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05

 学生寮一階、ロビー。  エレベーターを使って降りれば、相変わらず人気のないそこには志摩がいた。 「シャワー浴びてきたの?」  俺の姿を見付けて開口一言、志摩はそんなこと言いながら顔を近付けてくる。  なんでわかったんだ。犬かなにかなのだろうか。図星を指され思わず目を丸くしてると、志摩は「シャンプーの匂いがしたから」と笑った。 「そういや小腹減ってない?」 「……少し」 「じゃあよかった。屋台はいくつか閉まってるようだけど、どこか一つくらいはやってるでしょ。齋籐はどういうの食べたい?」 「じゃあ、志摩のオススメで……」 「俺の?」と志摩は驚いたような顔をした。それから少しだけ考え込む。 「……そういえば客がどっかのクレープが美味しいって言ってたけど……あれ、確かサッカー部だったかな。保証はできないけど行ってみる?」  志摩、確か甘いの駄目なんじゃなかったっけ。  そんなことを思ったが、こうして志摩が提案してるということはクレープは平気なのだろうか。分からないが、俺には不満もなにもない。うん、と小さく頷き返した。  ――学園敷地内、ラウンジ。  普段置かれているテーブルや椅子は飲食スペースを除いて全て退かされ、代わりに出店が並んでいた。けれど、その出店も半分ほど閉まっているようだ。 「……まあ、こういうときもあるよね」 「他に、クレープ売ってるところないか探してみるよ」 「え?や、いいよそこまでしなくて」 「でも齋籐クレープ食べたかったんじゃないの?」 「そうだけど……えっと、俺は別に……志摩と一緒に食べられるやつならなんでもいいよ」  どうやら期待させてしまったことに対し負い目を感じているようだ。申し訳なさそうな顔をする志摩に、そう俺は慌ててフォローを入れる。 「なんでも?」 「あ……いや、なんでもっていうか……ほら、学園祭っぽいのなら」 「ふうん。学園祭っぽいのね、お好み焼きとか?」 「うん、そういうのでも。……形似てるし」 「全然違うでしょ。齋籐って結構いい加減だね」 「……えっと、いや?」 「好きだよ」 「……」  お好み焼きの話をしていたはずだが、なんだか恥ずかしくなって思わずうつむいた。  ――今のところ、芳川会長からのコンタクトはない。  志摩とともに校舎内を彷徨くこと暫く。  出入り口に向かって歩き出す一般客と擦れ違うようにして広い校内を見回っていると、隣を歩いていた志摩が「あ」と足を止める。 「齋籐、焼きそばだよ」  広い廊下のスペースに設けた休憩所の前だった。  ちょいちょいと制服の裾を引っ張ってくる志摩につられて顔をあげれば、そこには確かに大きな文字で『焼きそば』と書かれた暖簾を掲げる屋台があった。  ……焼きそば。お好み焼きを探してたのではなかったのだろうか。気になったが、志摩は焼きそばが食べたいらしい。 「俺、ちょっと行ってくるからそこで座って待っててよ。齋藤も焼きそばでいい?」 「あ、うん……」  一緒に行こうと声を掛ける暇もなかった。  そのまま歩いていく志摩を一瞥し、再び屋台に目を向ける。奢ってもらうのは悪いし先に金額用意しておこうと財布を開けば、丁度小銭を切らしているところだった。  両替できそうな場所ないだろうかと辺りを探れば、目的のものはすぐに見つかった。  ――トイレ前。並ぶ自販機へと向かう。  ついでに志摩の分の飲み物も買っておこう。志摩がどんな飲み物を好むかわからなかったが適当にお茶選んどけばなんとかなるはずだ。  手にした千円札を入札口に入れようとし、手からひらりと落ちる。それを咄嗟に拾おうとしたときだった。  