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04

 二年A組教室、喫茶店前。  どうやら繁盛しているようだ。  幸い、呼び込みをしている志摩は席を外しているようで顔を合わせずには済んだが、なんだか様子がおかしい。呼び込み役のクラスメートは教室の中をちらちらと気にしており、なんだろうと思いながらも俺たちは入店しようと扉へと近づいた。  ――それが運のツキだった。  喫茶店店内。そこは、別の意味で賑わっていた。 「だぁーかぁーらぁ、ユウキ君出せっつってんだよ。ユウキ君。何回言えば分かんだよ、なあ」 「……あっ、あの……先程も言ったとおり丁度今席を外しておりまして……どこに行ってるかまではその……」 「なら放送かけるなりして今すぐ連れてこいよ。ほら、十分以内だ。さっさとしろ」 「でも……」 「一秒でも遅れたら罰ゲームだからな。オラ! ダッシュしろダッシュ!! ……チッ、おい飲み物おせーな、グラス空いてんだろうが何してんだ」 「す、すみません、すぐ用意します……ッ!!」 「あ、俺もこのケーキもう一つちょうだい」  店内の空気は騒然としていた。  響き渡る聞き慣れた怒鳴り声に全身が凍りつく。青褪めたスタッフ役のクラスメートたちは「た、只今!」と慌ただしく動き回っていた。  そしてこの騒ぎの中心ともいえる一番奥のテーブル席、見慣れた派手な髪色の二人組の姿を見つけた俺は絶望した。  それは十勝も同じだった。「うっわ、最悪」と舌打ち混じり吐き捨てる十勝。  ――そう、最悪だ。この状況を二文字の熟語でまとめるとその言葉が一番しっくりくるだろう。  椅子に腰をかけふんぞり返る赤髪の男、阿賀松伊織。そしてその向かい側の席には青髪の男――縁方人がもぐもぐと軽食を摘んでいるではないか。  そしてやつらの周りには振り回されるクラスメートたちが数名。  なんだこの地獄絵図は。しかも阿賀松の言い分からしてやつの目的は俺だ。  ……最悪だ。まだ連中がこちらに気付いていない今、すぐにでもこの場を離れたかったがこのままではあまりにもクラスメートたちに申し訳が立たない。……が、隣にいるのは十勝だ。  生徒会を目の敵にしてる阿賀松たちだ、絶対に面倒なことになる。それが分かったからこそ慎重にしなければ。……取り敢えず、十勝に説明して俺だけでも……。と、そんなことを考えていた矢先のことだった。俺が動くよりも先に、隣にいた十勝が動いたのだ。 「おい、一般生徒に手え出してんじゃねーよ」  気付けば阿賀松たちのテーブルまで向かっていた十勝はそう、絡まれていたスタッフを庇うように二人の目の前に立った。  あの二人相手に正面堂々と突っ掛かる十勝に心臓がとまりかけると同時に、素直に感動した。  対する二人はというと、阿賀松たちも十勝が現れるとは思ってなかったらしい。阿賀松は皮肉げに笑う。  「なんだ。またお前か、生徒会の馬鹿」 「ひどいな、俺らだって一般生徒なのに。なあ伊織」 「なにが一般生徒だよ。……周りに一般客がいるのに堂々と営業妨害なんてよく出来るな。他の人間の迷惑考えろよ」 「他の人間? なら俺の迷惑のことも考えろよ。わざわざ訪ねて来てやったのに、約束すっぽかされて店員に聞けばまともな返事返ってこない。その上にお前まで沸いて営業妨害呼ばわり。……あーあ、泣けてくんじゃねえか」  言葉とは裏腹に阿賀松は悲しむ素振りすらない。 「どこがだ」と噛み付く十勝。  流石にこれ以上は看過できない。騒ぎがこれ以上大きくなる前に、俺は恐怖心を必死に抑え、奥のテーブルへと向かった。近くにいたクラスメートたちも俺が行くと思わなかったらしい、ぎょっとしていたが誰も止める者はいなかった。 「あの、すみません。……どうかしたんですか?」  恐る恐る阿賀松に声をかければ、三人の目がこちらを向いた。 「佑樹」こんなやつの相手をしなくていい。そう言うように視線を向けてくる十勝に、『大丈夫だから』と視線を返したときだった。  