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02
酷い悪夢を見ているようだった。
いや、まだ悪夢の方が何倍もましなのかもしれない。
「初めまして、齋藤君」
壱畝の口から出てきたその言葉に制止する。
いま何と言ったのか、この男は。
まるで、あの時と――初めて会った時と同じように嘘くさい笑顔を貼り付け、奴はこちらに向かって手を差し出してきたのだ。
「よろしく、齋藤君」
本気で忘れたというのか、俺の顔も。
繰り返す壱畝に、俺はすぐ反応することが出来なかった。
たかが二、三年。それでも俺達が同じ教室にいたのは一年も満たない間だった。それでも、俺は壱畝の顔を忘れたことなどなかった。一度たりとも。忘れたくて何度も記憶に蓋をしようとしても敵わなかった。
それなのに、この男は俺の顔を忘れたのか。
「おいどうした、佑樹」
反応できずにいると、心配そうに担任に声を掛けられてはっとした。
そうだ、もし忘れられているというなら寧ろまだいいではないか。なにをやっているんだ、俺は。
ここは不審がられないようにしなければ。この男に気付かれてしまえば、今度こそ俺の学園生活は終わりだ。
「すみません。その……よろしく」
なるべく壱畝と視線が合わないように気をつけながら、俺は差し出されたその手を取った。ひんやりとした乾いた手。にこやかに笑う壱畝に手を握り返される。瞬間、思い出したくもない記憶が脳裏をよ過ぎり、耐えられず俺は早々にその手を放す。
「じゃあ後は任せたぞ、佑樹。佑樹も転校生仲間だから転校初日の流れは大体わかるだろ? ま、なにか分からないことがあったらいつでも職員室まで来いよ!」
そんな俺達の様子を見た担任は言いたいことだけを言い、立ち去った。
最後の最後に余計な爆弾を残して。
「……へえ、齋藤君も転校生なんだ?」
出身地や母校について聞かれたらうまくごまかせる自信などない。
聞き流しててくれ、と願った矢先に詰め寄られ全身に嫌な汗が滲んだ。
よくいる名前、他人の空似でごまかすしかないのに。
じっとこちらを覗き込んでくるその目が心の中まで見透かしているようでただ恐ろしかった。
早く、早く何か答えなければ。そう必死に退路を探っていた時だった。
「一緒だ」
壱畝遥香は、そう笑った。そう、笑った。笑っただけだった。後はなにも言わなかった。
「え……」
「ああそうだ。部屋、荷物入れていい?ここに置きっぱなしにしてたら流石に交通の邪魔になりそうだしさ。取り敢えず一時避難って感じで」
「あ……う、うん。いいけど……」
「ありがと。じゃ、お邪魔します」
――壱畝遥香は俺に気付いていない。
本来ならば喜ぶところなのだろう。これからこいつと相部屋になってしまった今、壱畝が俺を覚えていないのはかなり有り難い。寧ろ、一生忘れていてほしい。わかっているし、いままでだってそう強く願った。
それなのに、これから俺だけがいつ壱畝が思い出さないかと一晩中怯えて過ごさなければならないと思うとただ気が遠くなる。目の前が真っ暗になっていくような……。
「齋藤君」
そのとき、真正面から壱畝に顔を覗かれ背筋が凍り付いた。
「うわっ!」と思わず声を上げ飛びのけば、壱畝も「うお」と驚いたような顔をする。そしてすぐおかしそうに笑った。
「ああ、悪い。驚かせるつもりはなかったんだけど。思ったより一人で運ぶのしんどかったから、齋藤君にも手伝ってほしいなって思って」
ダメかな、なんて猫被る目の前の男に俺は言葉に詰まる。
正直昨日まで阿賀松に付き合わされたおかげで満身創痍に等しいが、こうして壱畝と顔を突き合わせるくらいならば肉体労働する方が遥かにましだった。それに、断った後のことを考えるとぞっとしない。
俺は「いいよ」とだけ答えた。
そしてその選択はすぐに後悔することになった。
酷い悪夢を見ているようだった。
いや、まだ悪夢の方が何倍もましなのかもしれない。
「初めまして、齋藤君」
壱畝の口から出てきたその言葉に制止する。
いま何と言ったのか、この男は。