ふと横から伸びてきた手に拾われる。そしてそのままこちらへと差し出してくるその手に、「ありがとうございます」と一礼し、受け取ろうと――そのまま固まった。 「どーいたしまして、佑樹先輩」  そう唇の両端を釣り上げて笑みを浮かべる茶髪プリンの青年。知らないはずなのになんでだろうか、酷い既視感を覚えるそのどこかキツそうなイメージすらある整った顔。声。 「すっげー久し振りじゃん、先輩」 「さっさっ……櫻田君……?」  いつの日かの聞き覚えのある声とともに蘇る嫌なメモリアルの数々に、全身から血が引いていく。  恐る恐るその青年の名前を呼べば、やつはにいっと唇の端を持ち上げイヤな笑みを浮かべた。 「大せいか~~い」 「…………っ」  考えるよりも先に体が動いていた。  咄嗟に櫻田の手を払いのけ、俺はそのまま櫻田の前から脱兎の如く駆け出した。  一瞬櫻田なのかどうも分からなかった。それが狙いなのだろう、もし五味たちがまだいつもの女装した櫻田を探しているとしたら見つからないわけだ。  華のある容姿だとはいえ、普段の女装のインパクトが強すぎて俺も一瞬わからなくなるほどだった。  ただひたすら走る。走るというよりも前のめりになって倒れないように死に物狂いで足を動かしているといった方がいいような、あまりにも不格好な走り方だった。怖くて後ろなんて振り返れなかったが背後から聞こえてくる足音は間違いなく櫻田のものだろう。  ーー昼間のピークに比べると閑散とした廊下の中。  賑やかさの余韻を残し、祭り後独特のゆったりとした空気が流れるそこをバタバタと駆ける俺に通りかかった生徒や一般客が何事かと目を向けてくる。  恐らく学園祭でハメを外した男子高生がはしゃいでいるとぐらいでしか受け止められていないのだろう。迷惑そうな顔で見られるだけで誰一人注意してこない。俺としては先生か誰か呼んできてもらいたいところだが、そうするにはもっと人通りの多いところにいかなければならない。  が、そんなことしてる間にこちらの体力がなくなりそうだ。ジリ貧である。  なんだか最近よく人に追いかけ回されているような気がする。もうどれくらい走ったかわからない。  頭の中でごたごた現実逃避をしている間に更に周りから人気はなくなり、自分がどこにいるかすら判断が追い付かない状態だ。  対する背後の足音は更に近くなっている。  体力勝負で勝つ自信はない。どこかで櫻田を撒かなければ。頭では思うが、なかなかいい場所が見付からず思考ばかりが焦る。  咄嗟に視線を巡らせ、俺は数メートル先に男子便所を見付けた。  男子便所には個室があるはずだ。そこに閉じ籠って櫻田を引き付けている間に外部と連絡を取り、櫻田を会長たちに引き渡す。  そんなシナリオを頭の中で思い浮かべてはみるが、一歩間違えれば袋の鼠だ。  しかし、このまま逃げても体力がなくなって捕まるわけにはいかない。勝算を考える余裕なんて俺にはなくて、とにかく櫻田をどうにかしたい俺は迷わず男子便所へと駆け込んだ。  男子便所には一般客が数人たまっていて、全力疾走で駆け込んできた俺を見て何事かという顔をした。  それを無視して、適当な空いた個室の扉を開いた俺はそのまま中に入る。慌てて閉めようとしたとき、隙間から櫻田の指がにゅっと入り込んできて「ひっ」と息を飲む。そのまま櫻田の指を剥がし、慌てて扉を閉めた。 「おいっ! ふざけんなてめぇ! 出てこいっつってんだろ!!」  ドンドンと扉が叩かれ、凄まじい音が便所に響いた。なんだ、何事かと便所の外がざわつくのを感じながらも俺は急いで鍵を閉め、携帯端末を取り出した。  連絡先を開けば、志摩と阿賀松の名前が表示される。どうしよう、どちらに助けを求めればいい?  