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08
会長とともに買い出しを済ませ、飲み物を調達した俺は再び303号室へと戻ってきていた。
部屋の外まで賑やかな声が聞こえてくるその扉を開けば、玄関口で待機していたらしい志摩が出迎えてくれる。
「おかえり、齋籐」
「と会長さん」思い出したようなわざとらしい言い方をする志摩だが、対する会長は気にも留めていないようだ。ああ、とだけ頷き返してそのまま芳川会長は先に歩いていく。
買ったものは芳川会長が持ってくれたおかげで俺は手ぶらだった。
なにからなにまで会長にお世話になるのも申し訳ない。片付けくらいはしようと部屋へと上がろうとした矢先、志摩に道を塞がれる。
「随分と遅かったね」
「……そんなことないよ」
「会長さんと二人きりは楽しかった?」
会長に聞こえたらどうるつもりなのか。
あまりにも含みのある言い方をする志摩に耐えられず顔を見上げれば、志摩は微笑んだ。そして俺の前から退くのだ。
……なんなのだ。そんなに気に障ったのか、芳川会長に断られたことが。
チクチクした視線を感じながらも、俺は志摩の横を通り抜けて賑やかな部屋の中へと戻った。
それからどれほど時間が経ったのだろうか。
あっという間だったと思う。
壁にかかった時計を確認する会長は「もうこんな時間か」と口にした。釣られて視線を向ければ、もうすぐ消灯時間だ。
「これ以上長居するわけにもいかない。そろそろお暇させてもらうぞ」
「……って、うわ、時間経つのはええな。おい、十勝ゴミ箱くれ」
「はーい」
会長の声をきっかけにすっかり締めの空気になっていた。
小マメに志摩や灘がゴミや空いた皿を引いていたお陰で大分片付いていた。
そうか、もう終わりなのか。
明日からまた日常が始まるのだと思うとなんだか変な感じだった。まるで祭りのあとのようなふわふわとした空気の中、俺も自分の使っていたコップをまとめる。すると、伸びてきた手にそれを取られた。
――志摩だ。
「片付けはいいよ、俺がするから」
「志摩、でも……」
「ほら、いいから」
そう強引に手を握るように指の中のグラスを取り上げられ、びっくりした。
ある時期から、志摩は人前だというのに躊躇なく触れてくるようになっていたことは気付いていた。それを許してしまってるのも自分だ。
結局それ以上強く言うことはできず、そのまま俺は志摩に片付けを任せることになる。
そして一通り部屋の中が片付いたとき。
「それでは、自分はお先に失礼します」
そう口を開いたのは灘だった。
「えー!やだやだ!和真帰んなよ!」とジタバタする十勝を寝かしつける灘の横、動きづらそうにゆっくりと栫井が立ち上がる。
「……それじゃあ、自分もそろそろ……」
「栫井、お前は残れ」
椅子に腰を掛けたまま、芳川会長はそう続けた。いつもと変わらない会長の態度なのにその一言に室内が、その空気が凍りつく。
またあの感覚だ。先程までの賑やかで和気藹々とした空気に一滴の異物が混ざるような違和感、そして息苦しさ。
会長から名指しされた当の本人は、何も言わずにそのまま再び床に腰を下ろす。その顔色はいいようには見えない。
打ち上げの最中だってずっと栫井は一言も喋らなかった。ただ、居心地悪いのだろうというのは伝わっていた。
「それと五味。お前もだ」
栫井が指名されたことにより、自分も呼ばれることは勘付いていたのだろう。名前を呼ばれた五味は「はいよ」と軽く返すが、やはりその表情は浮かないように見える。
――五味と栫井。
この二人の名前が並ぶとどうしても学園祭や見張りの件が頭を過ってしまう。だとしたら、二人が呼び出されたのは自分のせいではないか。
冷たい汗が背筋に流れる。しん、と静まる部屋の中、目のやり場に困り俯こうとした矢先だった。
――芳川会長と目があった。
「齋籐君、君はどうするんだ」
まさか自分も呼び出されたのだろうか。そう身構えたが、違った。
「お、俺は……」
「泊まるんでしょ、齋籐」
そう、俺の言葉を遮るように口を挟んだのはグラスに水を注いでいた志摩だった。