まるで、あの時と――初めて会った時と同じように嘘くさい笑顔を貼り付け、奴はこちらに向かって手を差し出してきたのだ。
「よろしく、齋藤君」
本気で忘れたというのか、俺の顔も。
繰り返す壱畝に、俺はすぐ反応することが出来なかった。
たかが二、三年。それでも俺達が同じ教室にいたのは一年も満たない間だった。それでも、俺は壱畝の顔を忘れたことなどなかった。一度たりとも。忘れたくて何度も記憶に蓋をしようとしても敵わなかった。
それなのに、この男は俺の顔を忘れたのか。
「おいどうした、佑樹」
反応できずにいると、心配そうに担任に声を掛けられてはっとした。
そうだ、もし忘れられているというなら寧ろまだいいではないか。なにをやっているんだ、俺は。
ここは不審がられないようにしなければ。この男に気付かれてしまえば、今度こそ俺の学園生活は終わりだ。
「すみません。その……よろしく」
なるべく壱畝と視線が合わないように気をつけながら、俺は差し出されたその手を取った。ひんやりとした乾いた手。にこやかに笑う壱畝に手を握り返される。瞬間、思い出したくもない記憶が脳裏をよ過ぎり、耐えられず俺は早々にその手を放す。
「じゃあ後は任せたぞ、佑樹。佑樹も転校生仲間だから転校初日の流れは大体わかるだろ? ま、なにか分からないことがあったらいつでも職員室まで来いよ!」
そんな俺達の様子を見た担任は言いたいことだけを言い、立ち去った。
最後の最後に余計な爆弾を残して。
「……へえ、齋藤君も転校生なんだ?」
出身地や母校について聞かれたらうまくごまかせる自信などない。
聞き流しててくれ、と願った矢先に詰め寄られ全身に嫌な汗が滲んだ。
よくいる名前、他人の空似でごまかすしかないのに。
じっとこちらを覗き込んでくるその目が心の中まで見透かしているようでただ恐ろしかった。
早く、早く何か答えなければ。そう必死に退路を探っていた時だった。
「一緒だ」
壱畝遥香は、そう笑った。そう、笑った。笑っただけだった。後はなにも言わなかった。
「え……」
「ああそうだ。部屋、荷物入れていい?ここに置きっぱなしにしてたら流石に交通の邪魔になりそうだしさ。取り敢えず一時避難って感じで」
「あ……う、うん。いいけど……」
「ありがと。じゃ、お邪魔します」
――壱畝遥香は俺に気付いていない。
本来ならば喜ぶところなのだろう。これからこいつと相部屋になってしまった今、壱畝が俺を覚えていないのはかなり有り難い。寧ろ、一生忘れていてほしい。わかっているし、いままでだってそう強く願った。
それなのに、これから俺だけがいつ壱畝が思い出さないかと一晩中怯えて過ごさなければならないと思うとただ気が遠くなる。目の前が真っ暗になっていくような……。
「齋藤君」
そのとき、真正面から壱畝に顔を覗かれ背筋が凍り付いた。
「うわっ!」と思わず声を上げ飛びのけば、壱畝も「うお」と驚いたような顔をする。そしてすぐおかしそうに笑った。
「ああ、悪い。驚かせるつもりはなかったんだけど。思ったより一人で運ぶのしんどかったから、齋藤君にも手伝ってほしいなって思って」
ダメかな、なんて猫被る目の前の男に俺は言葉に詰まる。
正直昨日まで阿賀松に付き合わされたおかげで満身創痍に等しいが、こうして壱畝と顔を突き合わせるくらいならば肉体労働する方が遥かにましだった。それに、断った後のことを考えるとぞっとしない。
俺は「いいよ」とだけ答えた。
そしてその選択はすぐに後悔することになった。
壱畝の荷物は多かった。段ボール数箱に、キャリーバッグ。こんなに何が入っているのか考えたくもなかった。
悲鳴を上げる全身の筋肉を駆使し、すべての荷物を運び終える。
最後の段ボール箱を空いたスペースに置いたとき、壱畝は開きっぱなしになっていた扉を後ろ手に閉める。そしてこちらに近づいてきた。
「これで最後だな。いやー助かったよ齋藤君、ありがとうな」
「お、俺は別に……」
用は済んだ。これ以上こいつに付き合う必要はないはずだ。適当に切り上げ、この部屋から出ていこう。
