の隈。そして、大事そうに抱えたクマのぬいぐるみ。周りに比べて小柄なその男子生徒には見覚えがあった。 「……っえ、江古田君?」 「……おはようございます……」 「お、おはよ……って、あの、いま頭打ったよね? 大丈夫?」 「……大丈夫です……」 「え、あ、そ……そっか。ごめんね」 「……大丈夫です……」  痛かったと文句を言ってくれた方がまだましだ。俯いた江古田は俺のことを気遣っているのか、頑なに「大丈夫です」としか言わない。  前髪の下じわじわと赤くなってる額を見て俺はただ罪悪感に「ごめん……」としか言えなかった。 「……それより、ご飯食べにいきませんか……」 「……え? 俺と?」 「……どうせ、まだなんですよね……それとも、僕みたいなやつと一緒のテーブルに座りたくないっていうなら別席でも僕は全然構いませんけど……」 「そ、そこまで言ってないよ……!」 「……じゃあ……」 「う……うん、行こっか、ご飯」  そう頷き返せば江古田はほっとしたように胸を撫で下ろす。そして、こくりと相変わらず生気のない顔で頷いたのだ。  何故江古田がここに、と思ったが、昨日のことを思い出す。……俺の見張りなのだろう。律儀な子だ。江古田はああいうが、それこそ江古田の方が俺といてもメリットがないのではないかと思わずにはいられない。……だからこそ余計、こうして江古田の方から誘ってくれるのは素直に嬉しいのだけども。  早速俺たちは特に会話に盛り上がるわけではなく、黙々とエレベーター乗り場へと向かったのだ。  それにしても……もしかして、櫻田の件が収まるまで毎日江古田が送迎してくれるのだろうか。  思いながら隣にいる江古田をちらりと伺ったとき、不意に江古田と目があった。  瞬間、江古田はすっと俯いた。避けられた。内心傷つきながらも、俺はいち早く芳川会長が櫻田をなんとかしてくれることを祈るばかりだった。  ――学生寮一階、ロビー。  学園祭前日だからだろうか。いつも以上に学生寮内は活気づいていた。 「江古田君は、なにか食べたいのある?」 「……別にないです」 「あ、そっか……」  人混みを避けるように通路の隅っこを並んで歩きながら俺たちはぼちぼちと食堂へと向かっていた。  自分のために時間を使ってくれる江古田を退屈させたくなかったので何度か話しかけてはみるが、どれも長続きしない。  俺の話術が劣っているのか、それとも江古田にその気がないだけなのかわからなかったが、恐らくその両方なのだろう。そんな俺たちの会話が弾むはずもない。沈黙のまま結局俺たちは食堂へと辿り着いてしまうのだ。 ◆ ◆ ◆  ――一階、食堂前。 「あっ、おーい! 佑樹ー!」  食堂へ踏み入れようとしたときだ。後方、通路から聞き覚えのある声が聞こえてきた。  振り返ればそこには十勝と灘がいるではないか。 「十勝君に、灘君。……おはよう」 「はよーって、あれ、江古田も一緒? へえー珍しー組み合わせだな……って、あ、そっか見張りか! 江古田もご苦労さん!」 「……あの、声が大きいです……」 「お疲れ、江古田!」 「…………」  最早突っ込む気にもならないという顔で十勝を無視する江古田。内心ヒヤヒヤするが振り払わないところを見ると悪くない関係性は築けているのかもしれない、と思った矢先振り払われていた。 「あ、そういえば、二人だけなの? 会長たちは……」 「会長たちとはまだ会ってねーからわかんねえわ」 「あ……」  自分で聞いておきながら昨日のことを思い出し、しまったと後悔する。そうだ、生徒会は揉めている最中だった。会長は俺に対しては普通に接してくれていたのでつい忘れていた。 「ご、ごめん……」 「いーって別に。ほら、飯食うんだろ? 俺たちも一緒にいいか?」 「う、うん、それは全然大丈夫だよ」 「和真もいいだろ?」 「皆さんがよろしければ自分はそれに従います」  灘は灘で相変わらずのようだ。正直、十勝の存在は助け舟だった。  寧ろ江古田と二人きりだと何話したらいいのかわからなかったので助かる。……が、この二人と江古田が仲良くしてるイメージがまるで沸かないのだが……ま、まあ、なるようになるはずだ。  隣の江古田から恨めしげなオーラを感じたが、俺は恐ろしさのあまり振り返ることはできなかった。  そして食堂の中へと移動した俺たちは四人がけのボックス席へと腰を下ろした。 「あーとうとう明日だな、学園祭!」  そして各々好き勝手頼んだ朝食を食べているときだ。十勝は思い出したように声を上げた。 「楽しみだよなあ、楽しみじゃないか?普段はむさ苦しい男しかいないこの学園に女の子がいっぱいくるんだぞ、佑樹も楽しみだよなあ?」 「え? あ……う、うん……そうだね……」 「去年は学園祭は自粛っつってチケットは一般販売されなかったせいで女の子全然いなかったけど、今年こそは夢にまで見た華の学祭だぞ佑樹!」  