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√α:ep.3『守りたかったもの』

 志摩とともに空き教室を出るまでは良かった。良かったのだが。  ――学園内、教室棟通路。  幸い辺りには人の気配はない。  志摩は栫井を探しに行くとだけ言って、肝心の行先は教えてはくれなかった。  この際行先は置いておこう。けれども、と自分の服装を見下ろす。なんだか落ち着かない気持ちだった。ここまで制服を着崩したことなんてなかったからこそ余計そう感じるのだろう。 「あの、志摩」  不安になって前を歩く志摩の制服を引っ張れば、志摩は呆れたような顔でこちらを振り返る。そして露骨に大きな溜息。 「あのさ、俺の名前呼んでくれるのは良いんだけどすぐにバレちゃうからなるべく喋らないでね」 「わか――」  言いかけて、慌てて口を閉じた俺は頷き返す。 「うん、それでいいよ。俺も、名前は呼ばないから」  そういう志摩は、気もそぞろな俺とは対照的に余裕そうだ。なんなら、この状況を楽しんでそうな雰囲気すら感じるくらいだ。  なんて思っていると、ふと思い出したように志摩は立ち止まった。 「あ、ちょっと待ってて」と携帯を取り出し、少し離れたところでどこかへ電話をかけ始めるのだ。話の内容までは分からなかったが、通話の最中の志摩は笑っていた。  どこに電話をかけているのだろうか、なんて思いながら横目にその様子を窺っていると、通話を終えたらしい志摩が戻ってきた。 「それじゃ、行こうか。伊藤」 「うん……えっ?」 「名前呼ばないってのも不便でしょ? だから、これから齋藤は伊藤だからね」  気を付けてよね、と念押しする志摩。  いきなり誰と間違えてるのかと思えば、なるほど、齋藤だから伊藤か。 「志摩って……」 「なに?」  ネーミングセンスないというか、なんというか。 「いや、なんでもない」  なんてこと、本人に言ったら何言われるかわからないので俺は自分の中に留めておくことにする。  それから、俺達は一度裏口から校舎を後にした。  そしてやってきたのは人気のない校舎裏だ。相変わらずじめじめとした空気が流れる校舎裏、志摩はどんどん先を歩いていく。 「今から俺は方人さんの部屋に行く」  そんな中、志摩が口にした言葉に思わず立ち止まる。  つられて立ち止まった志摩はこちらを振り返り、「だからその間、伊藤はさっき方人さんたちがいた部屋を探って欲しいんだ」と続けた。  伊藤って誰だと一瞬こんがらがってしまったが、そうか、俺今は伊藤という事になるんだった。……じゃなくて。 「それって、でも……」  先程、戻ってこない志摩を追ってあの部屋に入った時のことを思い出す。  人気はない荒れた部屋の中、いたのは芳川会長だけだったはずだ。  だけど、志摩には思うところがあるようだ。 「阿賀松の方は教師たちの目があるから下手に動けないだろうし、会長もあの通り。面倒な安久たちも伊藤のことは目を瞑ってくれるはずだから一先ず安心してもいいだろうね」 「要するに、一番気を付けたいのは方人さんだけ。それは俺が引き受けるよ」あくまで他人事のように続ける志摩。  つまり、ここで一度志摩と離れなければならないという事だ。  いくら変装しているとはいえ、単独行動が不安ではないというわけではなかった。けれどそれ以上に縁の元へ向かうという志摩のことが心配だった。  ――どうしても、数か月前に志摩に縁から庇ってもらった時のことを思い出してしまうのだ。痛々しい生傷を負った志摩を。 「何か言いたそうだね」  押し黙る俺に、志摩も勘付いているのだろう。そのくせ、わざわざ尋ねてくる志摩の性格もそろそろわかってきた。  ……それでも。 「……志摩、大丈夫なの?」 「俺? ……ああ、この前のことね」 「心配してくれるのは嬉しいけどさ、流石に相手は怪我人だからね。……出来るよ」なにが、とは言わない辺りわざわざ深く掘り下げる気にもなれなかった。それでもなにも言わない俺に、志摩は苦笑する。 「それとも、俺じゃ不安?」 「……いや」  信じるよ、なんて言ったら多分失笑されるだろうから出掛けた言葉はまるごと飲み込むことにする。 「でも、ほんと気を付けてね」 「はは、伊藤に心配されるようになったら終わりだよね」  本気で心配している俺を知ってか知らずか、茶化すような言葉を口にする志摩についムッとしたときだった。伸びてきた指に眉間をぎゅっと摘ままれ、思わず志摩を見上げる。そして、思いのほか近くにあった志摩の顔に驚いた。  こちらをじっと覗き込んでくる志摩と真正面から視線がぶつかる。 「俺は大丈夫だよ」  ――またあの目だ。  細められたその目の奥、深い瞳から志摩の感情は汲み取れない。