この場合志摩に助けを求めた方がいいのだろうが、志摩の場合色々ややこしくなりそうだし……だからといって阿賀松は助けてくれなさそうだし。  こうなったらもう志摩に連絡を取るか。そう思った矢先、携帯の画面が切り替わる。  表示された志摩の名前と番号。  なんというタイミングだ、志摩からの着信だった。 「も……もしもし」  蹴られる度に軋む扉を背で必死に押さえながらも電話に出れば、『齋籐?』と雑音混じりの志摩の声が聞こえてくる。 『なに、ちょっと今どこにいるの? すごい煩い』 「今はトイレ。ちょっと変なのに絡まれたから逃げてるんだけど……」 「誰が変なのだ! 犯すぞテメェ!!」  なるべく声を潜めていたのだが丸聞こえだったようだ。大きく扉を蹴られ、留め具の部分がめきりと嫌な音を立てる。 『なに? どうしたの?』  飛んでくる罵声にただ事ではないと理解したようだ。端末から驚いたような志摩の声が聞こえてくる。  そして再び櫻田の蹴りで大分ダメージを受けたらしい扉が大きく揺れた。 「ご……ごめん、あのさ、ここ今どこかわかんないんだけど。取り敢えず一階の男子トイレにいるから誰か、先生呼んできてもらって……」  言い終わる前に、金具が落ちるような音が聞こえてくる。  やばい、やばい。あり得ない。この学校の便所の扉の耐性はどうなってるんだ。無駄な設備を整える前に便所のセキュリティ強化をしてくれ。  咄嗟に携帯端末を制服に仕舞った俺は、慌てて扉の前から移動した。そして次の瞬間、外開きの扉は無理矢理内開きにされ、そのまま吹っ飛んだ。そう、吹っ飛んだのだ。  本来扉があった場所から伸びる無駄のない長い足のシルエット。それがゆっくりと下ろされ、なにもなくなったそこから男装した櫻田がこちらを覗き込んだ。下手なホラーよりも恐ろしかった。  咄嗟になにか身を守れるようなものがないか探してみるが、予備のトイレットペーパーぐらいしか見当たらない。パニックになり、トイレットペーパーを掴んだときだ。伸びてきた櫻田に肩を掴まれそのまま乱暴に壁に叩き付けられる。背中を強打し、鋭い痛みとともに背骨が軋んだ。 「痛……ッ!」 「んだよ、せっかく可愛い後輩が会いに来てんのに逃げんなよ。……鬼ごっこは楽しかったけどな」 「な、先輩」と邪悪な笑みを浮かべる櫻田。その額に浮かぶ青筋に、1ミリも笑っていないその目に、血の気が引く。  とにかく、櫻田の誤解を解かなければならない。  この男はまだ話せば分かるはずだ、俺が芳川会長を売ったわけではないと誤解さえ解ければまだ話が通じるのでは……。  そう思案した矢先、思いっきりガシッと顔面を鷲掴みにされる。 「んう……ッ」 「この口か? 会長とキスしまくった口はこの口かよ、なあ」 「さ、くらだく……ッ、ぉ、落ち着いて……」 「ああ? 落ち着いてだぁ? 落ち着いてるっての、俺は……死ぬほど冷静だぞ」  ぐぐっと頬に櫻田の指がのめり込む。これが冷静なら、殆どの人間が冷静ということになる。 「櫻田君」と必死にその腕を掴もうとしたとき、唇を塞がれた。いや、なんでだ。 「ふっ……う、んん……っ」  何故、なんで。という俺の疑問符は噛み付くような口付けに吹き飛ばされる。  身動ぎをし、必死に櫻田の腕の中から抜け出そうとするが、舌を絡め取られてしまえば思うように力が入らなかった。 「っふ、ぅ……ッ」 「芳川会長につけ込んでどういうつもりだ? お前、あのいけすかねえ赤髪と付き合ってたんじゃねえのかよ」 「っ、そ、れは……」  櫻田からしてみれば俺は阿賀松から芳川会長へと乗り換えたとんでもないやつと思われてるということか。……正直、それは間違いではない。  