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06
二度目の気絶から目を覚ました時、今が何時なのか、そして自分がどこにいるのか、それすら分からなかった。
まだぼんやりと靄がかったような頭の中、乾いたようにひりつく眼球を動かして辺りを見る。
――ここは。
後ろ手に腕と足首を縛られ、そして更に手足を束ねるように拘束されているようだ。歪な体勢のまま固定された身体は横向きのまま動くことができない。
それでも、視界に映り込む内装からそこがどこなのか分かった。――分かってしまった。
――生徒会室・仮眠室。
「っふ、ぅ……ッ」
咄嗟に誰かいないか声を上げようとしたとき、それは口に嵌め込まれた何かによって妨げられる。
声を思うように発することもできない。
そうするように施した人物が誰なのかすぐに分かった。だけど信じたくない、理解したくなかった。
……だって、
「ようやく起きたか」
背後、硬質な足音がゆっくりと近づいてくる。
聞き慣れたはずのその声がまるで他人のもののように感じてしまうのは、その声の持ち主が俺の知っているその人と同じものだと理解したくなかったからだろうか。
「随分とよく眠っていたな。……腹が減ったんじゃないのか? ……待ってろ、すぐに用意させるから」
――現れた芳川会長はあくまでもいつもと変わらなかった。
猿轡を噛まされ、ベッドの上で身動きを取ることすらもできない俺を見下ろした芳川会長はそう淡々と続ける。
「……っ」
「その猿轡、喋るのに邪魔だろうが我慢してくれ。……なにより、舌を噛み切られたりでもしたら困るからな」
「む、ぅ」
「それに、今は君の言葉を聞きたくない」
「理由は、言わずとも分かるな」齋藤君、と会長は目を細める。突き刺さるような絶対零度の視線に口の中、唾液が滲んだ。
――そうだ、俺。
あのあと志摩はどうなったのか、またどこかに閉じ込められたのではないのか。流石に、二度目は運良く逃げられるとは思いにくい。
とにかく、今は志摩の無事が確認したかった。
そう、俺が芳川会長を裏切ったのは二度目だ。
そして、脱出に手を借りた五味たちも巻き込んだ上に失敗してしまったのだ――よりによって最悪な形で。
これから自分がなにされるのか、考えただけで手足の末端が冷たくなっていく。
芳川会長はそのまま俺の視界から移動する。それからそのまま仮眠室の中を歩き回っているようだ、「ああ、俺だ」と会長の声が聞こえた。どうやらどこかに電話をかけているようだ。通話の相手まではわからなかった。
「ああ、出来るだけ早く持ってきてくれ」
会長の通話はすぐに終わった。
通話の相手は灘辺りだろうか、なんて考えていたときだ。ベッドの脇、芳川会長が現れる。
「今、君の夜食を用意させるように言った。それほどは時間は掛からないはずだ」
ベッドの縁に腰をかける芳川会長なそう、俺を尻目に静かに口にした。
芳川会長の腕が目に入り、気絶する直前、芳川会長に首を締め上げられたときのことを思い出しては全身がびくりと緊張する。
夜食――ということは、今は夜なのだろうか。
「齋藤君」
不意に名前を呼ばれる。それに返事することも出来ない今、俺は返事の代わりに少しだけ視線を逸らす。
会長の目を見たくなかった。会長に顔を見られたくもなかった。
必死に目を逸らそうとするが、伸びてきた骨っぽいその指に顎を掴まれ、あっけなく顔を上げさせられる。
「もう、俺の顔も見たくないのか」
「……」
「俺よりも……志摩亮太の言葉を信じるのか?」
バクバクと血液を押し出していた心臓が今にも破裂しそうなほど跳ね上がる。
――会長は一体、どこから俺たちの後を着いていたのか。どこまで俺達の会話を聞いていたのか。