阿賀松が立ち上がり、目の前までやってくる。後退りそうになるのを堪えた。 「んだよ……居るならさっさと出てこい。今までどこほっつき歩いてたんだ?お前」 「す……すみません。その……生徒会の手伝いをさせていただいてました」  阿賀松相手に下手に誤魔化して勘繰られるよりかは素直に告げた方がいい。それはこの二ヶ月間で俺が学んだことだった。 「生徒会だぁ?」と阿賀松の眉根が寄せられる。……近いし、おっかない。が、怯んではいけない。至近距離、突き刺さる阿賀松の視線から必死に目を逸す。 「へえ、齋籐君が生徒会のねえ? ……残念! せっかく齋籐君のメイド服楽しみにしてたのに。今からでも着替えておいでよ、俺ずっと待ってるから」 「馬鹿方人が。看板の文字も読めねえのかよ、ここはメイド喫茶じゃねえよ。ただの喫茶店だ」 「いいじゃんいいじゃんメイド齋藤君。紅一点って感じでさ。きっと似合うよ君なら」  言いながらひらりと手を振ってくる縁に、ドン引いてる十勝。気持ちは分かるが、そんな目で俺を見ないでほしい。乾いた笑いすら出てこない。 「つうか、関係ない一般生徒にまで手伝わせるなんて流石生徒会様々。いいご身分じゃねえか。手際が悪いからよっぽど忙しいんだろうな」  ……ああ、来てしまった。  せっかく俺に矛先を向かわせようとしたのに、阿賀松の挑発的な言葉に十勝が「はあ?」と声を上げる。今にも掴みかかりそうな十勝を慌てて止め、俺は「あの」と阿賀松の腕を掴んだ。  なんで自分から阿賀松に触ってしまったのか分からないが、それでも今はとにかく阿賀松の意識を自分に向けることが優先だと思った。 「その……俺に用があったんじゃないんですか」 「佑樹、そんなやつの相手いちいちしなくていいって。会長に言われてんだろ」  よりによってこのタイミングで会長の名前を出すとは。俺を助けようとしてくれてるのだろうが、この状況下では火に油だ。  元に、掴んだままになっていた阿賀松の腕がぴくりと反応するのが分かって緊張する。 「へえ、お前んとこの会長はそんなこと言ってんのか。余裕ねえなあ?」  いきなり殴りかかりやしないかヒヤヒヤしていたが、阿賀松の反応は想像していたものとはまた違った。 「おい方人」と、いつの間にかに届けられたサラダをもりもりと食べていた縁を呼ぶ阿賀松。 「そこのぎゃーぎゃー煩い馬鹿を連れていけ」  そして一言。言いながら軽く顎で十勝をしゃくる阿賀松に、俺も十勝もぎょっとする。  ただ一人、縁方人は手にしていた驚くわけでもなく手にしていたフォークをトマトに突き立てた。 「ええ、俺も齋籐君ともっと一緒にいたいのに」  そう言いながら先端を深くずぷりと静める縁。  断面から種と一緒にどろりとした赤い汁が溢れ、ひしゃげたそれを持ち上げた縁はそのまま口に運ぶ。縁は咀嚼し、ごくりと喉にそれを流し込んだ。 「……それに、煩い子は俺の好みじゃないんだよねえ?」  いつもと変わらない調子で続ける縁。その目が俺の方を捉え、視線が合えば「齋藤君なら大歓迎だけど」と微笑む。 「お前の趣味なんて聞いてないんだよ。さっさとしろ」 「じゃあ齋籐君貸してよ」 「調子に乗んじゃねえよ、テメェにユウキ君は勿体ねえ」  耳を塞ぎたくなるような会話が目の前で交わされる。  俺が馬鹿にされるだけなら別にいい。けれど、このままでは確実に十勝まで巻き込まれてしまう。俺は咄嗟に十勝に耳打ちした。 「会長呼んできて。……俺はここにいるから」  ほんの一瞬、目を丸くした十勝だったが俺の考えが伝わったらしい。 「あ、ああ。わかった」そう十勝は頷き、店から出ていく。 「あっ逃げた。伊織が虐めるからいなくなっちゃったじゃん」 「お前がごねるからだろ。穴ならなんでもいいくせに贅沢に選り好みしやがって」 「ひっでえ、伊織と同じにすんなよ。俺は美食派なんだよ」 「ああ?」  あっという間に廊下の外へ出た十勝に一先ず安心した。……が、肝心の問題は何一つ片付いていないのだ。  目に前であまりにも品のない会話を繰り返すふたりに頭が痛くなる。 