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 どれくらい時間が経ったのだろうか。  浅い眠りの中、遠くで扉の開く音を聞いた。  段々と近付いてくる足音。起きるタイミングを見失っていると、暫くして足音は離れていく。  俺が眠っているのを確認したのだろうか、なんて思った矢先。いきなり体にふわりとかけられるシーツの感触に驚いた。  多分、ここで目を覚ましてたら良かったのだろうが俺も俺で戸惑っていた。そのまま狸寝入りをしてる内に八木の気配は再び離れていく。 「……」  優しい。  体が次第に温まっていくのを感じながら、俺はシーツに包まったまま再び深い眠りへと落ちていく。  そして次に目を覚ましたときはまた八木の姿はなかった。  既に夕方になり、日が落ち始めている時間帯。  固くなった筋を伸ばすように軽く伸びをしたあと辺りを見渡したとき、不意に脱衣室の方から声が聞こえてきた。 『……すね、だけど……』  断片的に聞こえてくる声は間違いない、八木のものだった。誰かと話してるようだ、俺はなるべく物音を立てないようにソファーから降り、脱衣室の扉の前まで移動する。  そのまま扉に耳を押し付ければ、今度はハッキリと八木の声が聞き取ることができた。 『それなら、今夜どうですか? ……はい。消灯過ぎたら制限されますし、そっちのが動きやすくなります。俺、そっちに行きますよ』  聞こえてきたのは確かに八木の声だが、なんだかいつもと様子が違う。興奮気味で早口だし、なによりもあの八木が敬語で話している。  八木が敬語で話すような相手、俺には一人しか思い浮かばなかった。  ――阿賀松伊織か。 『はい、ええ、調査内容の詳細は会ってからお伝えします。虚偽はないとは思いますが念の為、直接お会いしてお話させていただければと』  やはり、あの調査報告書のことなのだろうか。  今夜という言葉につられ、壁にかかった時計を確認する。夜と呼べる時間までそうない。 『それでは、失礼します』  そして、その会話は終わりを迎える。  それからこちらへと向かってくる八木の足音。咄嗟に扉の前から移動しようとするが、間に合わなかった。  扉の傍にあった店に足を引っ掛けてしまったのだ。 「わ……っ」  躓き、傾く体を支えようとするが間に合わず、そのまま転倒する俺。そしてすぐに背後の扉が開き、扉に体がぶつかった。 「……何やってんだ、お前」  ――間に合わなかった。  頭上から落ちてくる冷たい声に背筋が凍り付く。 「いえ、あの、先輩がいなかったので、その、探してて」 「盗み聞きしてたのかよ」  向けられるその目には明らかに侮蔑が混ざっていた。  なんとかして誤魔化さなければ、と思うが、この状況からして言い逃れはできない。 「す、すみません……その、盗み聞きするつもりはなくて、声が聞こえたので……」 「本当、それだけなんです。すみません」と慌てて頭を下げるが、相変わらず八木の目は冷たい。疑われてるのが分かったからこそ、これ以上なにもできない。 「聞いてたのか?」 「え?」 「話の内容だよ」  いえ、と即座に首を横に振ればよかったのだろう。けれど咄嗟の問いかけに俺はすぐさま反応することができなかった。  その、と口篭れば、八木に胸倉を掴まれる。 「……っ!」 「聞いてたんだな」 「……っ、な、内容まではよくは……」 「……」  何を言っても恐らく八木の悪印象を払拭することは不可能だろう。素直に答えたとき、八木の手は離れる。  バランスが取れず、そのままへたり込む俺を前に八木は俺の頭を掴む。 「今聞いたことは全部忘れろ。いいか?」  ぐ、と押さえつけられた後頭部。かかる負荷、落ちてくる低い声に頷くことすらも許されなかった。「分かりました」と喉奥から絞り出せば、ようやく八木の手は離れた。  そして、そのまま八木は俺の横を通り過ぎてベッドの方へと向かう。  しばらく俺はその場から動くことはできなかった。  ――そして、約束の夜が近づいてきた。  あれから八木と俺の間に会話らしい会話もなかった。俺はソファーの上から動くこともできないままただ膝を抱えてやり過ごすのが精一杯で、そんな中、八木が出かけた。  どこへ行ったのかは分からないが、例の報告書はまだ引き出しの中にある。  それも今夜の内に阿賀松の手に渡ってしまうだろう。つまり、行動に移すのなら今しかない。  俺は八木がいなくなったのを確認し、志摩に電話をかけた。志摩はすぐに出た。 『齋藤?』 「……今夜八木先輩、阿賀松と会うみたいだ」  特に志摩は驚いた様子無く、だからといっていつものような軽薄な態度を取るわけでもなく『今八木はどこにいるの?』