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03

 阿佐美が部屋を出ていって、どれくらいの時が経ったのだろうか。  一人で待っている間に現時点での情報を整理しようとしてみたが、すぐに終わってしまった。やはり情報が少なすぎる。  恐らく阿賀松は阿佐美として学園に残っているのは間違いない。  そして、俺と栫井は阿賀松の息の掛かった病院に閉じ込められている。  一週間。正直な話、俺にはそんな悠長にしている時間はない。  不幸中の幸いか、休学届けが出してあると阿佐美は言っていた。ということは、正々堂々と外を自由に動けるわけだ。  とにかく今は芳川会長の安否が気になる。  ――それと、阿賀松の動向も。  阿佐美には悪いが、一週間ここでのんびりしてるつもりは毛頭なかった。  残った阿賀松の存在を芳川会長に伝えなければ、と思ったが、芳川会長が今さら俺の言葉を聞いてくれるのかどうかもわからない。  だとしても、このまま看過していいのか。学園に残った阿賀松を。  そこまで考えた時だった。コンコン、と静かなノック音が響いた。  ……阿佐美ではない。ということは。 「どうぞ」と慌てて声をあげれば、そのまま扉は静かにスライドされる。  そして、 「志摩……っ!」 「おはよう、齋藤。……ようやく意識が戻ったみたいだね」  夢にまで見た男がそこにいた。  以前と変わらぬ軽薄な笑みを浮かべたまま、志摩は微笑むのだ。  気を失う直前の志摩が脳裏にこびりついていた俺にとって、あまりにも変わらぬ志摩に逆に違和感を覚えずにはいられなかった。  そんな俺の思案を余所に、志摩はベッドの側までやってくる。 「怪我の具合は?」 「うん、……まあまあかな」 「そ、まあまあね」  そう笑みを浮かべたまま、志摩は黙る。  笑顔はいつもと変わりない、喋り方も。  ……不自然なまでに。 「……志摩は?」 「ん? なにが?」 「怪我の、具合」  言ってから、余計なこと聞いてしまったかなと後悔する。  それでも、志摩は笑顔で答えてくれた。 「怪我なんて呼べるもの俺にはないよ」  そう笑う志摩の両手首に白い包帯が巻かれていた。それを見て、痛々しいくらい擦り切れた手首を思い出す。  そんなことないはずなのに。 「あの、志摩」 「ん? どうしたの?」 「……なにか、あった?」 「なにが?」 「だから、何か……俺がいない間」 「別に? 普通だよ」  嘘だ、と確信した。何もないはずがない。  暴言どころか嫌味のひとつも口にしない志摩に、俺は今まで感じていた違和感の正体に気付いた。――志摩が優しすぎるのだ。  出会った頃と変わらない、当たり障りのない、それでいて一定の距離を保ったようなその白々しさ――最初出会ったばかりの志摩と同じだ。 「本当になにもなかったの?」 「だからないってば。どうしたの? さっきから」 「だって……なんか志摩、おかしい……」 「……は?」 「俺の心配してくれるし、嫌味も言わないし……」 「……」 「やっぱり、何かあったんじゃ――」  そう、不安になって志摩を見上げた時だった。  がっと、頬を掴まれた。 「……あのさぁ、齋藤」  その声は先程に比べて低く、冷たい。  笑みを貼り付けたまま、志摩はゆっくりと俺を覗き込む。 「俺が優しかったらおかしいわけ?」 「いや、おかしいっていうか……そ、その……気味が悪いっていうか……」 「……」 「し、志摩……?」  しまった、言いすぎてしまったのだろうか。  いくら気味悪いほど志摩が優しいとはいえど、これは流石に志摩も怒るだろう。そう慌てて謝罪の言葉を探したとき、「はあぁ」と志摩は盛大に溜め息を吐いた。 「あの、ごめん、今のは言い過ぎ……」  た、と口を開いた瞬間だった。