「……取り敢えず、話なら場所移動してもらってもいいでしょうか」 「……その、ここじゃ少し目立ちすぎますので」声を落とせば、つまらなさそうな顔をしていた阿賀松だったがすぐにその口元にはいつものだらしない笑みが浮かぶ。 「……ああ、そうだな」  そして、腰に回される阿賀松の腕にああ、と思った。仕方ない。我慢しろ。このままこんなところで騒がれるよりかはましだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は阿賀松に腰を抱かれたまま連中とともに教室内をあとにすることになった。  芳川会長に助けを求めるという名目で十勝を逃がす。  勿論芳川会長と阿賀松を対峙させるなんてことを根っから考えてもいない。とにかく十勝を遠ざけ、十勝が戻ってくる前に阿賀松たちを連れて行くことが目的だった。  ……振り回される芳川会長には申し訳ないが、あのままでは十勝が引きそうになかったので利用させてもらうことにする。  ――校舎内、廊下。  阿賀松たちをとにかく教室から遠ざけるため、離れた人気のない廊下まで移動したまではよかった。 「それで……あの、話って言うのは……」  目の前には阿賀松。とその横には野次馬縁。そして背後には壁。……というか何故、壁際に追い込まれているのか。  文字通り板挟みにされ、目の前の圧に押しつぶされそうになりながらも必死に声を絞り出したとき。 「それもそうなんだがな」と阿賀松は伸びた前髪を掻き揚げる。そして。 「方人、お前なんでついてきてんだよ」  どんな罵詈雑言を投げかけられるかと覚悟をしていた俺だったが、阿賀松の口から出てきた言葉に俺も――そして縁も「俺っ?」と目を丸くさせていた。そしてすぐにへらりと笑う。 「や。だってさぁ、せっかく齋籐君に誘われちゃったんだからこれはついてかなきゃ男じゃないかなって」  俺と縁の『誘う』という言葉の意味について齟齬が生じているような気がするのは俺の考えすぎなのだろうか。  そうヘラヘラと笑う縁に、阿賀松は露骨に面倒臭そうに溜め息をついた。 「ユウキ君は俺を誘ったんだよ。そんで俺もユウキ君に用がある。けどお前は邪魔だ、方人」 「そんなつれないこと言うなよ。大丈夫大丈夫、俺おとなしくしとくしさ。ね、いいよね?齋藤君」  どう見ても苛つき始めてる阿賀松の前にも関わらず、わざとらしいほどの甘えた声で矛先をこちらに向けてくる縁にぎょっとする。 「ぁ、え……俺は、どちらでも……」 「ほら、齋籐君も良いって言ってるしね。俺のことは気にしないでさっさと話進めちゃいなって」 「……」  その場から離れようとしない縁を睨む阿賀松は小さく舌打ちをし、溜め息混じりに視線を外す。どうやら好きにしろという意味のようだ。  ――正直、縁より先に折れる阿賀松に驚いた。いや、寧ろ相手にしたがろうとしないと言った方が適切かもしれない。  ……そう言えば、この二人の関係もよくわからない。  友達と言うわけでも、かといって安久のような盲目的な信者と言うわけでも、ましてや仁科のようにパシられているようにも見えない。知りたいとも思わないが、出来るだけ自分の置かれた状況を把握したい今少なからず怖いもの見たさの興味はあった。  ……それを実行に移す気には到底なれないが。 「……ぁ、あの……」  そう、改めて本題に入ろうとしたときだった。  阿賀松にいきなり制服を脱がされそうになり、飛び上がりそうになる。 「ぁ、あの……っ、先輩……っ?」 「携帯」 「へ」 「どこだよ、ここか?」  そう、ポケットに手を突っ込んでくる阿賀松に固まった。そして放り込んだままになっていた携帯端末を探り当てた阿賀松はそれを取り出す。  そして端末を操作した阿賀松の表情はさらに強張った。ブチ切れの顔だった。 「……どおりで何回連絡しても出ないわけだな」 「ああ、ほら、やっぱ電源切れてんじゃん。良かったな、伊織。着信拒否じゃなくて」  ……電源切れだって?  