「だからこっち来たんだよね」
こちらを見てくる志摩、その手元にはグラスが五人分既に用意されていた。これからの話し合いのためのグラスなのだろうか。
志摩が生徒会役員たちのために飲み物を用意していることにも驚いたが、なんだかんだ打ち上げ中も一番動いていたし面倒見がいいというか、なんというか。
俺は志摩の問いかけに頷き返した。順序は明らかに間違えてしまっていたが、元よりそのつもりだった。
「なら帰るのは灘と十勝だけだな」
「あれ、ここ俺の部屋なんすけど……」
会長と十勝のジョークともとれない会話のお陰で空気は幾分和らいだ……ような気がした。
そんな俺の横、全員に新しいグラスを渡し終えた志摩はやってきた。「はい、これは齋藤の分」と渡されるそのグラスを「ありがとう」と受け取れば、志摩は微笑んだ。いつもの笑顔だ。
「そうだ、齋藤は着替えは持ってきてるの?」
受け取ったグラスに口をつけようとし、ハッとした。そうだ、俺は何も考えずに部屋を出てきてそのまま誘われて303号室にやってきたのだ。着替えどころ持ち物はなにもない。
そんな俺の反応から察したのだろう、志摩は「本当、齋藤ってそういうところ抜けてるよね」と笑った。
「前も忘れてなかった? 着替え」
「ご……ごめん、バタバタして」
「いいよ、俺の貸してあげる」
「志摩の? ……いや、大丈夫だよ。部屋に取りに帰るよ」
「遠慮してるの?」
「何から何まで面倒掛けられないよ」
「すっごい今さらだね」
先程までの微笑みとは違う、皮肉げに志摩は笑う。そして、それも一瞬。志摩はそのままふと真面目な顔をし、俺の耳元に顔を寄せる。
「俺は帰らない方がいいと思うけど。あいつが帰ってきてたらどうするの?」
会長たちに聞こえない程の声量だった。
そう、そうだ。それが一番俺にとってネックだった。今までだったら気にせずにいたところだが、今は壱畝が……あいつが部屋にいる。
それに時間からして部屋にいる可能性の方が高いだろう。
それとも、もしかしたら会う約束をしていたとかいう新しい友人のところにいって遅くなるか。
今の俺には壱畝遥香の行動を判断する術はない。
……しかし、鉢合わせなんて最悪の事態は避けたい。
こうなったら服だけでも買うか。ショッピングモールに並ぶ無駄に品揃えのいい店舗たちを思い出すが、そこまで考えて現在時刻に気付く。
もう既にシャッターを下ろしている時間だ。
志摩にあまり借りを作りたくないし、こうなったら十勝に頼むか?なんて考えたときだった。
「一度部屋に帰るんですか?」
俺たちのやり取りを聞いていたらしい灘がそう無表情のまま尋ねてくる。
「えっと……うん。着替えを取りに帰りたいんだけど……」
「ご一緒します」
即答だった。まさか灘本人がそんな提案をしてくるとは思わず「灘君が?」と聞き返せば、灘は静かに頷く。
「そうだな、それがいい」
「会長……」
そして、先程まで黙り込んでいた芳川会長は同調した。
わりと皆聞いているのかと内心冷や汗を滲ませつつ、断りにくいことになってしまった俺はどうすることも出来ずに「じゃあ、お願いします」と甘えることにする。その俺の返事に、志摩は呆れたような顔をした。
「齋籐」
そして、制止するように名前を呼ぶ。志摩の言いたいことも重々理解出来たが、あまりにも渋り過ぎて会長たちに不審に思われるのは好ましくない。
それに、灘がついてきてくれたら心強いのも事実だ。
「では行きましょうか」
そして、急かされるがまま俺は立ち上がった。
結局志摩をフォローする暇もなく、俺は灘とともに303号室を後にした。
灘とともに303号室を後にした俺たちは、そのまま自室である333号室へと戻ってくる。
――壱畝のやつ、帰ってきてませんように。
そう祈りながら扉を開けば、まず薄暗い部屋の中が目に入った。そのまま照明を点ければ、俺が部屋を出ていったときと変わらない自室がそこに広がっていた。
そこに壱畝の姿はない。
ひとまず安堵し、灘を部屋の外で待機したまま玄関へ上がった俺はそのままクローゼットまで歩いていく。
さっさと着替えだけ持って303号室へと戻ろう。
