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「聞こえなかったか? 何故君がここに居るのだと聞いてるんだ」
「ぇ、あ……っ」
まずい。まずい。まずい。逃げろ、早く何処かへ。
頭の中に鳴り響く警報。緊張と動揺で硬直する身体を無理矢理動かし、脚がもつれそうになりながらも俺は部屋の隅へと逃げる。それが、自分を追い込むとわかっていても、今会長の傍に行っては危険だ。そう思ったから。
会長は俺を追いかけることはしなかった。その代わり、チャリ、と小さな音を立て、ロックチェーンが掛けられる。続けざまに内側から鍵を掛けられるのを見て、全身から血の気が引いた。
「なるほど、ずっとここにいたのか?」
深く息を吐き出し、そしてゆっくりとこちらを振り返る芳川会長。その表情には先程までの動揺は見えない。
落ち着きを払った会長は静かに続ける。
「あいつを庇う必要はない。君があいつを庇ったところでなんのメリットにならないのだからな」
そう口にする会長の口元には貼り付けたような笑みが浮かんでいた。
俺がいなくなったことを怒るわけでもなく、笑顔すら浮かべる会長にただ背筋が冷たくなっていく。それ以上に、その口から出てきた言葉に。
「……どういう、意味ですか」
「さあ、どうだろうな。本人に直接聞いてみたらいい。……あいつも、ようやく顔を出したようだからな」
芳川会長はまだ栫井に会っていないようだ。だけどそれも時間の問題のはずだ。
――栫井を会長と会わせてはいけない、直感がそう叫ぶ。ならば、俺にできることは一つだけだ。
一歩、また一歩。目の前までやってきた芳川会長。その手がこちらへと伸びてくるのを見て、咄嗟に俺はそれを振り払った。
俺が抵抗したことに少しだけ驚いたような顔をした会長。ほんの一瞬、一秒だけの隙でよかった。身を低くした俺は会長の脇をすり抜け、そのまま一直線、玄関口の扉に向かって駆け出した。
――早く、早くここから逃げなければ。そして栫井に。栫井に……!
そう思えば思うほど気は焦り、扉の前までやってきた俺はチェーンを掴む。チェーンを外そうとするが、焦れば焦るほど指先が縺れ、思うように動かない。
早く外れろ。そう念じながら、乱暴にチェーンを外したときだった。
背後から足音がし、そして扉に影が重なる。翳る視界。
「悪いが、このまま君を逃がすつもりはない」
すぐ背後、落ちてきた声に気を取られたときだった。後頭部を鷲掴みにされた矢先、そのまま思い切り顔面を扉に押し付けられる。金属の固く冷たい感触と骨がぶつかり合い、脳味噌が揺さぶられるような感覚とともに一瞬視界が白く弾けた。
「ッ、ぐ……っ!」
「……君には無茶をさせて悪かったと思っている。が、確か俺を頼ってきたのは君だったと記憶しているが?」
「か、いちょ……っ」
「あくまで君のためを思っての保護だったのだが、……君には気遣いは無用だったらしいな」
ぎち、と皮膚と鉄がくっつきそうなほどの強い力を掛けられ、眼球が痛みで疼き出す。後頭部、後ろ髪に指を絡めた芳川会長はそのまま俺の顔を覗き込む。
「……やはり、君とは分かり合えないようだな」
「か――」
会長、と続けようとした先は言葉にならなかった。後ろ髪を強く掴まれ顔を引き離されたと思った次の瞬間、離れたはずの扉がすぐ眼前に迫った。そして、鈍い音とともに額を扉へと打ち付けられた。
「ぅ゛、が……っ!」
脳が揺さぶられ、視界が傾く。叩きつけられた頭を抑えたまま踞れば、そのまま芳川会長は俺の首根っこを掴み、扉から強引に引き剥がした。
バランスを取ることも、立ち上がることすらもできなかった。逃げなければ、と手を伸ばしたとき。視界に入った革靴に思いっきり踏みつけられる。
