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07
清掃の行き届いた病院内通路はうちの学園と同じくらい広い。いいところなのだろう、ということがそれだけでもわかった。
けれど、あまりにも人気がない。こんなに大きい病室ならば他にも入院患者がいてもおかしくないのではと思うのに、見てる限り気配すらも感じない。
たまたまだと思いたかったが、阿賀松たちの息のかかった病院だと知ってるからこそなんだか気味悪く感じた。
「はい、齋藤」
――院内ラウンジ、自動販売機前。
そう笑顔で緑茶が入ったペットボトルを手渡してくる志摩に、「ありがとう」とそれを受け取る。
病室の近くにはにはミネラルウォーターのサーバー機もあったが、断固としてNGを出す志摩によって半ば強引にラウンジまで引っ張られてきた。
それにしても。
「普通だね、思ってたよりも……。もっと閉鎖的な感じかと思った」
「どうして?」
「阿佐美が言っていたんだ。ここから出さないって……出られたら困るからって」
「……へえ」
「そういや、志摩は普通に出入りできるんだったね」
明らかに阿賀松たちに敵意を剥き出しにしている志摩が学園と病院を行き来している。そう考えるとあの阿佐美の言葉はちょっとした脅しだったのだろうか。
そう思って志摩に聞いてみようと思ったのだけれど、志摩の表情が僅かに翳る。
「……」
「……志摩?」
「いや、なんでもないよ。……そうだね、俺は一応普通に出入りできるんだけど……」
そう、なんでもないように笑う志摩だが、膝の上の拳が硬く握り締められるのを俺は見逃さなかった。
何か、余計なことを聞いてしまったのだろうか。
「でも……閉鎖的、ね。あながち間違ってないかもね」
ラウンジのテーブル席。「座ろうか」と促され、俺と志摩は向かい合うようにそのソファーチェアに腰を掛ける。
ふかふかのソファー。掃除だって手入れが行き届いていて、指紋一つ付いていない大きなガラス張りの窓からの日差しもあってラウンジの居心地はかなりいい。
だけど、向かい側に腰をかけた志摩はやはり居心地が悪そうだった。
「ここの病院は六階まであるんだ。けれど、エレベーターのボタンには五つしかない。四階のボタンが存在しないんだ」
そう突然語り出す志摩の口調は、あくまで淡々としたものだった。
突然何を言い出すのか、まさか怪談話か。そう身構えれば、「そんなに構えなくていいよ、大した話じゃないから」と志摩は口元に笑みを浮かべ、頬杖を突く。
「つまり、四階へ向かうにはエレベーターを使うことはできない。その代わり、非常口を使えば他の階を行き来することはできるんだ。……けど、肝心の非常口に続く扉には関係者専用のカードキーが必要でね」
「あの……」
「そして、ここはその四階」
突然変な話をし始めるのでまさかと思っていたが、まさか、本当に。
青褪める俺とは対照的に志摩はあくまでいつもと変わらない。
志摩の話を聞いた後考えてみるば、そんな病院ぐるみで厳重に隔離された場所を入院患者ではない志摩が行き来してる。その違和感に胸の奥がざわつき出した。
そして、その矛盾が導き出す答えは一つだけだ。
「良かったね、齋藤。俺がいてさ」
そして、パンツのポケットから志摩が取り出したのは一枚のカードキー。
病院名が表記されたそのカードキーに、俺は目を見張る。
「ちょっと待って、それって」
「これで、非常口は突破だね」
「……っ、志摩……」
「ん? どうしたの、齋藤」
「どうして、そんなもの……持って……」
「齋藤は気にしないでいいよ」
「志摩」
「大丈夫、盗んではないから。これは、今度は俺のだよ」
「そうじゃない、志摩」
気付けば俺は志摩の腕を掴んでいた。先程までヘラヘラと笑っていた志摩はそのまま動きを止め、眼球だけ動かしてこちらを見る。