薄暗い通路の下、暗幕の影で自分たちの様子を伺っては足音を立てずに着いてきていた会長のことを考えたら血の気が引いていく。
信じるとか信じないとか、今となってはその次元の問題ではない。
今こうして首を締められ無理やり落とされ、そして俺の手足は縛られている。言葉を発することも許されないこの状況、これが全て物語っていた。
無言で目を伏せれば、そんな俺の態度が気に障ったようだ。顎を掴んでいた会長の指に力が込められる。
「こっちを向け」
「ん、ぅ……ッ!」
「これ以上俺に逆らうのなら約束は破綻だ」
「それでも構わないのか」と、会長は目を細める。
約束――その言葉に、俺は栫井を庇った時会長に出した交換条件を思い出す。
「栫井だけではない、彼……志摩亮太と言ったか? 君がこれ以上勝手な真似をするというなら俺にも考えがある」
よりによってこのタイミングで出てきた志摩の名前に背筋に冷たい汗が流れた。
「そういえば今、特別教室棟では校舎を改装工事をしている最中だったな。……あそこなら、うっかり鉄筋が落ちてきても仕方ない」
「例え全身の骨が折れていたとしても、全ては事故で処理されるだろうな」そう、顎を擦り会長は静かに続ける。
この人は本気で言っているのか。
あまりにも恐ろしい脅迫を口にする会長に背筋が震えた。思わず目の前の会長を見上げれば、真っ直ぐにこちらを見ていた会長と目があった。
なぜ、志摩なのだ。そう青ざめる俺に、会長は目をすっと細める。
「齋藤君、君も知っているのだろう。俺は、君のためならなんでも出来る。……ああ、そうだなんでもだ。
――もし、君が苦しむことになってもだ」
「それが、君のためになるのなら」顎の輪郭をなぞるように這わされたその冷たい指先。
目の前の人が、吐き出される言葉が、ずっと憧れていた人のものだと思いたくもなかった。
「俺の言う事を聞け、齋藤君。最後の会議まででいい、俺だけの言葉を聞け」
唇が触れ合うくらいの至近距離。囁きかけられるその声が、鼓膜から脳髄へと直接流れ込んでいく。
「志摩亮太が大切か?」
「……っ、」
「賢い選択をしろ。君一人が足掻いたところでなにになる? ……俺の言うことを聞け、それが君にとっての最善だとなぜ分からない?」
「…………ぅ、ぐ」
会長の言うことを聞けば、志摩の無事も保証されるというのか。
会長の声が、酩酊する意識の中に浸透していく。考えれば考えるほど脳がぐつぐつと茹で上がるようだった。
「こっちを見ろ」と、会長の目が俺を捉えて離さない。
「――君がしていることは無駄な足掻きだ。いっときの気の迷いで君は疎かな真似をした。……俺は、君が逆らわなければそれでいい。君が俺のことをどう思っていようが、思想までを矯正するつもりはない」
「私情を挟むな。賢くなれ、齋藤君」繰り返される会長の言葉に、俺は流れ落ちていく玉のような汗の感触を意識で辿ることしかできなかった。
ここでまた会長の言う通りにしたら、今までのことが全て嘘になってしまう。そのこと自体が会長は愚かな真似だと言う。
それでも、俺は自分の選択全てが間違っているとは思えなかった。どろりと汗が滲む。
ほんの数分の間だと思う。それでも、体感数時間ほど会長と見つめ合っていたような気がしてならなかった。
仮眠室の扉が叩かれ、現実へと引き戻される。
ベッドから離れた会長はそのまま生徒会室の方へと向かった。
「すみません。ただいまお持ちしました」
「ああ、すまない」
やはり、先程の電話の相手は灘だったようだ。
扉の開く音がして、聞こえてきたその声に背筋に冷たい感覚が走る。
こちら側からは扉の方の様子は見えないが、灘からはベッドの上の俺の姿が見えているはずだ。灘が俺を見てどう思っているのか考えただけで生きた心地がしなかった。
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