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学生寮、芳川会長の部屋の前。
封筒を抱きかかえ、そっと目の前の扉をノックする。しかし、反応はない。
もしかして不在なのだろうか、と思いながらも一度扉を叩こうとした時だった。
「そこでなにをしている」
背後から掛けられたその冷たい声に、冷水を浴びせられたかのように全身が凍り付く。
恐る恐る振り返れば、そこには。
「芳川、会長」
「わざわざお見舞いに来たのか。……ご苦労なことだな」
皮肉交じり、俺の背後に立った芳川会長。あの時のように襲い掛かってくるわけでもなく普段と変わりないように見えた。しかし、こちらに向ける視線はどこまでも冷たい。
こちらの芳川会長の方が仮面のような印象を抱いてしまうのは、やはりその真意がまるで読み取れないからだろう。
怖気付くな。会長が何者であれ、俺と同じ人間には変わりない。
怖気付くな。言い聞かせるように頭の中繰り返す。
「……いえ、話があってきました」
「お話か。一人か?例の友達はどうした」
「志摩はいません。俺だけです」
「そうか」と呟く会長。
人目があるからか、いきなり殴りかかってくるような真似をしなかっただけ安心する。
俺の横に並んだ会長はそのまま扉を開錠させる。そして、扉を開いた。
「入れ、ここじゃ話しにくいんだろう」
「……」
「別に用がないというのならここで帰ってもらっても構わないがな」
自分からノコノコと敵の懐に入るような真似、とは思ったが、恐らく試されているのだろう。
「失礼します」と言われるがまま会長の横を通り過ぎようとしたとき、レンズ越しに芳川会長と目が合った。
「ああ、ゆっくりしていってくれ」
「君さえ良ければの話だがな」そう笑う芳川会長。
閉められる扉。ロックがかかる音を聞きながら俺は自分の退路が絶たれるのを肌で感じた。
会長の部屋の中。以前と変わらない質素な部屋には俺と会長以外の気配はない。つまり、一対一だ。
向かい合うようにソファーに腰をかける俺と会長。俺たちの間にはコーヒーテーブルがあるものの腕でも伸ばされれば逃げられない距離だ。
「飲み物は?」
「いえ、結構です」
「遠慮しなくても構わないんだぞ」
「長居するつもりはありませんから」
何度も薬を盛っておきながらまだ俺が出された飲み物を口にすると思ってるのだろうか。それとも、ただの善意――という可能性は低いだろう。
とにかく今は相手のペースに呑まれることだけは避けたかった。
そうひたすら考えた結果が、志摩だ。口先だけは達者で他人を誘導することを得意とする志摩を見習ってみたのだが、思った以上に居心地は良くない。が、その代わりに肩の重荷が減った気がするのだから不思議だ。
「……それで、話というのは?」
「芳川会長に……いえ、伊東先輩の耳に入れたいことがあってここに来ました」
「なるほど。ところで伊東とは誰のことだ?」
白を切ってるというのはすぐに分かった。
会長の口元に浮かぶ笑み、本当に覚えのないなら俺の知ってる会長ならばそれこそ反応すらしないだろう。
「貴方のことです、会長。……今年で三年目の芳川という姓よりは馴染み深いと思うんですが」
その言葉に一瞬、会長から笑みが消える。正確には表情が消えたというべきか。会長の心情読み取れなくなって背筋に冷たい汗が流れ落ちる。それでも、反応したことには違いない。
立ち止まってる暇はない。会長に主導権を奪われる前に「阿賀松先輩たちが」と俺は口を開いた。
「阿賀松先輩たちが、栫井の怪我のことで会長を告発しようもしています」
「それで?」
「阿賀松と繋がっている生徒の部屋からこれを見付けました」
抱えていた封筒の中から書類を取り出す。俺はあの監視カメラの映像をプリントアウトしたものをテーブルの上に広げる。
黒目だけ動かしてそれを一瞥した会長は再びこちらを見た。
「何故わざわざ俺に知らせる必要がある」
「会長の処罰が決定的なものになると思ったからです」
「そうか、それはご協力感謝しよう」
そうテーブルの上、広げた写真を手に取った会長はそれを破り捨てる。ひらひらと花弁のように落ちていく紙くずと化したそれに息を飲む。
怯むな、と自分を鼓舞する。志摩ならばこれくらいで狼狽えない。
「それは、阿賀松が退学したことでその権威が形を失くしたからですか」
「ああ、それは君が一番知っているだろう。いくら残党共が騒いだところで決定的な証拠にはならない」
「――俺はそうは思いません」
残りの紙の束を拾い上げようとした会長の指がぴくりと反応する。
ゆっくりとこちらを見上げてくる会長。負けじと俺はその目を見つめ返した。
「阿賀松先輩と同等の力を持ってる生徒がいたことを知っていますか」
「……」
「理事長の孫はもう一人います」
「そいつは、阿賀松先輩として成り済ましてつい先日、学園を辞めさせられました」手元のカードをどこまで出すのか迷った。が、会長相手に手札を出し惜しみしているとあっという間に喉ぶちごと食いちぎられてしまうことは間違いないだろう。
会長の目はすっと細められる。
「君は、阿賀松がまだこの学園に残っているとでも言うのか」
――食い付いてきた。
会長が俺の言葉に耳を向けている。信じてもらわなくていい、まずは対話する必要があった。当たり前のことだが、俺と芳川会長の間にはなかった。全てを会長に委ねてしまっていたからだ。
けれどまだだ。まだ、もっと用意した餌まで近付いてくるのを待たなければならない。
「はい。会長の過去のことも全て調べていました」
「……」
「会長」と、呼びかけようとした時、深く芳川会長は息を吐く。
「単刀直入に聞こう。君は何が言いたい」
――来た。
緩みそうになる頬の筋肉に力を込める。
「まだ阿賀松先輩がいるということは、今度こそ会長に何をするかは分かりません。リコールだけで済めばいいと思いますが、俺には先輩がそれで満足できる人とも思えません」
「不思議だな」
ふいに、ぽつりと会長は呟く。
その口元が歪んでいるのを見て、背筋に悪寒が走った。
「まるで俺ばかりが危険に曝されるみたいな言い草ではないか。あいつを陥れることに手を貸してくれた君も他人ごとではない筈だが」
「……」
「君の言動は粗が目立つな。俺を騙すつもりならばまず自分がどのような立場にいるか、そしてその証拠とやらの信憑性を示すべきではないのか?」
疑われている。
会長の指摘は最もだ。けれど、忘れていたわけではない。
どれが一番会長を納得させる事が出来るのか、直前まで迷っていただけだ。……そしてそれは今でもわからない。
けれどこのまま黙っていると墓穴を掘ることにしかならないだろう。今まさに、こうしている間にも。
「……会長の言うとおり、俺も例外ではありません」
今こそ、あの切り札を使うべきだろう。
膝の上、震える拳をぎゅっと固める。
「俺はこの数週間、阿賀松先輩の系列の病院で休養させていただきました」
「……」
「傷口も、まだ治りきっていません。けれど、先輩に許してもらうことになりました」
「条件付きで」と、小さく付け加える。
いけるか、わからない。けれどやるしかない。
「会長の元に戻り監視して報告する。……それが阿賀松先輩からの条件です」
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