「っ、く、ぅ……っ!」
「君は見た目よりもずっとタフなようだ。……お陰で余計に手こずらされたよ」
「か、いちょ……」
「あまり、乱暴な真似はしたくないのだがな」
そう俺の手の甲の上、座り込んだ会長の体重が靴底に集中し、手の甲の骨がギチギチと軋むのが聞こえてくる。遅れてやってきた痺れるような鈍い痛みに汗が噴き出した。
このままでは駄目だ。逃げなければ。そう思うのに、頭を叩きつけられたせいか全身にまだ痺れたような感覚が残っており、上手く力が入らない。
戦意喪失したと見做したのか、俺の様子をじっと見下ろしたまま会長は制服からプラスチックのケースを取り出した。
「本当は栫井に使うつもりだったが……まあいい」
「結果的には変わらないか」そのまま肩を掴まれ、床へと伏せるように体を抑えつけられる。床へと置かれたケースの中、注射器のようなものが入っているのが見えた。何に使うためのものなのか、考えたくもない。
首、シャツの襟首を乱暴に開かれる。剥き出しになった首筋。会長の手が注射器を掴み、その針の先端が皮膚に当たりそうになった瞬間、俺は咄嗟に体を捩った。
「……っ、ぅ……!」
首筋から狙いは外れ、鎖骨付近に針の先端が引っかかるような痛みが走り、目の前になにかが転がった。これは間違いなくチャンスだった。
俺は考えるよりも先に自由な方の手で注射器を奪う。それを使うつもりはなかったが、その拍子に会長の手の甲が針に引っかかったようだ。その手の甲に一本の傷が走り、ぷつりと赤い小さな玉が滲むのを見て冷や汗が滲む。
「……少しはやるらしいな」
落ちてきた会長の声は僅かに笑っているようにも聞こえた。体を押さえつけていた会長の手が離れたと思ったとき、俺から注射器を取り上げた会長はそれを捨てる。
「残念だ、齋藤君。……せっかく君に会えたというのに」
そう笑う芳川会長の額には汗が滲んでいた。明らかに会長の顔色が悪くなるのを見て、思わず俺は息を飲んだ。
確かにこの瞬間、俺は会長に気を取られていた。もしかしたら中に入っていた薬品がまずいものなのではないか。それを俺や栫井に打とうとした事実はあれど、会長の体に流れ込んでしまったのではないか――そんな思考に囚われたのだ。
それが、まずかった。
「相変わらず甘いな、君は」
だからこそ、こちらへと伸びてきた手から逃げることを忘れてしまっていた。
「こういう時は相手のことなど気にせず、真っ先に逃げるべきだ」
会長の指先が髪に触れそうになる。その言葉にハッとし、後退ったときだった。
『会長さん、居ますか?』
扉の外から聞こえてきたその声に心臓が大きく跳ね上がった。
馴れ馴れしさのある鼻にかかったその声に、別の意味で現実へと引き戻された。
聞こえてきたのはあいつの、壱畝遥香の声だった。
悪夢を見ていたような感覚から一気に目が覚め、俺は扉と目の前の会長を交互に見た。
「……ああ、そうだ。言い忘れていたな。齋藤君、君に朗報がある」
「ろう、ほう……?」
「もう君に無茶させる必要はなくなった。……ままごと遊びももうおしまいだ」
伸ばされた指が、頬から耳の付け根、そして顔の輪郭を確かめるようにゆっくりと皮膚の上を滑っていく。いつ爪を立てられ、皮膚を突き破られるか分からない恐怖心の中、俺はただ会長を見上げることしかできなかった。冷たい指先はまるでゴムのようにすら思えた。
すぐ扉を隔てた向こう側から聞こえてくる壱畝遥香の声すら、俺の耳には届かなくなる。会長を見上げたまま固まる俺に、芳川会長は目を細めるのだ。
「邪魔なやつらは消えた。――君はもう必要ない」
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