必要最低限の着替えをまとめ、これくらいでいいかなと一息ついたときだった。
ガチャリと静かな音を立て、玄関の扉が開いた。
もしかして灘だろうか。そう思いながら玄関口を振り返り、息を飲んだ。
人影が一つ、そいつは扉の前でこちらをただじっと見ていた。
「そんなに荷物持ってどこに行くんだよ、ゆう君」
「……っ、はるちゃん……」
――最悪だ。
なんてタイミングで帰ってきたんだ。
着替えを抱えたまま、俺はこちらへと一歩ずつ近付いてくる壱畝に思わず後退る。
考えろ、この場を乗り切るために考えるんだ。
「……っ、着替えを」
急激に喉が乾いていく。喉の奥から声を絞り出したとき、「着替え?」とぴたりと壱畝は立ち止まった。
そうだ、着替えだ。たまたま風呂に入ろうとしていたことにしてしまえばいい。
「お風呂、入ろうかと思ったんだ」
耳の裏側からバクバクと心臓の音が聞こえてくる。
バレないように、なるべくいつも通りに話そうとすればするほど自分のいつも通りがわからなくなり、自分の声が恐ろしいほど白々しく聞こえてしまうのだ。
それでも、どうにかして壱畝の注意を逸らさなければ。
藁にも縋る思いで、手に抱えていた私服をぎゅっと抱き締める。そんな俺を覗き込んだまま、壱畝は「へえ、お風呂か」と興味深そうに口にするのだ。
「確かここって一部屋ごとにユニットバスがついてるんだっけ。それとも大浴場の方に入るの?」
どうして壱畝遥香がそんなことを聞いてくるのかがわからなかったが、どちらにしろこの部屋を出るつもりだ。大浴場って言っておいた方が出ていきやすいだろう。
「その、大浴場に……」
「なんで?」
「……え、」
「部屋に風呂があるんだから、わざわざそんな他人の浸かった汚い湯に入らずとも部屋の風呂を使えばいいだろ」
「そ、れは」
「それとも、俺と共用の風呂は使いたくないって?」
その通りだが、この流れはまずい。
そうじゃない、と咄嗟に反応するよりも先に、伸びてきた手に胸倉を掴まれる。襟首が千切れそうなほどの勢いで引っ張られ、締まる首元に堪らず喘いだ。
「っ、は、るちゃん」
「来いよ」
「な、に……ッ」
「俺が風呂に入れてあげるよ」
一瞬、この男が何言っているのか俺には理解できなかった。
「なにその顔? ありがとうございますだろ、もっと嬉しそうにしろよな」
「っ……」
逃げなければ。
笑う壱畝に、本能的にそう察知した俺は咄嗟に壱畝の腕を掴み引き剥がそうとする。けれど力勝負で敵うはずがなかった。思いっきり腹を蹴り上げられ、先程胃に詰め込んだばかりの料理たちが溢れそうになるのを必死に口を押えて堪える。
逆流する胃液諸々に耐えきれず膨らむ頬。この後の展開が読めただけに必死に抵抗しようとするが、それすらも壱畝には関係ない。
「なにやってんだよ、早くしろって」
笑って腹を殴られた瞬間、呆気なくダムは決壊する。
広がった喉からまだ形が残ったものが溢れ出し、そのまま押えてきた掌から溢れて肘、床へと落ちていくのを見て壱畝は大声を上げて笑った。それも少しの間だけのことで、ひとしきり笑った壱畝はそのまま座り込んだまま動けなくなる俺を見下ろし、舌打ちをするのだ。
「……はー。おい、なに吐いてんだよ。汚いな」
「っ、ぉ゛、え……ッ」
「ゲロ臭いしそれどうすんの? 早く掃除しろよ」
「…………」
お前がやったんだろ。分かってて吐かせたんだろ。
口の中、喉に残った異物感がただひたすら不快だった。
「なんだよその目」
「っ、……」
今すぐにでも口を濯ぎたい俺に舌打ちをした壱畝は、「ああそうだ」と今度はなにか思いついたかのようにわざとらしく笑ってみせる。
そして、そのまま髪を掴まれた。頭皮ごと引き剥がれそうなほどの痛みに耐えきれず、髪が抜けないように慌てて歩くがあいつはそんなことなんてお構いなしだ。
「は、るちゃ」
「いいからこっち来いよ」
「っ、ぐ」
そう半ば強制的に壱畝に引きずられてやってきたのは居間の奥、浴室へと続く扉だ。
――まさか本気なのか。
血の気が引いた。慌てて壱畝の腕から逃げようとするが、殴られた腹が痛んで思うように力が出ない。
「……っ、嫌だ、はるちゃん……ッ」
