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02
「戻らない方がいいって……」
言い掛けて、現在阿佐美が阿賀松として退学になった事実を思い出す。
ということは、残っている阿賀松は。
栫井もその意味に気付いたようだ。顔を強張らせ、栫井は阿佐美を睨みつける。
「何を、企んでるつもりだよ」
「企んではないよ。……けど、今副会長に学園に戻られるのは困るかな」
「それが企んでる証拠だろ。企んでないなら困らないはずだ」
阿佐美に今にも掴み掛かりそうな気配すら感じさせる栫井に冷や汗が滲む。咄嗟に「栫井」と宥めようと手を伸ばせば、「黙れ、馴れ馴れしく呼ぶな」と呆気なくその手は振り払われる。
良かった、まだ冷静なようだ。
「少しだけの間でいいんだ。それに、二人にはちゃんと怪我治してもらいたいし……。俺が言ったところで信用ないってのはわかってるけど、それは本心だよ」
「お前を信じれと?」
「君の気が済むならどちらでも構わないよ。……けど、俺を疑ったところでここからは出られない」
だって、それを決めるのは俺じゃないから。
そう、静かに阿佐美は口にした。
栫井も分かっているはずだ、阿佐美の背後にいるのが誰なのか。逆に考えれば、ここから出るということはあの男の保護からも逃れることになる。
それに、阿佐美の心配する気持ちはただの詭弁ではないはずだ。そう分かったからこそ、俺は栫井のように阿佐美を敵として見做すことはどうしてもできなかった。
「栫井……」
「……」
「か、栫井? どこに……」
くるりと踵を返したと思えば、そのまま病室を出ていこうとしていた栫井は「便所」と呟いた。
「――どうせ、ここから出られないんだろ。じゃあ、どこに行こうが勝手だろ」
それだけを言い残し、栫井はそのまま病室を出ていってしまった。
乱暴に閉まる扉。栫井も考えなしではないはずだ、今はただ阿佐美の言うことを聞くしかない。
「……ごめんね、ゆうき君。目が覚めたばかりなのに、色々言っちゃって混乱したよね?」
二人きりになった病室内、阿佐美は申し訳なさそうにこちらを見下ろしてくる。
不安そうな表情だ。
いくら髪を切ろうが、ピアスをつけていようが、阿佐美は阿佐美だ。
寧ろ会長たちの前でちゃんと阿賀松のフリを出来たのだろうか、そう余計な心配しそうになるくらい阿佐美の優しさは変わらない。
「ううん、俺は大丈夫……だから、お願い。ちゃんと一から説明してほしい」
とにかく今は、情報が必要だった。
俺が眠っていた間、あの後一体何が起きたのか。
――あいつは今どこにいるのか。
じっと阿佐美を見上げれば、阿佐美は観念したように目を伏せる。そして、わかったよ、と小さく呟いた。
「……ゆうき君が気を失った後、病院に連れてきたんだ」
「病院ってことは、まさか俺の実家には……」
「……悪いけど、それはしてないよ。あいつのしたことが出回るのは困るんだ。だから、治療費も入院費も全部こちら側が出す。適当な理由で休学の手続きも全部済ませてあるから、心配しないで」
本来ならば呆れないといけないところなのだろう、自分の怪我を阿賀松伊織の名前を汚さないために隠蔽され、全て金で済まされるということに。
それでも、俺にとっては願ってもいなかったものだった。
家に連絡がいかなければ、それでいい。治療してもらえるのならまだ待遇は良い方だろう。
怪我をさせられるだけさせられ、そのまま放置されたこともある。それに比べたら良心的だ。
……そんなことを考えてしまうから俺はダメなのだろうか。それでも親に余計な心配させたくなかっただけに安堵した。
「とにかく最低でも一週間、ここにいて。ここは知り合いの系列の病院だから、ある程度ゆうき君を特別扱いさせることもできる。ゆうき君には傷一つ残らないようしてもらってるし、ご飯も……美味しく作らせるから。……駄目かな」
何も答えない俺に不安になったようだ。言いながらちらりとこちらを見上げてくる阿佐美。
まだ目の前の男を阿佐美だと認識するのには慣れが必要だったが、それでも阿佐美の言葉尻からこちらへの気遣いは充分に伝わってきた。
……だけど一週間か。短いようで、長い。
「……あの、詩織」
「どうしたの?」
「……志摩は、どうしてる?」
ずっと気になっていたあいつの名前を口にしたとき、僅かに阿佐美の表情が薄暗くなるのを俺は見逃さなかった。
「……まさか、何かあったの?」
「いや、ゆうき君が心配するようなことはないよ。……だけど、志摩に会いたいの?」
どういう意味だろうか。やけに回りくどい阿佐美になんとなく胸がざわつく。
小さく頷き返せば、「そっか」と阿佐美は呟いた。
「多分まだ病院の中彷徨いてるよ。ゆうき君が目を覚ますまでずっと部屋の前にいたから、追い払ったんだ」
「ここに? ……ずっと?」
「うん。……けど、余計なことしたみたいだね」
そう笑う阿佐美の表情はぎこちない。
阿佐美が志摩のことをよく思ってないのも知ってる。分かってて志摩の名前を出すのは意地が悪いのではとも思ったが、それでも志摩の安否が気になったのだ。
ここにいると聞いただけでもほっと緊張が解けるようだった。……会えるのなら、会いたかった。
目を離していると何を仕出かすかわからない、そんな危うさを持ち合わせた志摩だからこそ、余計に。
「ここに呼んでもらうことは出来るかな」
「……わかった。ゆうき君がそう言うならいいよ」
「え、いいの……?」
「……言ったよね、ゆうき君にはなるべく自由でいてほしいって」
「危ないと感じたら止めるけど、それだけは許してね」と阿佐美は苦笑した。
正直、『無理だよ』と一蹴されるのではないかと思っていただけに驚いた。
「ちょっと待っててね」と、だけ言い残し阿佐美はそのまま病室を後にした。
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