視界が陰ると同時に、唇に柔らかい感触が触れた。  ほんの一瞬、その感触にびっくりして目を見開けば、すぐ鼻先にあった志摩と視線がぶつかった。  ――キスされた。  そう理解した瞬間、首から上に血液が集まっていくのを感じた。 「な、なに……」 「齋藤が悪いんだよ。……俺は目一杯優しくしてやろうと思ったのに、それを気味が悪いなんて言うから」  自分からキスしたくせに、志摩も志摩でばつが悪いようだ。目を逸らす志摩の頬が赤くなっているのを見て俺は呆然とした。 「優しくって、別に……今更いいよ」 「……本当、齋藤ってムードもクソもないよね。空気読めないわけ? 俺が優しくするって言ってるのに」 「気持ちは嬉しいけど……志摩が優しいと、ちょっと」 「……」  まずい、必死にフォローしようとすればするほど志摩の機嫌が悪くなっていく。  そのままの志摩でいいと言いたいのに、上手く言葉が出てこない。このまま臍を曲げられては堪らない、とにかく話題を変えよう。 「でも、どうして急に優しくしようだなんて、そんなこと」  しまった、全然話題変えられてなかった。 「……それを、わざわざ俺の口から言わせるつもり?」  頷き返せば、つい先程まで胡散臭い笑顔を貼り付けていた志摩の鍍金が剥がれていく。とうとう仏頂面になってしまった志摩は、そのまま考え込むように押し黙った。 「……? 志摩?」 「……別に、意味なんてないよ。なんとなく優しくしてやろうと思っただけ」  そう言って、志摩は「それじゃ不満なわけ?」と今度は自嘲気味に吐き捨てる。  そんなことない。下手に飾り立てた嘘よりも、他愛もない事実の方が俺にとっては嬉しかった。  少なくとも、志摩がそう思ってくれただけでも、俺は。 「だけど……やっぱりちょっと優しいのは……」 「うん、俺もそろそろ堪忍袋の緒が限界なんだけど」  そっちの方がいいかな、と思ったが、これ以上はやめておこう。後が怖いので。  ……なんて、いつもと変わらない元の志摩に戻ったことに安堵するも束の間、いつまでも呑気に感傷に浸ってる暇は俺にはなかった。  気を取り直し、俺は志摩と向き直る。 「あの、志摩……聞きたいことがあるんだけど」 「聞きたいこと?」 「会長たちのこと。阿佐美にも聞いたけど全部は教えてくれなくて。今、学校はどうなってるの?」 「……そうだね。俺もあまり向こうには戻ってないから詳しいことはわからないけど、取り敢えず芳川知憲は生徒会長辞退を取り消した。俺に脅されたって言ってね」  あの時、会長が風紀を連れて現れたのを見てそんな気はしていた。  けれど、やはりそうだったのか。しかし当の志摩も想定内だったのかもしれない、悔しそうな素振りはみえない。 「でも、ムカつくな。自分だけ綺麗なままなんだからさ」 「……志摩」 「わかってるよ。それに、元々時間稼ぎ程度ではあったからね。それに、撤回したとはいえど多少あの会長さんの面を汚せたなら俺にとっては充分だったし」  やっぱり私怨じゃないか。やれやれと言わんばかりに肩を竦める志摩に、悪びれた様子は全く見えなかった。  そういえば、あの時風紀委員に取り押さえられていた志摩は何故阿賀松の元にいたのだろうか。  あまり思い出したくのない話題だが、喉に引っかかった小骨を見過ごすことは出来なかった。 「志摩、どうしてあの時阿賀松先輩の部屋に?」  思い切って尋ねてみる。その瞬間、つい先程まで和らいでいた志摩の周囲の空気がぴしりと凍り付いた。 「……なんで?」  露骨に低くなった声。笑みの消えた志摩の目がこちらを向いた。  触れられたくない話題というのはすぐにわかった。けれど、 「お願い、志摩。……もしかしたら、会長を止めることが出来るかもしれないんだ」 「会長を? ……齋藤、何考えてるの?」  