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 ――飼い慣らす。  そう決意したのはいいものの、実際それをこうどうに移すとなれば話は変わってくる。  まずは八木と親睦を深めて警戒心を解くことを優先させた方が良いのだろうが、話題も無ければ睨むようにこちらを見下ろしてくる八木に話し掛けられるような隙もない。 「……」 「……」  栫井のいなくなった部屋の中、さてどうしたものかと考えていたときだった。  栫井の見送りから戻ってきた八木は「おい」とソファーの片隅から動けずにいた俺に声をかけてきた。 「え、あ、はっ、はい……!」 「お前、本当に伊織さんと付き合ってたのかよ」 「……え?」 「伊織さんの趣味じゃねえんだよなぁ、色気ねえし」  色気、男の色気というものは確かにないかもしれない。  隣へとどかりと腰を下ろしてくる八木。そのまま品定めするような目を向けてくる八木に緊張が走る。  そもそも阿賀松との関係自体それこそ芳川会長への当て付けのようなものだったのだからそんなこと言われても困る、というのが俺の本音だ。 「で、でも、それでも付き合ってます……ので……」 「ふーん」  疑われているのだろうか、突き刺さるような八木の視線にだらだらと全身から汗が流れる。そもそもこの人目付きが悪すぎるのだ。  穴が開きそうなくらい見詰められ、なんだか生きた心地がしない俺に、「じゃあ」と八木が口を開く。 「ヤったことあんのかよ」 「へっ?!」 「初めてじゃねーんだろ?」  何を言い出すのか、堂々とセクハラ紛いの質問をぶつけてくる八木に俺の緊張はピークに達する。  恐らく、嘘が本当か俺の反応を見てるのだろう。それにしても、もう少しこう、オブラートに包むということはできなかったのだろうか。  首から上に熱が集まる。ええいと半ばやけくそに頷き返せば、ふうん、と八木は更にこちらへと距離を詰めてくるのだ。  そこはかとなく嫌な予感がして咄嗟に隅へと逃げたとき、いきなり伸びてきた手に腕を掴まれる。  突然の行動に反応が遅れてしまった。そのままぐい、と身体を寄せられたと思えばそのまま人の頭部に顔を近付けてくる八木。  もしかしてこの人も阿賀松タイプの人なのかと身構えたときだった。すん、と鼻を鳴らした八木は「臭えな」と小さく呟いた。 「……え?」 「薬品臭えな、お前」  その言葉に、俺は自分がバタバタ病室から抜け出してきたばかりだったということを思い出す。  シャワーを浴びる暇もなかったし、走り回ったりとしたせいで汗が混ざって臭いことこの上ないはずだ。 「っす、すみません……」 「シャワー浴びてこいよ」 「え……」 「どうせ暫くここにいるんだろ? 俺の部屋に匂い付けんなよ」  潔癖なのだろうか、言いながらサイドボードから消臭スプレーを取り出し、そのままこちらへと投げて渡してくる八木。それを落とさないように慌てて受け取り、顔を上げる。 「あ、や、でも、その」 「一人じゃ洗えねえって?」 「大丈夫です、できますっ」 「じゃ、さっさと浴びてこい。その間服もクリーニングさせてくるからよ」 「あ、え……す、すみません」 「着替えは……ねえか。手ぶらだしな、お前」 「ごめんなさい……」 「急なら仕方ねえだろ。……取り敢えず服、適当なの貸してやるからそれで我慢しろ」  そう、ソファーから立ち上がった八木は部屋の奥へと向かう。  相変わらず不機嫌そうではあるが、テキパキと着替えの服を見繕う八木はなんだか手慣れてるようにも見えた。  それから、着替えとタオルを八木から受け取った俺はそのまま洗面室へと詰め込まれることとなったのだ。抵抗する暇もなかった。  まあ、俺としても汗を流したいところだったので願ったり叶ったりではあるのだが如何せん相手は阿賀松に心酔しているような相手だ。初対面の上そんな相手の部屋で裸になることに抵抗がないかといえば嘘になる。  が、こうなってしまったものは仕方ない。  取り敢えず八木との二人きりの空間から逃れられたことに一息しつつ、俺は携帯を取り出した。  