だけど、この目を見ると胸の奥がざわりとするのだ。  理由なんてわからない。あくまで直感的なものに過ぎないが、志摩が故意に何かを隠そうとしているような気がしてならなかった。 「……」 「ほら、眉間に皺が寄った。もっと力抜きなよ」  それも束の間。すぐにいつもの胡散臭い笑顔に戻った志摩は、そう俺の額を指で弾いた。強烈なデコピンに「う゛っ」と後退れば、志摩はおかしそうに笑うのだ。今度はいつもの胡散臭い笑顔ではなく、楽しそうな笑顔だった。  そして、一頻り笑って満足したようだ。 「それより、こっちの方が心配なんだけどね。俺的には。……はい、これ」  そう、差し出されたそれは見覚えのあるピンクの携帯端末だった。  安久のサブ携帯だ。 「……いいの?」 「良くなかったら返さないよ。……それと、俺の連絡先登録してるから何かあったらすぐに連絡して。絶対だよ」 「うん、わかった」 「それと、栫井を見付けてもすぐに俺に連絡して。俺が迎えに行くまでその場を動かないこと。いなかった場合も下手に動かないでよね」 「わ、わかったよ……」 「本当に?」 「……本当に!」  小さい子にお使いを頼むようなくらい念に念を押してくる志摩になんだか居た堪れなくなってくる。  そんなに頼りないのだろうか、俺は。……まあ、頼りないのだろう。今までのことを考えると、確かに志摩の忠告とは反した事ばかりしてきたわけだからなんも言えなくなってしまう。  俺の返事を聞いて、「ならいいけど」と渋々といった様子で頷く志摩。どうやら一応は納得してくれたようだ。 「それじゃ、また後で」 「……うん、志摩も」  気を付けてね、と俺が続けるよりも先に志摩はぺしぺしと俺の頭を軽く叩く。余計なお世話、ということだろうか。それ以上なにも言わず、志摩は学生寮へと戻っていく。  俺はそんな志摩の背中を見送りつつ、手の中の携帯端末を握りしめた。  ――俺もやらなければ。  そう息を飲み、俺は校舎へと向かった。    ◇ ◇ ◇  ――ああ、こんな日が来るなんて。  校舎から飛び出した御手洗安久は、仁科を引き摺るように校庭を駆けていた。  志摩亮太の言うことが本当ならば、旧体育倉庫には憎き生徒会長がいるはずだ。そう思うと居ても立ってもいられなくて、今だけはこの無駄に広い校庭が恨めしかった。 「仁科、早くしろ!」 「わかってるから引っ張んなって……!」  既に息を切らしている仁科を引っ張ること暫く、目的地である旧体育倉庫が見えてきた。  ――ようやくあのいけ好かないクソ眼鏡を捕まえることができる。  今、その思いだけが安久を突き動かしていた。  ――旧体育倉庫前。  滅多に人が立ち寄らないため、草が生え放題なったそこは陽射しもなく、どことなく湿った空気が漂っていた。  湿気や不潔な場所を嫌う安久は旧体育倉庫に近づく事を一瞬躊躇ったが、尊敬する阿賀松伊織のためだ。そうは思うが、今にも虫が出てきそうな草むらに突入することを躊躇っていたとき。 「おい安久、なにやってんだよ」 「う、うるさいな……! あんたからいけよ! 年上だろ?!」 「えっ、年齢関係ないだろ別に……」 「いいから、早く行って! そんでこの草を毟って!」 「なんでだよ……って、ん……?」  安久に鍵を押し付けられ背中を押されるがまま旧体育倉庫前までやってきた仁科だったが、その扉の前までやってきたところで仁科は立ち止まる。 「な、なんだよ! まさか蛇でも出たのか?」 「いや、そうじゃなくて……」  歯切れの悪い仁科に焦れ、そのまま仁科の後を追って建物の前にやってきた安久は思わず立ち止まった。  旧体育倉庫に来ることは早々なかったが、それでも以前きたときとは明らかに違うその光景に息を飲んだ。    ――扉だ。まるで車でも突っ込んだかのようにひしゃげた旧体育倉庫の扉は外側から無理矢理抉じ開けられたように見えた。 「な、なんだよ、これ……!」 「トラックでも突っこんだのか? って、おい……危ないから近づくなよ!」  嫌な予感がする。  止めてくる仁科を振りほどき、安久はひしゃげた扉に触れた。金属の金具から壊れたその扉は少しの力を加えただけで簡単に傾く。倒れる扉の奥、恐る恐る中を覗き込む安久。  饐えたカビの匂いに思わず顔をしかめ、それでも目を拵えて旧体育倉庫の中の様子を探る。けれど、探しても探しても安久が求めていたその人物の姿はなかった。 「安久、大丈夫か……」 「……れた」 「え?」 「――逃げられた」  ――芳川知憲に逃げられた。  もぬけの殻となった半壊の旧体育倉庫前。そう理解した瞬間、目の前が真っ暗になっていくのがわかった。  ◇ ◇ ◇

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