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 その一言は、頭を鈍器で殴られるよりもずっと重く全身に響き渡った。死刑宣告にも等しい会長の言葉に目の前がじんわりと暗くなっていく。  早鐘を打つ心臓、その心音が遠くなる。金縛りにあったかのように全身の筋肉が硬直した。 「安心しろ、齋藤君」  レンズ越し、向けられる視線はどんな刃物よりも冷たく鋭い。 「責任は取ろう」  他人に尻拭いは任せられないからな、と静かに口にする会長の目は据わっていた。  ――本気だ。  そう気付いたと同時に俺は落ちていた注射器に手を伸ばす。  無機質なプラスチックの感触。注射器なんて使ったこともない。正しい使い方もろくにしらない、知ろうとも思わない。  そして、これがなければ栫井も助かる。  その一心で俺は拾った注射器の先端を床に叩き付けた。折れたのは針だけだったが、それでもいい。使い物にならなくなれば、それで。 「……どうした? まさか、それでしてやったと思っているつもりではないだろうな」  潰れた注射器を見て安堵した矢先だった。 「ハプニングが起きてスペアが必要になることくらい想定済みだ」そう、会長が取り出した二本目の注射器に気付いた時にはもう遅かった。  腹にのめり込む会長の靴先。鉄板かなにかでも仕込まれてるのか、硬く抉るような一撃に一瞬意識ごと飛びそうになる。そして、圧された内臓物が逆流して迫り上がってくる。  嘔吐を堪える暇もなく今度は鳩尾へとねじ込まれる靴先。そして全身にふわりとした感覚が広がる。 「っ、ぅ、ぐぅ゛ごぽ……ッ!」  耐えきれず、喉から溢れる吐瀉物を床へと吐き出す。そんな俺をただ見下ろし、芳川会長は俺の腹を踏みつけたまま座り込むのだ。 「何、心配することはない。死にはしない」 「死にはな」と注射器を手にした芳川会長は確かに笑った。それは俺の好きな会長の笑顔とは掛け離れた冷ややかなものだ。  仰向けに体を踏みつけられたまま、眼前に迫ってくる注射器の針から目を逸らすことなどできなかった。  玉のような汗が噴き出す。振り払わなければ、と思うのに、下手に動けば逆に針が刺さりそうなほどの距離だった。 「言っておくが、こういうときは暴れない方がいいぞ」 「注射中、うっかり針が折れて身体に残ってしまっては大変だからな」芳川会長の手が俺の顎下を捉え、そのままぐ、と上を向かせる。  剥き出しになったその首筋、血管を探るように這わされる指先にドクドクと鼓動は更に激しく脈打つ。  血管の中に取り残された針が流れに流れ、その先で辿り着いた心臓に突き刺さるのを想像してしぞっとした。  逃げなければならないのに、体は石になったように動けない。  このままされるがままになるしかないのか。  そう、迫る針先に息を飲んだ時だ。 『……あれ? 志摩君?』  ――聞こえてきたのは壱畝の声だった。  その名前を聞いた瞬間、つい先程まで汚泥のように暗く淀んでいた思考が一気に鮮明になった。   そうだ、志摩。……俺には志摩がいるのだ。あんだけ口煩く言われていたのに、どうやら窮地のあまり視野狭窄に陥ってしまっていたようだ。  何を諦めているのだ、俺は。動こうが動かまいが、どちらにせよよくわからない薬品を注射されるというのなら、動くしかない。  尚且つ、動いて刺されないようにするしかない――そう、志摩なら言うだろう。  ならば、と俺は注射器を手にした会長の手首を掴んだ。 「っ、は……どうした、ヤケにでもなったのか?」  そう捉えられても仕方ない。実際ヤケになってる部分もある。それでもいい、この状況を変えられるのなら。  返事の代わりに会長の手の中のそれを掴んだ。針が刺さりそうになったが、構わない。中身の液体を注入されなければ問題はない。  そう、思いっきりその注射器を会長の手から奪い取った。  そして会長の掌にそれを突き立てる。  細い先端は手の甲へと呑み込まれ、俺から手を離した会長はその注射器を引き抜こうとした。その瞬間、確かに会長の両手はがら空きになったのだ。  会長を思いっきり突き飛ばし、死にものぐるいで逃げ出した俺は扉のチェーンに手を伸ばす。 「貴様……ッ!」  腹の底から響くような会長の声に体が震えた。けれど、この扉の外に志摩がいる。そう思うとその恐怖すらも乗り越えられた。  先程よりもあっさりとチェーンは外れる。俺が乱暴にドアノブを掴んだのと、背後から会長の手が伸びてきたのはほぼ同時だった。  縺れて動かない足をひたすら前に出し、前のめりになるように部屋の外へと俺は飛び出した。 