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「まさか、君が俺を脅すとは思わなかったな」
静かに笑う芳川会長。
その目に明らかな敵意が込められているのが肌で分かった。
「脅すつもりはないんです。ただ、お願いを……」
「建前はいい」
「言う事を聞けと言ったな。一緒に居ればいいのか?」無言で頷き返せば芳川会長は何かを言いたそうにし、目を伏せる。呆れた、とでも言うかのように。
「俺には、君が何を考えているのか理解出来ない」
「……俺は、会長と前みたいにまた一緒にいたいだけです」
「嘘だな」
会長に顎を掴まれる。強引に顔を上げさせられれば、こちらをじっと覗き込む真っ暗な目がそこにあった。少しでも気を抜くと吞まれてしまいそうな程の冷たい目が。
「君は、俺のことが嫌いだろう。目も合わせたくない、という顔をしている」
――嫌い。そう指摘されても、俺はそれに頷くことができなかった。
今となっては俺は会長に対してどんな感情を持ち合わせているのか自分でも判断つかない状況だ。
けれど、会長にそう指摘された時確かに俺は「違います」と言い返しそうになった。
「君にメリットはないように思えるが」
「……メリットならあります」
「なに?」
「俺はずっと……ちゃんと会長と話がしたいと思ってました。聞きたいことも、たくさんあります」
「なるほど、それに答えろというのも君の言うお願いか」
お願いという単語が冷たく聞こえたのは恐らく気のせいではないはずだ。
それでも、ここまで来て退くわけにはいかない。「はい」と頷き返せば、会長は少しだけ押し黙る。
そして、
「勝手にしろ」
そう吐き捨てる会長。一瞬その言葉の意味が分からなかったが、理解したと同時に交渉成立――その四文字が脳裏に大きく浮かび上がった。
「あ……ありがとうございます」
つい頭を下げれば、「君は自分が何を言っているのか理解してるのか?」と眉間に皺を寄せた。
――そうか、俺がありがとうというのはおかしいのか。
「理解し難いな」と吐き捨てる会長に恥ずかしくなったが、分かってる、これで全てが変わるわけではない。肝心なのは、これからだ。
「あの、会長」
なんだ、と答えるようにレンズの下、会長の目がこちらを向いた。
「少し、散歩しませんか」
「俺の部屋に俺と二人だけは嫌なのか」
「あの、いえ、そういうわけじゃ――」
「構わない」
流石に不自然だったか、と口をもごつかせた俺は今度こそ驚きのあまりに凍り付いてしまう。
「しかしもう遅い。そう遠くにはいけないぞ」
時計を確認する会長は続ける。
信じられない、というのが本音だ。
もしかして全部読まれてるのではないだろうか、その上で俺の様子を伺われているのか。――どちらにせよこの際構わない。
目的は会長と一緒にいるところを見せることなのだから。
「ありがとうございます」
口にしてからハッとしたが、今度は会長も何も言わなかった。
それから俺は会長と学生寮を後にする。既に辺りは暗く、校舎の方は人気はない。
志摩は栫井を引き留めてくれただろうか。万が一のことを考えて風紀室のルートを外しながらも俺たちは歩いていた。
八木と阿賀松が落ち合う時間までそうないはずだ。とにかく長く会長と一緒にいたかった。誰かの目に触れるように。
周囲を気にしているのは会長も同じだったが、恐らく俺とは逆の心境だろう。
重い沈黙の中、ひたすら歩く。目的地に辿り着くには少し時間が掛かってしまったが、会長は何も言わなかった。
――学園敷地内、中庭。
「……ここは」
扉を開けば、草花の香りととともに生暖かな風が俺達の間を吹き抜けていく。
その風に、芳川会長が僅かに目を細めた。
「すみません、わざわざ付いてきてもらって。……会長と一緒じゃないと、来にくくて」
人目のこともあったが、ここを選んだことには他にも理由があった。
以前、会長が夜の中庭が好きだと言っていた。その言葉を思い出し、話をするならここが良いだろうと思ったのだけれど。
「…………」
「……あの、会長……?」
「君は、俺と馴れ合いをしたいのか」
馴れ合い、というのは以前のように一緒に出掛けたり、話したりということなのだろうか。
それは無理だとわかっている。それでも。
「……俺は、会長と揉めたくないと思ってます」
「嘘だな」
「嘘じゃないです」
「君は俺のことを軽蔑してるはずだ。簡単に掌返すやつだとな」
「……それは」
事実、会長が俺に取った行動が全てだった。
中庭へ足を踏み込む芳川会長の背中がやけに遠く見えたのは目の錯覚だけのせいではないはずだ。
「それは……思いました。……ショックでした、けど会長だって事情が……」