鼻息荒い十勝に肩を抱かれ、俺は思わず手にしてた箸を落としそうになるのをなんとか持ち堪えた。というか、十勝、さらりと今気になることを言ったような……。 「自粛って……?」 「ん? ああ、去年は色々遭ったから行事自体あんまなかったんだよ。色々ってのはまあ……色々だ、色々!」  ……はぐらかされている。あまり聞かれたくない話なのだろうか、行事を自粛するくらいなのだからあまりいい話題ではないのだろうがなんとなく気になった。 「だとしたら、今年は余計人が多そうだね……」 「なんだよ佑樹、駄目だな、逆に考えるんだよ。掴み取り放題だって!」 「と、十勝君……」  女の子に聞かれたら怒られるぞ、というか彼女いたんじゃないのか。色々突っ込みたくなるが、十勝の女関係については触れないのが無難な気がしてならない。 「学園祭、楽しみじゃないんですか?」 「……いや、その……楽しみだよ」  楽しみだが、俺の心配は別のところにある。  阿賀松との約束を果たすため、学祭中芳川会長と落ち合わなければならない。それが成功するか失敗するかが心配でどうしようもなかった。 「とても楽しみにしてる人間の態度には思えませんね」 「う……」 「和真、佑樹を虐めてやるなって! 大丈夫だ佑樹、会長とゆっくり学祭デートできるよう俺たちがサポートしてやるからな!」 「と、十勝君……気持ちだけもらっておくね……」 「……虐めていたのは十勝先輩も同じですけどね……」 「なんだと江古田ー! お前も辛気臭い面ばっかしてないでほらもっと野菜以外も食えよ! 身長伸びねえぞ~」 「……余計なお世話ですし……」  わいのわいのと騒がしい朝食になったが、十勝のおかげか大分気は紛れた。  食事を終えた俺たちは食堂を出た。 「やべ……食いすぎた……最後のパフェやっぱいらなかったわ……」  そして、校舎へ向かおうとしたときだ。  あれからテンション上がって追加注文しまくっていた十勝は案の定腹を壊していた。 「ちょっと便所行ってくる」 「わかりました」  よろよろと歩いていく十勝が心配になって、「俺も、トイレ」と二人に声をかけて俺は十勝の後を追いかけた。  男子便所。便意はなかったのだが、十勝の様子が気になって付いてきたものの……。 「と、十勝君……本当に大丈夫?」 「ああ、多分……」 「本当? ……顔色、すごい悪いけど……」 「たまーにあるんだよなぁ、食いすぎて腹壊すの。……まあ、多分大丈夫だ」  本当かな……。気になったが、俺がどうにかすることもできない。  それよりも、今はチャンスではないだろうか。食堂の外では灘たちが待ってるだろう。今は俺と十勝の二人しかいない。  五味のことを聞くなら今だ。ごくりの固唾を飲み、「あの、十勝君」と名前を呼べば「ん?」と不思議そうに十勝はこちらを見てくる。 「……あの、十勝君って五味先輩のクラスか部屋、知ってる?」 「んえ? 五味さんの?」 「うん。その……五味先輩に用があって……」  脈絡のない話題だと自覚はあったので補足すれば、特に疑うわけでもなく「なんだそういうことか」と十勝は笑った。 「確かB組……いや、C組だっけか? 阿賀松伊織と同じクラスだって言ってたのは覚えてんだけどな」 「お、思い出せそうにない……?」  暫くうーーんと唸っていた十勝だったが思い出すことを諦めたらしい。 「部屋だけでもいい?」と照れ笑いする十勝に俺は全然構わないと首を縦に振る。 「確か、五味さんの部屋は四四五号室! ……のはず!」 「……ありがとう、それだけでも分かれば助かるよ」 「いーっていーって、それよりも佑樹が五味さん頼るのって意外だな~。会長、ヤキモチ焼くんじゃねえの?」  その気はなかったのだろうが、なかなか鋭い十勝の指摘に内心ぎくりとした。  俺は笑って誤魔化す事しかできなかった。  ……そうだ、十勝から見た俺は会長の恋人なわけだ。裏でこうして五味の部屋聞いてることを勘繰られるのは少し、厄介だ。 「会長は、最近……その、忙しそうだから……」 「あー確かにな、佑樹のことで余計ピリピリしてるもん。俺も、あの会長見てると声かけにくいしなー」 「……はは」  よかった、なんとか誤魔化せたようだ。俺は、これ以上十勝に怪しまれないように灘たちと合流することを優先させた。  ◆ ◆ ◆  ――校舎内、昇降口前。 「んじゃ、俺と江古田はこっちだから。また後でな!」  そう、十勝は江古田の肩を叩こうとして避けられていた。するりと十勝を避けた江古田はそのまま俺のところまでやってくる。そして。 「……僕は、先輩を送らなきゃいけないので……」  どうやら江古田は芳川会長から言われたことを気にしているようだ。  真面目というか、責任感が強いのだろう。