「齋藤……っ?!」 「ゆう君?」  まず聞こえてきたのは志摩の声だった。  顔を上げればこちらを見て驚く志摩がいて、その隣には壱畝がいた。  壱畝の姿に一瞬怯みそうになったが、今はそんなことで足を止める時間すらも惜しかった。 「……ッし、ま……」  真っ直ぐに志摩へと駆け寄る。そのまま手を伸ばそうとした直後だった。 「……っ、待て……ッ!」  勢い良く開かれる扉――会長だ。  手を抑えてこちらを睨みつけてくる会長だが、先程よりも明らかに動きが鈍くなっていることに気付いた。  そのまま蹌踉めく芳川会長に、何事かと目を丸くした壱畝は「会長さん」と慌てて支える。  その様子に志摩は何が起こったのか理解したようだ。 「……なるほどね」  と、いきなり伸びてきた手に体を引き寄せられる。「ぁっ」と思った時には指を絡め取られ、そのまま手のひらごと包み込むように強く手を握り締められた。 「行くよ、齋藤。転ばないように気をつけてね」 「志摩……っ」  言うや否や、走り出す志摩に体を引っ張られる。  相変わらず足は縺れそうだったが、志摩が強く引っ張ってくれるからもたつく暇もなく転ぶこともなかった。  残された会長と壱畝のことを気にする余裕なんてない。俺はただ志摩から逸れて仕舞わないよう、置いていかれないようついていくことで精一杯だった。  そうでもしなければ、少しでも立ち止まってしまえば、すぐ背後まで迫ってきている得体の知れない何かに雁字搦めにされそうだったからだ。  それから、俺たちは一体どれくらい走っただろうか。  繋がれた掌、針が掠めた痛みも恐怖も全部志摩の熱に溶かされ混ざっていた。 「……っ、はぁ、は……ッ」 「ここまで来たら大丈夫かな。ね、齋藤……」  ――広い学生寮内。  とにかくあの部屋から離れようと一年のフロアまで避難してきた俺と志摩。  いつまたどこで会長と鉢合わせになるかわからない。それでも逃げ延びることができた。  少しでも迷えば、今頃俺はあの部屋から出られないまま最悪の事態を迎えていたかもしれない。けれど現実はどうだ、今、俺はこうして志摩と一緒にいる。  やってしまったんだ、俺は。会長に、歯向かったんだ、面と面を向かって。  そう理解した瞬間、胸の奥底、今まで溜まっていた何かがぶわりと溢れ出す。 「……っふ……」  ぼろりと涙が零れた。  それが切っ掛けとなり、次々に溢れてくる涙は止まることを知らず流れ落ちていく。  こちらを振り返った志摩はぎょっとした。 「え? ちょっと……なんで泣いてんの?」 「し、ま……」  自分でも止まらない涙に戸惑う。    俺はもう会長とは元に戻ることはできないだろう。以前のように一緒にご飯食べることも、他愛ない話をすることも出来ない。  もう俺にそうする価値はないから――そう考えるとただひたすら悲しく、歯痒くもあった。会長のことを何も知らなかった自分の間抜けさに、そして憧れだった会長が偽物だったということに。 「……齋藤」 「……っ、ごめ、俺……」  このタイミングで泣くなんてきっと敏い志摩には勘付かれるだろう。嫌がられるに違いない。  分かっていたけど、どうやっても最後の会長の笑顔が浮かんでしまうのだ。  こうなると分かって行動していたはずだ。覚悟も決めていた。けれど、まだ俺は何も感じれなくなるほどの心を持っていない。  子供みたいだと我ながら呆れる。それでも涙は止まらない。これ以上情けないところを志摩に見せたくない。顔を腕で覆い、「ごめん」と謝りながら顔を逸らそうとした時だった。志摩に腕を掴まれた。  怒られる。そう目を瞑った矢先、志摩に抱き締められる。 「……ッ! し……」 「……ねえ、どうして泣いてるの?」  それは静かな問いだった。 「俺は、嬉しくて堪らないよ。齋藤が自力で芳川から逃げてくれたことが。……俺の手を取ってくれたことが」 「……し、ま」 「何があったか教えてくれる? ……俺もさ、結構焦ってんだよね。いきなり齋藤が泣き出すから。ビックリしちゃってさ」  ゆっくりと、優しい手付きで背中を撫でられる。  いきなり抱き締められた驚きで気付けば涙は止まっていて、顔を上げれば直ぐ鼻先には志摩の顔があった。目があって、志摩は微笑む。 「だから、一から全部説明して」  全部――そう、俺の頬へと伸びた指は柔らかく涙を拭う。妙に圧のあるその笑顔に、俺はただ頷くことしかできなかった。

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