そんな志摩の目を見つめたまま、俺は再度問いかけた。
「――どうして、志摩がカードキーを持ってるんだ」
「……」
志摩は都合が悪くなると黙り込む癖がある。
癖と呼んでいいのかわからないが、それでも志摩の沈黙からそれは『都合が悪い』部類に分類されるということが分かった。
志摩が、この四階を行き来するためにこのカードキーを預かった。そう考えるのが妥当だろう。
だけど、その場合。
「もしかして、志摩、どこか悪いのか……?」
阿佐美と同じように通院するため、カードを持っている。
そう考えるとこれ以上の負担を志摩に掛けるわけにはいかない。
恐る恐る尋ねる俺に、神妙な顔をしていた志摩は「ふふっ」と吹き出した。そして、「やだな、齋藤」とやんわりと俺の手を離すのだ。
「ねえ、俺が不健康に見える? 残念ながら健康優良児だよ、悲しくなるくらいにね」
「なら、どうして」
「参ったな……齋藤って、こんなにしつこいんだったっけ?」
「どうしても言えないの?」
「……別に言っても構わないけどさ、齋藤が嫌がるかなって思ったから言わなかったんだよ。わざわざ言う必要もないしね」
「俺が?」
嫌な予感がする。
笑みを消した志摩は少しだけ面倒臭そうに足を組み直した。
「お願い、ちゃんと話して……」
「なら約束してくれる? 俺の話を聞いても、気を変えないって」
「気って……」
「阿賀松と芳川を潰す。そう、俺に言ってくれたこと」
「……」
そこまでしなくはならないのか。
迷ったが、どちらにせよその決意は簡単に揺らがないだろう。
小さく頷き返せば、志摩は「よかった」と頬を綻ばせた。そして、志摩は静かに語り始める。
「この四階はね、隔離監禁以外にも使えるんだよね」
「……え?」
「例えば、外部からの接触を避けたいときとか、安静にするために、とかね」
別にこの病院の仕組みなどについて聞いたわけではないのだが、この話が志摩の隠したいカードキーの入手に関係があるということなのだろうか。
俺は黙って志摩の言葉を聞く。
「まあ別に大した話じゃないよ。ここにはね、俺の兄貴もいるんだ」
「……え?」
「齋藤の病室よりも大袈裟なところだけど、今もすやすや眠ってるよ」
「だから、このカードはお見舞い用にね。貰った。阿佐美に」それだけだよ、と笑う志摩。
そしてすぐさま理解した、何故志摩がこのことを説明するのを渋ったのかを。
もし俺と志摩が協力して芳川と、そして阿賀松を潰したとしてだ。――ここに入院している志摩のお兄さんはどうなる?
そのとき志摩がどういう仕打ちに遭うのか安易に想像できてしまい、言葉を失った。
ぐらぐらと強烈な目眩が襲いかかってくる。なんだ、それは。それって、つまり。
「それだけって……ちょっと、待って。それじゃ、志摩がそれを悪用したらまずいんじゃ」
「どうして?」
「だって、ここは先輩たちの息が掛かってるって……」
「まあそうだね、あいつら馬鹿だから兄貴を人質にしてくるかもねえ」
「だったら……」
やっぱり、やめよう。そう言いかけたが、その先は声にならなかった。
選択肢が俺にはないのだ。この病院から抜け出すには志摩に扉を開いてもらうしかないのだ。
押し黙る俺に、志摩は薄く笑う。
「だから言ったじゃんか、聞かない方がいいって。言っとくけどね、齋藤。阿賀松たちは兄貴を外部から守るためにこの病院に運んだんだよ。この意味が分かる?」
「……志摩のお兄さんには手を出さない?」
「ま、あくまでも希望的観測だけどね。今の阿賀松たちがどう動くかは俺にもわからない。けれど、俺はどうでもいい」
「……どういう意味?」
「簡単だよ。俺は兄貴が死のうが生きようが興味がない。だから、齋藤があいつの身を案じる必要もない」