そう、バッサリと十勝の誘いを断る江古田。 「江古田君は教室に向かってください」 「齋籐君は、責任持って自分が送らせていただきます」そう、そんな江古田に対して告げたのは灘だ。江古田に対する優しさというよりもそれは教室も近い自分が一人いれば十分だという風にも聞こえる。悪意はないのだが、取り付く島もない灘の言葉にひやりとした。恐る恐る江古田に目を向ければ、目を伏せた江古田は「……灘先輩が……」と血の気のない唇をきゅ、と結び、そしてそうですね、と消え入りそうな声で吐き捨てる。 「……僕より先輩の方が頼りになりますし……お願いします……」 「お任せ下さい」 「え、江古田君……」 「ま、まあほら! 和真もそう言ってることだし俺たちもさっさと行こうぜ! な、ほら!」  隠しきれないどんよりとした空気を醸し出す江古田をなんとか励まそうとする十勝だが、江古田はそれをまたするりと抜けては「失礼します」と頭を下げてさっさと歩いていっていた。「それじゃ、俺もこれで」と別れを告げた十勝はそのままとぼとぼと歩く江古田を追いかける。  そして励ますように話題を変える十勝の後ろ姿を眺めていた俺だったが、あまりにも凹む江古田の姿にいたたまれなくなり、咄嗟に「江古田君」とその後ろ姿に声をかける。 「その、今日は送ってくれてありがとね」  足は止めるものの、しょんぼりとしたままこちらを向こうとしない江古田の背中に声をかけたとき。 「……ありがとうございます……」  それはギリギリ俺の耳に届くくらいの声量だった。  江古田はそうポツリと呟けば、再び足を進め始める。  ……ありがとうをありがとうで返されるとは思わなかった。  さっさと歩いていく江古田に、十勝は「ちょっ、待っ、早い早い!」と言いながら慌てて後を追っていく。なんとなく、先程よりも幾分江古田の歩調が大きくなっているような気がした。  十勝と江古田と別れた俺たちは早速二年の教室に向かうことになる。  校舎内は本格的に学園祭ムードに包まれていた。飾り付けが施された華やかな階段を上がり、 朝から文化祭の準備に取りかかる生徒たちで賑わう廊下を通り抜けて歩いていく。  灘との間に会話はない。ただ、先を歩く灘に置いていかれないように俺は小走りでその背中を追った。  賑やかな雰囲気、楽しげな会話が飛び交う中だからだろうか。余計、何も感じさせない灘は周りから浮いているようだ。つくづく、変わった人だと思う。  そして、そんな灘の後ろ姿を追いかけていると気付けば教室の前までやってきていた。 「ここでいいよ。ありがとう」 「なるべく移動教室時以外教室から出歩かないようしてください」 「……は、はい」 「俺はこれで失礼します」  小さく会釈し、灘は今まで来た通路を戻っていく。  てっきり灘も自分のクラスへと行くのかと思ったが、方向からして生徒会室へと向かうようだ。  わざわざ遠回りして俺を送ってくれたのだと思うとやはり申し訳ない。  灘の後ろ姿も見えなくなる。そろそろ教室へと入ろうかと扉に手をかけたときだった。 「齋籐、おはよう」  突然、背後から伸びてきた手に肩を触れられ、息が止まりそうになる。振り返れば、すぐ鼻先には見慣れた笑顔があった。 「し、ま……」  その距離の近さに思い出したくないことまで思い出してしまい背筋が冷たくなる。  いつからいたのか。まるで、灘がいなくなったタイミングを見計らうかのように現れた志摩に足が竦む。 「どうしたの? 入らないの? ……それとも、口も利けなくなっちゃったの?」 「この前はあんなに声出してたのにね」なんて、薄ら笑いを浮かべる志摩に顔が熱くなる。真に受けたら駄目だ。挑発に乗ったら駄目だ。言い返したいのをぐっと堪え、俺は志摩から逃げるように扉を開き、教室へと入った。 「ねえ、それで怒ってるつもり?」  背後から着いてくる志摩。逃げるように自分の席に腰をおろしても、逃げられるわけがなかった。俺の隣に腰をかける志摩は、そのまま鞄を机に置いた。  分かり合えないとわかった今、和解とまではいかずともこれ以上志摩との関係に荒波を立てたくない。無視して逆上され、また周りに迷惑をかけられるのも嫌だった。  聞きたいことは、ある。たくさん。阿佐美に対する態度や、携帯に無断で連絡先を登録したこととか。でも、またこの前みたいなことになるのではないかと思うと……正直怖かった。  志摩の気持ちがまるで読めない今、触らないようにするのが精一杯の防衛だったのだ。  けど、やはり、避けることはできない障壁であるのも違いない。  逃げてばかりでは駄目だ。……また、大事になる前にちゃんと話さないと。そう、自分を叱咤する。

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