「うるせえな、また殴られたいのか?」
「……ッ!」
「嘘だよ。ゆう君殴ってばっかいたら弱い頭がまたよわよわになっちゃうもんな」
今更こいつの罵倒で怒りも悲しみも沸かない。
ただ、逆らえば更に酷い目に遭うことだけは分かっていた。それでも、と身動ぐがすぐに髪を引っ張られ、とうとう逃げるタイミングを失ったまま俺はそのまま壱畝に引きずられる。
そして壱畝は脱衣室の扉を開き、そのまま突き進んで浴室の扉を開いた。
水が溜まった浴槽に、漂うのはヒンヤリとした空気。嫌な予感がした。――そして、俺の嫌な予感はよく当たる。
狭くはない浴室の中、浴槽の前で足を止めた壱畝遥香はそのまま俺の腕を引っ張り、浴槽へ放り込もうとした。
「ひぃっ」
バランスが崩れ、浴槽に落ちそうになって俺は浴槽のフチを掴んだ。
寸でのところで冷水に飛び込むなんてことにならずに済んだ。が、安心するのはまだ早い。
「つまんねえことしてんじゃねえよ、雑魚のくせに」
そう、背後の壱畝に背中を蹴られ、視界が大きく傾いた。水滴で濡れていたふちで手が滑り、俺の体はそのまま浴槽に放り込まれる。
バシャンと遠くで音がし、瞬間、全身を包む冷水に筋肉が収縮していくのがわかった。心臓が固まっていくような、血管が針のように細くなるようなそんな感覚に視界が白くなる。
慌てて浴槽から上がろうとするのを、壱畝のやつは俺の肩を掴んで「ちゃんと浸かんないとな」と頭を掴んで冷水の中へ突っ込むのだ。ごぼりと水の音で外気の音が遠ざかるが、微かに壱畝が笑う声が聞こえた。
「あれ、これ昨日の湯じゃん。ははは、バカだなゆう君は。ちゃんとその日の内に抜いとけよ、本当にだらしないな」
「……っ、ごぼ……」
「冷たいだろ? すぐ体を暖めないと風邪引くぞ」
頭痛と耳鳴りのあまり、やつがなにを言っているか理解する余裕なんてなかった。
このままでは本当に溺死する、そう鼻の穴や口から入ってくる冷水に命の危機を感じたときだった。
――壱畝の手が離れた。
今だ、とそのまま浴槽のふちを掴んだ俺は、水分を含み重さを増した服を肌に張り付けたまま湯船から這い出ようと試みる。そして押さえつけるものがなくなった今度こそ、水面から顔を出すことができた
「っ、げほ! ごぼ!」
頭を出した俺は、体内へと入ってきた水を吐き出そうと何度も咳き込んだ。そして張り付く前髪の向こう、シャワーヘッドをこちらに向けた壱畝と目があった。
やつのもう片方の手は蛇口へと伸びていて、そのシャワーの温度が高温に設定されているのに気付いたときには遅かった。
次の瞬間、蛇口を大きく開いた壱畝が手にしたシャワーヘッドから熱湯が勢いよく噴出する。
「っ、ぁ゛っ、ひぃ……ッ!!」
頭から降り注ぐ肌を焼くような大量の滴。叩き付けてくる大量の小粒は冷えきった俺の体にとっては加熱した鉛のように酷なもので。
咄嗟に腕で頭を庇えば、今度は腕の皮膚が焼けるようにヒリつき、えぐられるような激痛がが走った。
「どう、ゆう君。温まってきた?」
「ぁ゛、やっ、熱い、熱いよっ、はるちゃん……っ! やめて! やめてってば……っ!」
のたうち回るにも狭い浴槽では逃げることが出来ず、声を上げ懇願する俺は慌てて浴槽から上がろうとする。
が、瞬間。伸びてきた壱畝の手に後頭部を掴まれ、再び冷たい水面へと押し付けられる。
「んぐッ」
「ああ、ダメだってゆう君。お風呂なんだからちゃんと浸かんなきゃ」
先程確保した空気がごぼりと泡になって逃げていく。
息苦しさに堪えれず顔を上げようとするが壱畝遥香はそれを許さない。
「んんっ、ぅ゛、んうぅッ!」
もがけばもがくほど体内に残された酸素はなくなり、死に者狂いでふちを掴んで逃げ出そうとするが押さえつけてくる力にはわない。
水の冷たいとかそいうのがどっかに飛んでいって、『このままでは本気で死ぬ』という恐怖に頭が真っ白になる。
「ほら、お風呂浸かるときは百秒数えるって言うだろ? あと百秒、ゆう君は我慢出来るかな?」
それはまるで子供相手に話しかけるような口調だった。
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