着信履歴三十二件、メッセージ十七件――全部志摩からだ。  怒ってるだろうなと思いながらも取り敢えず折り返しの電話をかけたときだった。通話はすぐに繋がった。  そして、 『もしもしっ?!』  端末から聞こえてくる声に鼓膜がビリビリと痺れる。顔が見えずとも志摩が怒ってるのだけは分かった。 「ご、ごめん、志摩、電話出れなくて……」 『それよりも、どういうこと? あいつ一人だけ戻ってくるってなに? 大丈夫なの? 今どこ?』 「ええと、その、そのことだけど……俺、暫く八木先輩のところにいることになったから」  洗面室の外にまで聞こえない程度の声量で返せば、『はあっ?』と呆れたような志摩の声が飛んでくる。  志摩の反応は最もだ。俺だって、まさかこうなるとは思ってなかったのだから。 「ええと、取り敢えずその、協力してもらえるよう頑張るから……! だから、志摩も栫井と喧嘩しないで――」  ね、と言い掛けたと同時だった。 『おい、なんか言ったか?』  洗面室の外から聞こえてきた八木の声に口から心臓が飛び出しそうになる。 「いえ、何も……!」 『ちょっと、齋藤……』  このまま通話のことが八木に知られるのはまずい。  咄嗟に通話を強制終了させ、俺はそのまま端末をポケットに戻した。 『さっさと入れよ。お前には聞きたいことがあんだからな』 「わ、分かりました……っ!」  小さな舌打ちとともに、そのまま八木の足音は離れていく。そこでようやく俺は息を吐いた。 「ふう……」  危なかった。  もう少し声には気を付けたほうが良さそうだ。  八木の気配が完全になくなったのを確認し、俺は再びスマホを取り出した。すると、丁度志摩から電話がかかってきてるところだった。俺はそれに出る。 「ごめん、いきなり切って」 『別にいいけど……今どこにいるの?』 「八木先輩の部屋の……脱衣室。いまからシャワー浴びるから暫く電話出られないかも」 『はあ?!』 「ちょ、志摩、声大きいって……耳痛いよ」 『ちょっと待って、齋藤、今直ぐそこから出て』 「出るって……無理だよ。せっかく栫井が頼んでくれたんだから」 『だって可笑しいでしょ、なんでいきなり風呂なわけ? 下心しか見えないんだけど』  良からぬことを考えているようだ、志摩は段々ヒートアップしてくる。  志摩じゃあるまいし、と口から出そうになったがなんとか寸でのところで飲み込むことができた。 「な、何言ってんの……志摩の考え過ぎだってば」  正直、俺もその可能性を考えなかったわけではない。が、そんなことを言ったら志摩が窓を突き破ってくるかもしれない。  これはせっかく栫井が用意してくれたチャンスだ。無碍にするわけにはいかないのだ。 『とにかく今直ぐその部屋出て。俺もすぐそっちに……』  そのときだった。不意に、志摩の声が激しいノイズにかき消される。 「志摩?」と端末に呼び掛けた時だった。 『……聞こえるか?』  ノイズが消えたと思えば、次に聞こえてきたのは落ち着いた声――栫井の声だった。  どうやら志摩から携帯を奪ったようだ、戸惑いながらも「うん」と答える。 『表向き八木さんは阿賀松と関割ることはない。会長もそのことを知らないはずだ。……後はそっちで適当にしろ』 「て、適当って……」 『疑われたら終わり。……だから、手こずんなよ』  そう一言。栫井からの連絡は素っ気ないものだった。 「え、終わりって……」  どういうことだ、と聞き返そうとしたが、栫井がそのまま通話を切る方が早かった。俺の呼びかけは虚しく洗面室に響く。  ……切られた。  聞きたいことはあったし心配もなくなったわけではない。なにより向こうも向こうで心配だが、今は目の前のことに集中するしかなさそうだ。  八木は阿賀松の協力者でありながらも、会長の支配下にある。そして会長はそのことを知らない。  両方を行き来する事が出来る八木ならば、使えるだろう。  とにかく焦っては駄目だ。冷静にならないと。  そう自分に言い聞かせ、一先ず俺は汗を流して頭をスッキリさせることにした。

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