怪訝そうに眉を寄せる志摩。  考えを口にしたところで、志摩に呆れられることは間違いないだろう。お人好し、とまた笑われるかもしれない。  それでも俺の決心は揺るがない。  今回、栫井や志摩を巻き込んでしまって気付いた。  ――目の前で誰かが傷付けられるのは耐えられない。その理由に自分が絡んでいるのなら、尚更。 「俺は……会長と阿賀松先輩を止める」 「なんだって?」 「二人がしてきたことに対して、ちゃんと処分を受けてもらう」  必死に考えた結果、どちらか一方を罰したところで何も変わらない。それどころか均等が取れず、もう一方が暴走する。  報復の連鎖で誰かが巻き込まれるのは見たくない。  そう考えた俺が行き着いた結論がそれだった。 「……」 「だから、教えてほしいんだ、会長のこと、先輩のこと。何でもいいから……」 「……」 「……志摩?」  何も答えない志摩に、やはり呆れてしまっただろうかと恐る恐る顔を上げた時だった。 「ふっ」と、小さく志摩が噴き出す。 「ふ、ははっ! ……いきなり真面目な顔をするから何を言い出すかと思えば……本当、まさか齋藤がそんなこと言うなんてね」 「し、志摩……?」 「ああ……ごめんごめん、少しビックリしてね。あぁ……面白い」  一頻り笑った志摩はそう目尻の涙を拭う。  こちらとしては必死に勇気振り絞った末の頼みを笑われてしまい居た堪れないことこの上ないのだが。  対する志摩は、未だ笑いを堪えきれないらしい。 「し、志摩……俺は本気で……」 「うん、わかってるよ。だから笑ってるんだよ。  ――だって、アレほど平和ボケしていた齋藤が俺と同じこと考えてるんだからさ」  そう、にやりと口角持ち上げる志摩。  そこに浮かんだ笑みは先程までの愛想笑いとは打って変わって冷ややかなもので、細められた目と視線がぶつかった瞬間、ぞくりと背筋に寒気が走る。 「……ってことは、その」 「……ああ、俺が阿賀松のところにいた理由だったね。俺も気付いたときはあの部屋だったから経緯はわからないけど、風紀委員には会長のやり方をよく思っていない委員も数人いるっていうのを聞いたことある。その数人が会長嫌いの阿賀松と組んでても不思議ではないからね」 「その会長嫌いの人が、志摩を先輩に受け渡したってこと……?」 「やめてよ、人をお荷物みたいに言うの。……まあ、そういうことになるんだけどさ」  生徒会側でいながら、阿賀松と繋がっている人間。  それは、使えるのではないだろうか。 「……へえー」  ふと、考え込んでいると志摩がにやにやと笑っていることに気付く。  その目がなんとなく不愉快で、「なに?」と声を掛ければ志摩は「いや別に」と口元を緩める。 「齋藤でもそんな顔をするだって思ってさ」  どんな顔をしていたというのか。楽しげな志摩はそれ以上何も言わなかったが、今は志摩と馴れ合っている場合ではない。 「その風紀委員の人、誰だかわかる?」 「さぁ? 今の風紀委員の内情なんて俺には知る由もないし」 「……そう」  せっかくいい手掛かりになると思ったのだが、志摩でも目星がつかないとすると道のりが一気に遠くなってしまう。  項垂れる俺を他所に、ふとなにかを思い付いたようだ。「ああ、でも」と志摩は声を上げた。 「知ってるだろうって奴ならいるね」 「本当に?」 「齋藤の傍にいるじゃん、生徒会にも阿賀松たちにも通じてるやつが一人」 「本当は勧めたくないけど、あいつらを潰すためだからね」と続ける志摩に、俺は「あ」と声を漏らす。  ――栫井平佑。  少なからず風紀委員とも接触あるであろう奴なら何か知っているかもしれない。  問題は、素直に教えてくれるかどうかだが。

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