「ほら、簡単でしょ?」と、笑う志摩は嘘を吐いている様子もなければ虚勢を張っている風でもなく、至極当然のことを言ってみせたかのような口振りだった。
俺には兄がいないからわからない。けれどいくら仲が悪いとはいえど、身内のことを簡単に切り捨ててしまえるものなのだろうか。それって、すごく悲しいことなのではないか。
そう思うと同時に、きっぱりと言いのける志摩の言葉に安堵を覚えてしまう自分に嫌気が差した。
志摩は、俺に手を貸してくれた。自分の兄弟を捨てて、俺に。
素直に喜べない。喜ぶべきではないとわかっているけれど、そんな志摩に酷く勇気付けられるのも事実だった。
「……ありがとう、志摩」
「お礼を言われることでもないよ。齋藤は俺を庇ってくれたんだから」
テーブルの上、置いた掌に重ねられる志摩の掌。
そう、指を絡ませるように俺の手を握った志摩は目を細める。
「嬉しかったよ、俺。……すごく、嬉しかった。誰かに庇ってもらったこと、なかったから」
触れ合った指から流れ込んでくる志摩の熱。いきなり手を握られ驚いたが、振り払う気にはならなかった。
それどころか、志摩の言葉が頭の中で反響して、何も考えられなかったのだ。眼球の奥が熱くなる。
「齋藤が決めたんなら、俺もやるよ。最後まで手伝う。別に齋藤のためじゃないよ、俺がしたいからするんだ」
「……志摩」
「だから、『やっぱりやめた』はなしだよ。齋藤」
真っ直ぐにこちらを覗き込んでくるその瞳の奥、志摩の中にある得体の知れないなにかがこちらを見ているような錯覚を覚えた。
しかしそれに対して不思議と恐怖心はない。志摩から目を逸らすこともできないまま、ぎゅっと更に手を握り締められ、関節が軋む。
――志摩は、わかっていない。
その手を握り返そうとも、手の甲に重ねられた状態では志摩に触れることすら出来ない。
だから俺はもう片方の手で志摩の手を握り締めた。
細い指、骨ばった手の甲。何度も俺はこの手に引っ張られた。
だけど、今度は引っ張られるばかりではいかない。
「……わかってる」
片方の手で志摩の手を包み込めば、僅かに掌の中の志摩の手が反応した。それでも俺は掴んだ手を離さなかった。離せなかった。引き返すのが怖かった。後ろを見て躊躇うことも恐ろしかった。
「志摩、俺、やるよ。……ちゃんと、最後まで諦めないから」
「嘘吐いたら針千本だよ、齋藤」
「わかってる、千本でも二千本でもなんでもいいよ」
口にしてしまえば、気持ちが軽くなる。
今更引き下がれない。志摩の手も借りなければならない。
それでも、志摩はああ言ったが志摩のお兄さんを無視することは出来なかった。
「取り敢えず、そうだね。まずはご飯かな。腹が減っては何とかって言うしね」
そう言って、志摩は立ち上がる。
「売店も怖いし、ここの近くにコンビニあるからそこでなんか買ってくるよ。他に欲しいものある?」
「いや、別にないけど……一人で行くの?」
「そりゃあね、齋藤が出たいのは分かるけどさ、今はまだダメだよ」
志摩と離れるのは少し心細かったが、一々甘えてるわけにも行かない。
それに、ずっと志摩といると怪しまれる可能性もある。
俺には俺が出来ることをやろう。自分に言い聞かせながら、俺は「わかった」とだけ頷き返した。
「それじゃ、一度部屋に戻ろうか」
というわけで、俺は志摩に引っ張られるように病室へと戻ることとなった。
それから「大人しくしてなよ」とだけ言い残して志摩は病室を後にする。
一分一秒でも惜しい状況だ。少しでも何かしたかったが、志摩とラウンジまで歩いただけで大分体力の方が消耗しているみたいだ。志摩を待つ間、ベッドに横になって休むことにした。
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