と静かに聞き返してくる。 「いない、どこに行ってるかはわからないけど……」 『わかった。なら今すぐそれを持って――』 「その事なんだけど、頼みがあるんだ」  志摩の言葉を遮るよう、俺は声を振り絞る。  八木といる間も自分なりに必死になって考えていた。これからのことを。最善の方法を。  その結果。 「志摩、報告書をこの部屋から盗み出すことは出来る?」  その言葉を出すことにかなり抵抗はあった。  なんなら今でも迷っている。それでも、今の俺の頭ではこれが最善の方法だったのだ。 『……は?』  そして、呆れ果てた志摩の声が聞こえてきた。志摩がどんな顔をしてるのか安易に想像つく。 「八木先輩はまだ使える。だから俺はもう少しこっちに残りたいと思うんだ」 『だから、その代わりに盗み出せと?』 「ただ盗み出すわけじゃない。会長たちの仕業だって思われるようにしたいんだけど」 『それを種に八木を扇動するつもりだね』  悪企みとなると普段よりも更に物分りがいい志摩には今だけは感謝しなければならない。  八木に怪しまれている今、このままでは勘付かれるのも時間の問題だと分かっている。  けれど、そこにイレギュラー要素があれば。俺への警戒は逸れ、俺に対する八木の警戒は薄れてくれるのではないだろうか……なんて淡い期待を寄せる自分がいた。 「難しいかな」 『あくまで生徒会の仕業としたいんだったら俺じゃダメだろうね。八木にも顔割れてるだろうし、コソコソやっても犯人の目星がつかなければ意味がない。最悪、齋藤の仕業だと擦り付けられる可能性だってあるわけじゃん』 「目星……」  痕跡だけでもいいから八木たちに生徒会の仕業と連想させる何かがあれば。  なにかあるだろうかと考えたとき、向こう側で志摩が笑ったのはほぼ同時だった。 『記録を残すんだよ、齋藤』 『俺にいい考えがあるよ』と、志摩は静かに続ける。  その声音は先程よりもいくらか柔らかくなっていて、「本当?」と咄嗟に聞き返せば『うん』と志摩は自信ありげに笑う。 『栫井を使おう』  一瞬、志摩の言っている意味が分からなかった。 『シナリオはこうだよ、副会長の座を取り戻すために会長に命令された栫井平佑は八木の部屋に侵入。齋藤をその部屋に置いたのも全部利用する為だった、ってね』 「っ、ちょ、ちょっと待ってよ……っ!」 『栫井には俺の方から言っておくよ。八木が芳川を陥れるための証拠を今夜阿賀松に引き渡すつもりだっていえばあいつ、簡単に動くよ』 「だから、待ってってば」  こちらの話を聞こうともしない志摩に耐えられず、咄嗟に大きな声を出してしまう。 「そんなの……そこまでしなくても……」 『でも齋藤、それが一番確実だよ』 「……っ、だけど」  これ以上栫井の心情を逆手に取るなんて真似、出来ない。  ただでさえ立場すら失ってしまったばかりの栫井をこれ以上、追い詰める真似。  これでは会長とやってることは同じではないかと言葉に詰まる俺に、向こう側の空気が変わるのが分かった。 『それともなに? 俺の手は汚させてもあいつの手は汚させないってこと? それって随分と虫のいい話だね、齋藤』 「そんなこと……」  ない、と言い切れない自分がいた。  そうだ、同じことを俺は志摩にさせようとしているわけだ。それを栫井相手には躊躇っている。  志摩なら俺の言う事を聞いてくれる、どんなことでも、同じ目的のためなら躊躇いもなく。 『安心してよ、齋藤。もちろん齋藤は何も知らなかったフリをすればいい、全部は栫井平佑の仕業だ』 『ね、これなら完璧でしょ』そう、笑う志摩はどこまでも楽しそうだった。  確かに志摩の提案は俺の望むものだった。  だけど栫井に全ての濡れ衣を被せる――栫井が自ら望んで会長を助けるのだから栫井は俺達を恨むことはないだろう。頭では理解出来たけれど、心が拒む。    時間はない、考えてる時間も。押し黙っていると、『齋藤』と名前を呼ばれる。 『俺達に手段を選んでる暇なんてあるの?』 「……志摩」 『目的を見失わないでよ』  そう一言、柔らかいその声はナイフのように鋭く、深く、俺の心臓に突き刺さる。  これはもう俺だけの問題ではないのだ。志摩との約束だ。 「……わかった」 「栫井への説明はそっちに任せるよ」そう答えた瞬間、自分の中の何かが擦り切れていくのが分かった。口から出た自分の声は酷く冷たく聞こえたのだ。 『齋藤ならそう言ってくれると信じてたよ』  そんな俺の言葉に志摩はどこまでも志摩は嬉しそうだった。

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