そう近付いてくる壱畝から逃げようとした矢先、伸びてきた壱畝の手が俺の肩を掴んでくる。
「っ、な、なに……」
「いや、ほんとにさ……まじで手伝ってくれるんだもん。驚いた」
「ひ、とせく……」
「ハルちゃんだろ、ゆう君」
肩口に食い込む指先、そしていつの日かと同じやり取りに全身から血の気が失せていくそうだった。先ほどまでの嘘くさい笑顔ではなく、俺の知っている、俺だけが知る壱畝がそこにいた。
「ああその顔、本当に忘れたわけじゃなさそうだな。安心したよ。もし、本気で俺のこと忘れたなんて言ったらどうしようかと思ったけど……」
声を発する暇もなかった。強く腕を引っ張られ壱畝の前まで引きずり戻されたと思いきや、目の前、伸びてきた指先に思わずぎゅっと目を瞑った。が、一向に予測していた痛みはやってこなかった。
その代わり、頬に触れる指先に全身が泡立つ。
「久し振り、ゆう君。会わなかった間に随分と大きくなったな」
「ちが、俺は……ひ、ひと、違いで……」
「……人違い?」
声のトーンが落ちる。それでもこの展開だけは避けなければならない。
その一心でコクコクと何度も頷き返せば、「ああ、そっか」と壱畝は笑った。そして次の瞬間、焼けるような衝撃に視界が赤く染まった。
下腹部、内臓ごと抉るような強烈な一撃。脈絡もなくやってきたそのパンチを防ぐ術など俺にはなかった。
「う、ぁ゛……ッ!!」
痛みを痛みと認識するには時間がかかった。
下腹部から力が抜け落ち、殴られた腹を抑えたまま蹲ろうとすれば、壱畝に前髪を掴まれ顔を覗き込まれる。
「本当、ゆう君は変わってないな。……本気で俺のこと誤魔化せると思うとか、相変わらず頭悪すぎだろ」
「ここまでくると、寧ろ安心するよ」ああ、やっぱり、やっぱりか。こいつ、気付いてて初対面のフリしたのか。
「ち、が、お……俺……」
痛みは腹部から全身へと広がっていく。咥内にじわりと唾液が滲んだ。痛みと恐怖、動揺で思考は絡まった糸のように乱れ、何も考えられなくなる。
それでも俺、と震える唇を開いたとき、俺は壱畝の表情から笑みが抜け落ちるのを見てしまった。
「つまらない冗談は嫌いだって前も言ったよな」
「っ、ご、ごめんなさ……っ」
殴られる。再び拳を作る壱畝を見て、考えるよりも先に腕で頭を覆った。が、一向に壱畝に殴られることはなかった。
それどころか暗くなった視界では壱畝が笑う気配がした。
「なにがごめんなさいだよ。なら、最初から噓吐くなっていつも言ってただろ」
「まさか、これも忘れたなんて言わないよな」そうすっと目を細める壱畝。口元は笑みを浮かべているのにその目は笑っていない。
下手なことを言えば、また殴られる。壱畝はそういう男だ。そう分かっていたからこそ俺は何も言えなかった。
「……ご、めんなさい……ッ」
ただ、謝罪を繰り返せば壱畝ははぁ、と深いため息を吐く。そして、俺から手を離した。
一人で立つことなど出来なかった。四肢から力が抜け、俺はその場に座り込んだ。そんな俺を後目に、壱畝は「本当、何も変わってないな」と吐き捨てる。
そして、
「いつまでそうしてんだよ」
立てよ、と壱畝は暗に言っているのだろう。たった一言、それだけでこいつの思考までも理解できてしまう自分にただ反吐が出そうになる。
そして、その一言に逆らうことすらもできない自分に。
痺れる下腹部に力を入れ、無理矢理立ち上がれば「おせーよ」と壱畝に蹴られる。転倒しそうになるが、壱畝に首根っこを掴まれ寸でのところで耐えた。
「ゆう君、俺、まだこの寮のこと何もわかんないんだけど?」
「ッ、え……」
「え、じゃねえよ。察し悪すぎ」
「いまからここ、案内してくれるよな。友達思いの優しいゆう君は」最初から俺に拒否権を与えるつもりなど毛頭ないくせに、壱畝は試すような物言いをしてくる。
――最悪だ、本当に。
締まる襟首。息苦しさに耐えられずにわかった、と何度も頷く俺に壱畝は満足げに笑った。
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