それでも、芳川会長には協力してもらってるだけだと言ってしまえば今日までのなにもかもが台無しになってしまう。  でも、このまま黙秘したところで櫻田の怒りはおさまらないだろう。  ここはもう、櫻田の気が収まるまで殴ってもらった方がいいのだろうか。そんな思考すら働き始めたときだった。  いや、このあとのことを考えたら被害は最小限に留めておくべきだ。諦めるよりも先に、咄嗟に俺は「誰か助けてくださいっ!!」と声を上げた。  誰でもいい、志摩ならもっといい。 「だれか……ッん、ぅ……ッ!」 「て、テメでけえ声出すんじゃねえ!!」  お前の方が大きな声出してるじゃないか、などと言ってる場合ではない。大きな手のひらに鼻ごと口元を覆われ、息苦しさに堪らず目を見開いたときだった。  かつり、と足音がこちらへと近付いてくる。  そして。 「うわ。すごいな、……これぶっ壊れてるじゃん」  聞こえてきたのは志摩の声ではなかった。  緊張感のない軽薄な声。その声を聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。  一瞬、聞き間違えかと思った。或いは幻聴。そう思えるほど、その声は俺の知っている声に酷似していた。  いや違う、そんなはずはない。そう、必死に自分を宥めようとしたときだった。  本来扉があったはずのそこからひょっこりと顔を覗かせたとは私服姿の一般客らしき青年だった。 「あれ? もしかして人呼んだ方がいいかな」  見慣れていないはずなのに、どこか見覚えがある、どこにでもいるような好青年。そいつはそうあくまでも軽い調子で声をかけてきた。  鷹揚はあるが、どこか冷たい印象のあるその涼しい声。……それは、数年前嫌と言うほど聞いてきたそれと変わらないものだった。変わった点をあげるならば、少しだけ声が低くなっていたくらいだろう。  その声を聞いた瞬間、弾けたように脳裏に昔の記憶が蘇る。ごく最近の、転校する前のあの忌々しい黒歴史の数々。その中でももっとも登場し、活躍していたあの男と青年が重なった。  ――なんで、なんであいつがここにいるんだ。  無造作に流した黒い髪に涼しい目元。  髪型も違うしただの他人の空似の可能性もある。第一有り得ない、あいつがいるなんて。  そう自分に言い聞かせるが、あまりにも似すぎていた――声と顔が。 「ああ? なんだお前、こっちはお取り込みちゅーなんだよ。見てんじゃねえ」  どこぞのチンピラのように一般客にまで絡み出す櫻田のお陰で現実に引き戻される。  そうだ、あいつがここにいるわけがない。だったあいつはもう日本にはいないはずなのだ。  ならば、今俺がすべきことはひとつだ。 「誰か……っ人を……!」 「あっ、おい! 余計なこと言ってんじゃねえよ、クソッ!」  殴られそうになり、咄嗟に受け身を取るが遅かった。反動で頭を後頭部にぶつけ、目の前に無数の火花が飛ぶ。やばい、これは……たんこぶになった。そう、そんな矢先だった。 「――なんの騒ぎだ」  続いて聞こえてきた声に、俺も櫻田も固まった。  水を打ったように静まり返る個室内、一般客の背後から現れたその人に俺は「会長」と声を漏らす。  ウサギの着ぐるみ、ではなくラフな服を着た生徒もとい芳川会長に俺たち三人の声が綺麗に重なる。  ……三人? 「……どういう状況だ、これは」  吹っ飛んだ扉と俺達を交互に見た芳川会長はそう低く吐き捨てる。その眉間に深く皺が刻まれていた。  そんな会長とは対照的に目を輝かせるやつ約一名。芳川会長に向かって「かいちょ~!!」とそのまま両手を広げ抱き着こうとし、躱されていた。  バランスを崩す櫻田の首根っこを捕まえ、更に芳川会長は怪訝そうな顔をする。 「……お前、櫻田か」 「はいっ! 