阿賀松と縁の言葉に驚いた俺は、慌てて阿賀松の手の中にある端末を覗いた。  本来ならば初期設定されたよくわからないキャラクターものの画像が現れるはずの画面は暗くなったままで、そこには自分の情けない顔が反射する。 「なーんーで肝心なときに充電してねぇんだよ。まさか、ずっとこのままにしてたわけじゃないだろうな」  阿賀松に尋ねられ、俺は必死に記憶を呼び起こす。朝は父と通話したし、もしかしたらそれ以降電源が切れたのかもしれない。 「いえ、あの……きっと今日切れたんだと思います。朝はまだ使えたので……」 「肝心のときに使えなかったら意味ねぇだろうが」 「ご、ごめんなさい……」  そうだ、今日は阿賀松からの指示の連絡が入ることになっていたのだった。  慌てて謝れば、阿賀松ははあと大きく溜息を吐く。 「それで? 会長とはもうヤったのかよ」 「っ、……!!」 「え? なに? 齋籐君会長とセックスすんの?」 「……方人、ついさっきお前自分で静かにしとくって言ったよな? 空気は黙ってろ」  凍りつく俺の横、阿賀松に叱られた縁は自分の口を手で塞ぎ、「んーんー」と片方の手でオーケーのジェスチャーをする。……いくら空気とはいえど縁は縁だ。  このことについて縁の前でも当たり前のようにする阿賀松の意図はわからなかったが、俺が答え倦ねていると「早く答えろ」と頬をぐにっとつねられた。「ひゃい」と慌てて俺は口を開ける。 「ぁ、あの……、今のところはまだ、です……。恐らく、行事が終わって会長の方が落ち着いてからになるかと」 「へぇ、そう会長と約束したのか」 「は…………はい」  勘繰られている。阿賀松が俺の言葉を丸々信じるはずがないと分かっていたが、ここで怯んではいけない。堂々としろ。そう自分に言い聞かせる。 「約束した割りには随分アバウトだな」 「そ……その、会長も、いつ頃になるかわからないと言ってましたので……。でも、今日中にはちゃんと……間に合わせますので」  信じてください、なんて言ったところでこの男に響くとは思わない。  視線を阿賀松に向ける。至近距離から真っ直ぐに瞳の奥を覗き込まれる形になり、目を逸しそうになってしまうのを必死に堪えた。  阿賀松には誠意を見せろ。怯むな。怪しまれたら終わりだ。震える掌をぎゅっと握り締め、真正面から阿賀松の視線を受け止める。  どれほどの時間見つめ合っていたのか分からない。やがて阿賀松の口元はふ、と緩み、笑みが浮かんだ。 「……別に誰も疑ってねえよ。俺は結構期待してんだぜ、お前には」  ユウキ君、と伸びてきた手に今度は頬撫で上げられる。ぞわりと背筋が震え、腰に重いものが沈むのが分かった。  阿賀松からの信用ほど恐ろしい枷もないだろう。俺はありがとうございます、と答えるのが精一杯だった。 「とにかく、まだ時間はあるんだろ? ちゃんと充電しとけよ」 「わかったか?」と念押しされ、俺は慌てて頷き返す。……機嫌がいいのだろうか、てっきりもっとしつこく詰られるかと思ったが、阿賀松はそれ以上その件について追求してくることはなかった。  その代わり、 「おい、方人」 「なに? 齋藤君とのいちゃいちゃは終わった?」 「お前上に行ってろ」  ――上?  天井を指差す阿賀松。俺にはどこを指してるか分からなかったが、縁にはそれだけで十分伝わったらしい。 「ええ、俺もう少し齋藤君と仲良くしたかったんだけどな」 「……」 「はいはい、わかったって。伊織様々の頼みだもんな、断ったら何されるかわかんねえし」  無言の阿賀松の圧に気圧された縁は仕方ないとばかりに肩を竦める。そしてこちらを振り返り、いつもの優しげな笑みを浮かべるのだ。 「じゃ、齋籐君今度は伊織がいないとき仲良くしようね」 「俺の前で堂々と誘ってんじゃねえよ」  阿賀松に怒鳴られた縁は「おお、怖」と楽しげに喉を鳴らして笑い、それからそのままその場を離れるのだ。  縁がいなくなった通路はしんと静まり返る。今度こそ阿賀松と二人きりになった。なってしまった。 「ぁ、あの……それじゃあ……俺はこれで」  用は済んだはずだ。  ……正直な話、阿賀松と一分一秒でも長く二人きりになるような状況は避けたかった。  そうそそくさと離れようとしたとき、伸びてきた阿賀松の腕に「待てよ」と首元を掴まれる。 「っ、……」  驚いて、咄嗟に顔を上げたときだった。あまりにもごく自然な動作で唇を塞がれ、停止する。  金属ピアスの冷たい感触が唇に当たる。身を引こうとするが、背後の壁がそれを邪魔するのだ。  阿賀松の舌に唇を舐められる。口を開けろという促され、俺はそれを拒むことができなかった。 「っ、ふ……」  気分屋な阿賀松に振り回されるのは今に始まったことではない。甘皮ごと舌でねぶられ、そのまま噛み付くように更に深く口を塞がれれば、挿入される舌に堪らず息を吐いた。  いくら人気がないとは言えどだ。俺は今芳川会長と付き合っているということになってる。この男の命令でだ。  ――それなのに、何を考えてるんだ。  分かるはずもない。舌を絡め取られ、舌の付け根までたっぷりと粘膜同士を擦り合わせるように愛撫されるのだ。口の中いっぱいに響く粘着質な水音は脳髄まで響くようだった。  あまりにも執拗な口づけに、次第に呼吸が浅くなる。離れるどころか、腰に回される筋肉質な腕は俺を更に抱き寄せ、喉の奥まで舌で犯してくるのだ。 「っ、へ、ん……ぱ……ッん、ぅ……ッ」  まさか、このままするつもりではないだろうな。  芳川会長とのこともあるのに、それでもこの男ならばやりかねない。嫌でも当たる下腹部に意識が向かってしまい、かといって拒むこともできず、ただしがみつく俺の手首を掴んだ阿賀松はそのまま舌を抜いた。そして、どちらのものかすらもわからない唾液で濡れた唇をべろりと舐めるのだ。 「阿賀松先輩、もっとしてください」 「……ぇ……」 「って顔してる」 「っ、ち……違います……っ」 「へえ? ちげえのか? ま、お前すぐ顔に出るから気をつけろよ」  遠くから聞こえてくる足音にはっとする。どうやらそれでやめたのか?……阿賀松が人目を気にする男には見えないが、それでも案外あっさりと解放してくれた阿賀松に驚きを隠せない。 「終わったらたくさん構ってやるから、それまで一人寂しく我慢してろ」  呆気取られていると、腰に回された阿賀松の掌に背筋にかけてゆっくりと撫で上げられる。そのままひとの後ろ髪を撫で付け、そう笑う阿賀松に俺はとうとう何も答えられなかった。 「充電、忘れんなよ」  そして俺から手を離した阿賀松は、それだけを言い残してそのまま俺の前から立ち去るのだ。 『終わったらたくさん構ってやるから』  阿賀松の言葉が頭に残っていた。言わずもがな、芳川会長とのごたごたのことを指してるのだろう。  ……構ってほしくなどないが、一まずは無傷でここまで残れた自分を褒めたかった。阿賀松の背中が見えなくなって、ようやく俺は全身の力を抜いた。  そのままずるずると壁に背中を預け、深く息を吐き捨てる。  とにかく、十勝と芳川会長には謝っておかなければ。……それと、携帯の充電。  ぼうっとしてる暇などはない。俺は先に携帯の充電を優先させるため、学生寮にある自室へと向かうことにした。  ◆ ◆ ◆  学園祭で賑わう校舎の渡り廊下を使って学生寮まで移動する。  校舎とは違い、一般人立ち入り禁止されたままの学生寮はひっそりしており人気がない。こういう祭りの裏側のような退廃的で寂れた雰囲気は嫌いではなかった。  ――しかし、今は雰囲気に浸っている場合ではない。  学生寮、自室。  電源の切れた端末に充電器に差し込み、充電中のランプが点いたのを見て一息吐く。  どれくらいで満タンになるのか分からないか、そこまでゆっくりするつもりもない。ある程度溜まれば大丈夫だろうが……それにしても、芳川会長たちのことが気がかりだった。  連絡を入れようにも俺は会長の連絡先を知らない。どうしよう、と携帯端末を手にしたまま固まっていると、電源がようやく溜まり始めていた端末は着信する。  画面にデカデカと表示されるのは『志摩亮太』の名前。  ……なんてタイミングだ。  出るべきか迷ったが、無視しては確実に波が立つだろう。渋々俺は電話に出る。 「……はい、もしも」 『齋籐? 今どこ?』  ……早い。電話越しに食い気味で問い詰められ、咄嗟に俺は「自室だよ」と答えてしまう。 『一人?』 「……そうだけど」 『阿賀松たちは? 一緒じゃないの?』  ……どうやら、喫茶店で俺が阿賀松たちと揉めていたことを志摩も聞いたようだ。だから電話を掛けてくれたのか。 「うん」とだけ答えれば、そこでようやく志摩がほっと息を吐いたのが分かった。 「あの……志摩、今どこ?」 『教室の前だよ、今から休憩。……戻ってくるなり齋藤が阿賀松たちに連れられてどっか行ったって聞いて心臓停まるかと思ったよ。……ねえ、無事なの?』 「無事……かな」 『なんでそこ歯切れ悪いの?』 「……ごめん、心配掛けて。けど、本当用件だけ言えばさっさと帰っていったから……」 『……ならいいけど、本当あいつらなんのつもりなわけ? よりによって人が抜けてる時間に……』  縁のことだ、志摩がいると面倒だからわざと居ない隙きを狙ってそうな気もするが……。確かにあの場に志摩がいたら悪い意味でも悪化するだろう、そう思えばあのときはいなくてもよかったのかもしれない。  受話器越し、ぶつくさと吐き捨てる志摩の声を聞きながら俺は「そうだ」と思い出す。 「ねえ志摩……教室の中に十勝君か会長いない?」 『……なんで?』  あくまでさり気なく聞いたつもりだったが、明らかに志摩の声のトーンが落ちる。やはり、元とは言えどアンチ生徒会の人間に対し生徒会役員の話はタブーのようだ。わかってはいたが、これが手っ取り早い。 「いたらでいいんだ。芳川会長に『さっきのは嘘だから仕事に戻ってください』って伝えておいてくれないかな」 『どういう意味?』  やはり食い付いてきた。想定内ではあるが、ここまで来るとわかりやすさもある。 「……え、あれ……志摩、学園祭一緒に回るんじゃなかったっけ?」  我ながら大根役者だとは思う。なるべく白々しくならないように聞き返せば、電話越しに志摩が沈黙する。 『……一緒に、回ってくれるの?』  勘繰ってることを隠そうともしない志摩。朝誘ってきたのは志摩なのに、何故弱気なのか。 「志摩と約束したからね」と答えれば、再び志摩は押し黙った。  そしてやや間が合って、『わかった、伝えておくよ』と志摩はいつもの調子で答える。 『今自室なんでしょ? 迎えに行こうか、俺』 「え、いやいいよ、そんな」 『なんで? なにか都合悪いの?』 「志摩も休憩中なんだよね……? クラスから寮まで遠いし、それに俺も携帯の充電溜まったらすぐ戻る予定だから……」 『は? また充電切れてたの? ……ちゃんとこまめに充電しなって俺言わなかったっけ?』 「う……それは、その……」  以前も似たようなことがあったのも確かだ、志摩の言葉もごもっともである。  しばらくそんな他愛のないやり取り(説教をされるとも言う)をし、俺は志摩との通話を終えた。  やはり、芳川会長は教室にいたようだ。本当は会長に電話を代わって貰うのが一番手っ取り早かったのだろうが、志摩にそれを言ったらどういう反応をされるか目に見えていたので伝言で済ませることにする。  それにしても、志摩が本当にちゃんと芳川会長に伝えてくれるかわからなかったが……先程のリアクションから考えると恐らく皮肉混じりに俺の話を伝えてくれるに違いない。  本気で志摩と学園祭を回るつもりはなかったが、成り行きだ。仕方ない。  これからのことを考える。ひとまず十勝には悪いがこのまま十勝には一人で仕事をしてもらおう。  携帯の充電が溜まり次第志摩に連絡する。……それまでの間なにをするか考えていなかった俺は、ひとまずシャワーを浴びることにした。  それから暫く、半分ほど充電が溜まったのを確認して俺は部屋を出た。

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