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√α:ep.4『共犯関係』

『ゆう君』  名前を呼ぶ声がする。忌々しいくらい、優しいあの声が。  声のする方を振り返れば、暗闇の中、壱畝遥香が現れた。  やつは中学生の頃の姿のままだった。黒の学ランとは正反対の金髪の頭はこんな暗闇の中でもよく映えていた。 『ゆう君は本当に馬鹿だよね』  そんなこと、知っている。ずっと前から知っている。こんな自分の性格に俺は何度も困らされてきたのだから。 『志摩亮太をここまで庇う必要は本当にあった? あそこで阿賀松伊織の言う事を聞いていれば、少なくとも志摩亮太もお前も無傷のまま解放してもらえたかもしれないってのに』  中学生の壱畝が志摩や阿賀松のことを知っているはずがない。これは夢なのだ。  目の前に立っているのは壱畝ではなく、壱畝の皮を被った俺自身だ。 『散々騙してきた志摩亮太をちょっと騙すだけだったんだろ? あいつだってやりたい放題してきたんだし自業自得もいいところだ、ゆう君が志摩亮太を気遣う義理なんてないはずだけどね』  壱畝の姿をしたそいつは笑う。頭の片隅に追いやっていた後悔の念がこういう形として現れたのだろう。  だけど、何を言われたところで俺の心は動かない。  行動した結果、志摩を助けることが出来た。阿佐美が来るまでの間、時間を稼ぐことが出来た。その事実で俺は満足だった。  ……俺がどうなろうとよかった、満足だった。 『本当にゆう君がそこまでする価値のある男なのか、あいつは』  なにを定義としてその価値が決まるのか。それによったら、間違いなく今の俺にとっては自分の身を多少犠牲にしても価値がある人間だった。  あの時俺のせいで志摩が傷付いたら、恐らく俺は一生後悔していただろう。  少なくとも、そう思えるくらいには。 『――志摩亮太が好き?』  志摩のことは苦手だ。今でもその印象は変わらない。  気紛れで、すぐ拗ねるし、いつも笑って冗談ばっか言ってると思ったら本気だったりして分からない。  俺とは正反対で、だからこそ志摩のことを理解できなかった。  けれど、正反対だからこそ志摩は俺にはできないことを簡単にして見せて、躊躇う俺の背中を突き飛ばす勢いで押してくれたりもする。  好きか嫌いか一概に言うことは出来ない。それでも、志摩みたいな存在は恐らく今の俺には必要なのだろう。それだけはなんとなくわかった。 『本当、馬鹿だよね』 「分かってる」 『また同じことを繰り返すつもり?』  壱畝が笑う。うるさい、と口の中で呟いたとき目の前の壱畝の幻覚は霧散した。  残ったのは暗闇と静寂。そして、微睡んでいた視界は次第に明るくなっていく。  鉛のように重い瞼を持ち上げれば、そこは見たことのない天井が広がっていた。 【 天国か地獄:√α 最後の裁定】 「こ、こ……は……」  自室でも、保健室でもない。  乾いた眼球を動かし、辺りを探ろうとしてすぐ側の人影に気付いた。驚きのあまり「え」と声を漏らせば、真っ白な壁に凭れかかったまま目を瞑っていたそいつはぴくりと反応した。  そして、そのままゆっくりと目を開く。 「うるせぇな……声でけーんだよ」  伸びっぱなしの癖っ毛の黒髪、病的なまでに白い肌。最後に見たときよりも目の下の隈が濃くなっているせいか、より冷たい印象を覚えた。  ――長袖のシャツにパンツというラフな格好をした栫井平佑はじとりとこちらを睨む。  つい流れで「ごめん」と慌てて口を閉じたが、そもそも何故栫井がいるのか。  確か、俺は阿賀松に灘を助けてもらうように頼み込んで、それから――。 「えっと、あの、栫井……?」 「……」 「ここ、どこ?」 「……見て分かんだろ」  白い壁に白いカーテン。ベッドの周囲に取り付けられた機械。カーテンで締め切られた窓。そして、なにより特有の薬品の匂いには覚えがあった。 「もしかして、病院?」 「それ以外になにがあんだよ」 「……なんで、俺病院に……いっ、つ」  もっと様子を探ろうと体を起こそうとして、下半身に鈍い痛みが走る。  堪らず呻いたとき、「何やってんだよ」と栫井は舌打ちした。そして、ベッドの側までやってきた栫井はそのままベッドの脇に取り付けられた装置を操作する。すると、ゆっくりとベッドの上半身の部分が起き上がるのだ。 