貴方の櫻田洋介です! ずーーっと会いたかったんすよ! 会長全然会ってくれなかったから本当寂し……」 「十勝、こいつを指導室に連れていけ」  そしてそう一言。ネクタイを引き抜いた芳川会長はそのまま櫻田の腕をキツく縛りあげる。え、と固まる櫻田。十勝も外にいたようだ、「ええっ! 俺っすか?!」と露骨に嫌がる十勝に向かって半ば強引に捕縛された櫻田を引き渡す。見事な早業であった。  ……一先ず、助かったのだろうか。  何事かと野次馬たちが集まる中、芳川会長は隣にいた一般客に振り返る。 「悪いな。ちょっと野暮用が入ったから俺の代わりを呼ばせてもらおう」 「ええ、俺は別に構いませんよ。こちらこそお忙しいところにわざわざ付き合わせちゃってすみません」 「気にしなくていい。この広さだと確かに一人では無理だろうだからな」  他人の空似だと分かっててもあまりにも“あいつ”にそっくりなお陰で俺はろくにその場から動くことができなかった。 「会長ーっ! 俺はこんなちゃらんぽらんよりも会長といたいのに!」 「誰がちゃらんぽらんだ! 誰が! お前も俺も似たような……いやお前の方が大分ちゃらんぽらんだろ!」  なんて言い合いしながら十勝に引きずられていく櫻田。騒ぎの根源である櫻田がいなくなったことによりあっという間に野次馬たちは散っていく。  俺と芳川会長とあいつだけがその場に残された。  携帯端末でどこかへと連絡を入れる芳川会長は、そのまま青年に向き直る。 「では、すぐに代わりが来るだろうから外で待っててくれ」  芳川会長の言葉に、青年は「どうも」と猫のように微笑んだ。  ――やはり、似すぎている。  細められた目から覗く色素の薄い瞳、唇の両端をつり上げただけの笑い方などなにもかもが。それでもあいつはこちらに気付いていない。あれから何年も経った、俺も俺で髪型を変えたり身長も伸びたりもした。それでも。  他人であってくれ。そう、二人が出ていくのを待っていた時。芳川会長の前から立ち去ろうとしていた“そいつ”がこちらを見た。 「でも大丈夫ですか? その人」  心臓の奥から底冷えしていくようだった。  あいつの視線から逃れるように俯く俺に変わって、芳川会長は「君が心配する必要はない」とぴしゃりと言い切るのだ。 「……彼からは事情を聞かなければならないからな、悪いが二人きりにしてもらえるか」 「ああ、そういうことですね。わかりました」 「廊下で待っててくれ。灘というやつが今からこちらにやってくる」 「はーい」と人良さそうな笑顔を浮かべ、青年はそのまま出ていった。  何事かと駆け付けてきた教師に芳川会長は簡易な説明をし、それが終わって芳川会長はこちらへと向かってくる。 「大丈夫か?」と尋ねられ、俺は頷き返すことが精一杯だった。  櫻田のことはまだいい。けれど……。 「悪かったな、まさか君に迷惑をかけることになるとは……すまない。俺の不始末のせいだ」 「……いえ、俺は大丈夫なんですけど……あの、さっき一緒にいた人って」  出来ることなら掘り返したくないし、なにも見なかったことにしたかった。他人の空似だと思いたかった。けれど、そうするにはあまりにも俺の心をかき乱すのだ。  ……俺はあの男を知っている。  しかし、他人の空似という可能性もなくはない。  違うなら違うでいい。とにかく確信が欲しかった。 「さっき一緒にいた人……もしかして、ヒトセ君のことか」  その会長の言葉に、疑惑は確信へ変わる。  ヒトセ。俺の記憶が正しければ、漢字は数字の壱に単位の畝で壱畝。――壱畝遥香。  間違いない。中学のとき、俺の前に現れたあの男だ。  指先から熱が抜け落ちていく。だとすれば、どうしてあいつがここに。嫌な汗が流れ、それを拭う。