「そんなものないと言ったらどうする」
「……え?」
「君に飽きた。ただそれだけと言ったら?」
どうして、そんな風に言うのだろうか。
わざと自分を悪く言う。それが事実だとしても――その天邪鬼な態度には覚えがあった。
「そんな、こと……」
揺さぶられるな。試されているのだ、これは。腹を探られているのだ。
呼吸を整え、会長に向き直る。
「……俺は会長が、そんなちょっとの感情で動かされるような人だとは思いません」
少なくとも、飽きる飽きないで動くような人ではない。会長の行動原理はもっと奥深く、俺の目にも見えない部分にある。
「思い込みだな」
「……っ、飽きるほど、俺に思い入れてくれてたんですか」
息を吐き出すように絞り出した声は自分のものとは思えないほど、冷たく響いた。
堪らえようとすればするほど奥歯に力が入り、視界がぐにゃりと歪む。泣いていると思われたくなくて慌てて目尻に滲むそれを拭うが、気づかれた。
「今度は泣き落としか」
「……っ」
「他の奴らなら少しは効いていたのだろうが、残念だったな。……俺には無意味だ」
「これは、そういうのではないです。……っ、ただ、目にゴミが入って……」
だから、会長に泣かされてるわけではないです。
そう言い返そうとしたとき、すぐ目の前に影が過る。いつの間にか俺の目の前までやってきていた会長がただじっとこちらを見ていた。
伸びてきた手に腕を掴まれ、顔を覗き込まれた。あまりにも自然な動作に、ほんの一瞬抵抗することを忘れていた。
「か、いちょ……」
「随分とでかいゴミでも入ったのか」
「……っ、そう、です……」
は、と会長は冷ややかに笑った。
そして、俺の目尻に溜まっていた涙を指で雑に払う。
「君の指摘した通りだ。俺は、どうも他人に関心が持てない」
「それは……」
「そのままの意味で受け取ってもらって結構。君のように無用な人間の好意ひとつで一喜一憂できるほど感受性豊かではないということだ」
それは俺が求めていた答えの一つだったのかもしれない。
――俺はもう無用だと言われてるのだ。今回も含めれば、二回目だ。
「なら、壱畝遥香は特別なんですか」
そう口にした瞬間風が止まった、そんな気がした。
目の前、佇む芳川会長の表情が僅かに変化する。それも少しの間のことだ。
「なるほど、もう聞いていたのか」と漏らす会長は驚いてるわけでもなく、ただ淡々と続ける。
「言っただろう、関心は持てない。けれど俺も物事を考える脳は持っている。最良の結果のためにはどう立ち回るべきかくらい考え、理解してるつもりだ」
「だから……そんなことのためにわざわざ栫井を退学にさせたんですか。あいつに媚を売るためだけに」
「…………」
「会長」と促せば、押し黙っていた会長はすうっと目を細める。
「目障りだからだ」
「――ッ」
「ずっと、鬱陶しくて仕方なかった。だからついでに席を空けてもらった、それだけだ」
「これで満足か」とでも言うかのようにこちらを見下ろす会長に、腹の奥底、忘れかけていたどろどろとした感情が込み上げてくる。
息が浅くなり、拳を握る手に力が籠もる。そこで自分が怒っていること気付いた。
会長と栫井の間になにがあるのかまだ俺だって書面の概要欄でしか理解していない。だとしても、この学園に来たばかりの俺でも分かることはあった。
「……栫井は……っ、ずっと、会長のことを考えてました……」
「だからどうした。それは俺の命令ではない。あいつが勝手にしたことだ」
「それともなんだ、君はあいつに優しくしてやれとでも言うのか?」馬鹿馬鹿しい、そう切り捨てる芳川会長の言葉はどこまでも冷たく、鋭い。
言い返す言葉すら見付からず、自分のことを言われた以上に胸が苦しくなる。
「……俺は……っ」
優しくしろとまで言うつもりはない。ただ、もう少しだけ栫井の気持ちを汲み取ってくれたら。
そう思うのに、口を挟むことすら出来ないほどの拒絶がそこにあった。俺と会長の間には明らかに分厚い壁があったのだ。
「何を吹き込まれたが知らないが、君はまだ理解していないようだな」
矢先、伸びてきた会長の手に顎を掴まれた。両頬を潰すように食い込む指先。すぐ目の前にある芳川会長の顔に、一瞬にして全身が緊張する。
「あいつが俺のために動いていただと? それこそ空事だ。……あいつは君を嵌めようとしたんだぞ、俺のためだとなんだと抜かして」
「それ、は……」
確かに栫井が潔白とは思わない。
けれど真っ黒ではないと知ってしまった今、栫井の行動の裏に会長がいると知ってしまった今、だからといって見捨てることは出来なかった。
「確かに……栫井は疑われるようなことをしたかもしれませんが、それは」
「俺のためだというのか?」
ぎちりと顎を掴んでくる指先に力が加わる。