「あ、ありがとう……」 「自分の体の状態くらい考えろよ」 「……あの、そのことなんだけど、俺なんでここに……」  そう言いかけた矢先だった。病室の扉が静かに開く。 「……ゆうき君、起きた?」  聞こえてきたのは聞き覚えのある落ち着いた声。その声の主が誰なのかすぐに分かった。  咄嗟に扉の方に目を向け、そのまま俺はそこに立つ人物の姿を見て言葉を失った。  耳に掛かる程度の長さの黒髪を無造作に流した長身痩身のその男は、俺の姿を見るなり安心したように「よかった」と口元を緩ませる。  その唇にぶら下がったピアスを見つめたまま俺は暫く言葉を発することが出来なかった。  唇だけではない、前髪の下の眉尻と両耳にぶら下がる痛々しい量のピアスといい一瞬阿賀松かと思ったが、違う。そもそもあの男はこんな風に柔らかく笑わない。  と、いうことはだ。 「し、おり……?」  恐る恐る、その男の名前を呼ぶ。すると、男――阿佐美は「うん」と微笑んだ。 「……って、あ、そうだね、ごめん。こんな格好じゃ分からないか……」 「え、や、そうじゃないけど、その……」  まるで俺の知らない人みたいで、それ以上に、髪を切ったことによってますます阿賀松に似てきた――というよりも、元より血縁者なら仕方ないのだろうが、少しだけ、怖い。  というか確か、最後に見た時の阿佐美の髪は赤かったはずだ。  そこまで考えて、俺は安久から聞いたことを思い出す。 「っ、まさか、詩織」  阿賀松に似ているのではない、似せているのだ。そのことに気付いた瞬間、全身から血の気が引く。  青褪める俺に、阿佐美は少しだけ申し訳なさそうに笑った。 「……ゆうき君、会長のことはもう心配しなくてもいいよ」 「何言って、」 「阿賀松伊織の処分が決定した。……だから、もう会長がゆうき君を閉じ込めるような真似、多分もうしない」  どこまで知っているのか。  そう安心させるように笑い掛けてくる阿佐美に、心臓が早鐘打つ。  その言い草ではまるで、俺が眠っている間に全て決着ついたとでもいうかのようだ。  けれど、俺は知っているはずだ。阿賀松が処分されたということは――。 「っ、詩織……学校辞めるの?」 「……知ってたの?」 「安久から聞いた。……詩織が、先輩の身代わりになるって」  まさか俺が知ってるということまでは知らなかったようだ。少しだけ困惑の色を表した阿佐美だったが、やがて観念したかのように「そっか」と目を伏せた。 「そうだよ。とはいってもまあ、もう辞めたことになるんだけど」 「……っ」 「……別に俺は学校好きじゃないし、どうでも良かったんだ。だから……そんな顔しないで」  一体どんな顔になっているのだろうか。酷いことになっているのは間違いないだろうが。  関係のない阿佐美が濡れ衣着せられた挙げ句、そのまま阿賀松として学校を辞めさせられる。  その事実を知って何も感じるなと言う方が無理な話だ。それも、その要因は俺だ。  ――もし、俺がちゃんと会議に出ることが出来ていたらまた結果が変わっていたのか。  いや、阿賀松伊織が一筋縄ではいかないということは最初から分かっていたはずだ。  たられば話だとしても、考えるほど歯がゆさのあまり顔を上げることができなかった。 「ゆ、ゆうき君……」  みるみるうちに阿佐美の笑顔が萎んでいく。阿佐美が悲しそうに眉尻を下げ、おろおろし始めた矢先だ。 「……おい」  先程まで傍観に徹していた栫井が、口を開いた。鬱陶しそうに細められた目は俺ではなく阿佐美へと向けられていた。 「いつまでこんなところに閉じ込めるつもりだ。……薬臭くて気分悪ぃんだけど」 「別に閉じ込めるつもりはないけど……そうだね、定期的に換気した方がいいかな」 「そういう問題じゃねえよ」  ――閉じ込める。  栫井の口から出た不穏な言葉に俺は阿佐美を見上げた。  ベッドの傍、佇む阿佐美は微笑む。大丈夫だから、とでもいうかのように。 「学園に戻りたいのは分かるけど……その怪我、完治するまでここから出すことは出来ないんだ」  不満を露わにする栫井に怖じ気づくわけではなく、あくまで淡々とした口調で続ける。  そして、「それに」と俺達から視線を外した。 「今はまだ、あそこへ戻らない方がいい」  静まり返った無機質な病室に、阿佐美の声は冷たく響き渡る。

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