会長は俺の次の言葉を予測したように続けた。 「来週からうちに来るらしくてな、今日はその下見に来たらしい。色々なところを転々としてきているらしいが、そう言えば君がいた中学にも一時期通っていたと言っていたな」 「……え?」 「なんだ、もしかして知り合いだったのか。……なら呼び戻してこようか」  さらりととんでもない爆弾を放り込まれ、一瞬返答に遅れてしまう。俺は「違います」と声を上げた。想像以上に大きな声がでてしまい、会長が驚いたように目を開くのを見て俺は咄嗟に咳払いをした。 「いえ、あの、ちょっと知り合いに似てたんですが……気のせいでしたんで」 「そうか。まあ、彼も君と同じで周りに知人がいないようだからな。出来たら仲良くしてやってくれ」  ……冗談じゃない。なんで、なんで。  なんであいつがまた俺の前に現れるのだ。 『来週からうちに来る』という会長の言葉が頭の中で延々と回っていた。転校してくるってことか?なんで?あいつが? 「俺も話してみたが彼は気さくで親しみやすい男だ。君も、すぐに仲良くなれるはずだろう」  ……ああ、と思った。この言葉も、やり取りも、全て身に覚えがある。あいつと話したやつは皆そういうのだ。  それでも、芳川会長だけには“そう”なってほしくなかった。  足元から無数の虫が全身を這い上がってくるような不快感恐怖感焦燥感不安感。記憶の奥深く、忘れかけていた吐き気に似た感情が込み上げてくる。  ……あいつの常套手段だ。 「そう……なんですか」  ……壱畝遥香(ひとせはるか)。  俺がまだ中学にいたときも、壱畝は転校生として現れた。そして、転校した。  俺の記憶が正しければ同じクラスには一年もいなかったはずだ。三年に上がる前に転校という形でやつは俺の前から姿を消した。  中学の頃のあいつはもっと明るい髪色だったから一瞬本人か分からなかったが、耳障りのいい通る声も愛想笑いも全てあまりにもそのままだったのだ。  その壱畝がまた転校生として現れる。  中学のときとはまるで状況が違う。  それに、確かあのとき壱畝は俺に気付いていなかったはすだ。きっと髪型変えたのがよかったのかもしれない。  恐らく、このままの調子でやり過ごそうとすればなんとかなるだろう。  それに、同じ転校生でも俺と壱畝は違う。中学のときに比べ、少なからずこの学園には助けてくれる人がいる。……そう、思いたい。  しかし、その対象である芳川会長が壱畝に好意的だと思うと恐ろしかった。あいつは平気で味方を奪う。そんなやつだ。 「どうした、どこか痛むのか?」 「……あ、頭と……背中を……少し打ってしまって」  とにかく、会長には悟られないようにしなければ。と思った矢先、近付いてきた芳川会長に後頭部をそっと撫でられる。壁にぶつかった箇所を触れられ、びりっとした痛みに思わず固まった。 「痛……っ」 「コブになってるな。取り敢えず、ここを出るぞ。……保健室に氷嚢を貰いに行こう」 「あ、お、俺……一人でも大丈夫……」  です、と言いかけたとき。肩をやんわりと掴まれる。 「今の今で君を一人にするはずがないだろう。俺も行く」 「……っ、い、忙しいんじゃ……」 「あとのことは灘に任せているから問題ない。……それよりも、君は俺の業務の心配よりも自分の心配をしてくれ」  いいな、と念を押すように問いかけられ、俺はこくこくと頷くことで精一杯だった。  ……会長に甘えっぱなしになるのはよくないと分かっていたが、会長の言葉には不思議な力があった。説得力とも違う、逆らえないのだ。  俺は芳川会長に支えられるように保健室へと向かうことになる。

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