皮膚にめり込む会長の指が尖った骨のように刺さり、思わず顔が歪む。
「君は随分と栫井を買い被っているようだな」
「っ、か、いちょ……っ」
「なるほど、あいつは哀れなやつで俺は悪者か」
「そ……そういう、意味じゃ……っ」
「そういう意味だろ!」
それは初めて聞いた会長の怒鳴り声だった。
夜の中庭に響くその声は先程までの余裕や落ち着きは感じられなかった。真正面、こちらを見下ろすその目に滲む怒り、不快感、そして拒絶に思わず立ち竦みそうになる。
「……君は、あいつのためには怒るのか」
「……っ」
「俺の前では一度も怒って見せなかったのにな」
息を吐くように会長は吐き捨てる。
呆れられたような、失望したような、イラつきが混じったその声に確かに俺は反論しそうになった。
会長だって。
会長だって。
「か……会長、だって……言ってくれなかったじゃないですか……っ」
気が付いたら口から言葉が溢れていた。
涙は出なかった。それ以上に悲しかった。寧ろ虚しかったというべきだろうか。
「全てを話していたら、君は俺の隣にいてくれたのか」
「……っ」
その会長の一言は俺へのとどめとなる。
会長からしてみたら、守ろうとしていた人間が逃げ出したようなものだ。
実際俺は会長を信じることが出来なかった。
会長もそんな俺を『用済み』だと見限った。――それがもう、俺達の答えだった。
分かっていたが、分かっていたけれど、今まで会長と一緒にいた時間がすべて上辺だけのもので無駄なことだった、そう言われているみたいで、ただ遣る瀬無かった。
「これ以上は話しても無駄だ。俺と君は相容れることはないだろう」
諦めたようなその声が余計辛かった。
離れる指先。会長と話して、会長を理解しようとして、そんなことしても余計自分が情けなくなるだけだと分かっていたというのに。
一瞬、会長のレンズの奥、悲しそうな色が覗いたことに気付いてしまった瞬間自分の中で堰き止めていた何かが溢れ出しそうになる。
「……戻るぞ、風が冷たくなってきている」
背を向け、校舎へと繋がる扉に向かって歩き出す会長。
「会長……っ」
気が付いたら、勝手に体が動いていた。
咄嗟に会長の腕を掴めば、ゆっくりとその目がこちらを向く。
「……なんだ」
「お……俺は……っ」
射抜かれるような視線には先程一瞬見せた寂しそうな色はなく、その表情には変わらない冷たい表情が張り付いていた。
少なくとも、やはり俺には会長のすべてが演技だとは思えなかった。優しいのも冷たいのも、俺にとって全部会長だった。
栫井の言葉が蘇る。けれどもう優しい会長に出会うことはないのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥に言葉にし難い熱が溢れ出した。
「俺は……会長のことを尊敬してました」
「……」
「……それは、本当です」
俺は会長を嵌めようとしてる。
志摩が聞いていたら甘いと怒られるだろう。それでももう、冷たい会長にも会えなくなると思ったら。
仲直りしたいとは思わないがそれでも伝えたかった。転校してきて間もない頃、会長の存在に助けられたのは事実だから。
だから。
「かいちょーー」
ありがとうございました、そう言いかけた矢先だった。視界が翳ったと思った次の瞬間、唇に柔らかい感触が触れた。
そして、それがなんなのか理解するのに時間は掛からなかった。
――キスをされた。
そう理解した瞬間、頭の中が真っ白になる。
「か、い……ちょう……」
どうして、なんで。
そんな疑問符で埋め尽くされる頭の中。固まる俺を見て、唇を離した会長は僅かに目を細める。
「……まるで、最期のお別れでもするかのようだな」
「……っ」
「何を企んでいる」
這わされる指先。顔は至近距離のまま、会長の冷たい言葉とともに唇にはかすかな吐息が吹き掛かる。
――疑われている。
「企んでなんか、ないです」
「じゃあ何故今それを言う」
それは純粋な疑問だった。怪訝そうな眼差しを受け止め、見詰め返す。
咄嗟に俺は「時間がないからです」と口を開いた。
「日付が変わったら、俺の言葉も聞いてくれないんですよね、会長は」
こうしている間にもタイムリミットは刻一刻と近付いている。そして、約束の時間が来てしまえば会長は俺の相手をしてくれなくなるだろう。
本当はただ聞き出せばいいと思っていた。そのつもりだっただけに自分でも自分の言動が不可解で、それでも言いたかったのだ。こうして対等に話せる今の内に。会長に。
「――君が、分からない」
そう、ぽつりと。
「優しくしても君は嫌がる……そのくせ、こんな状況で俺に『ありがとう』などという。……俺には君が何を望んでいるのか分からない」
「不快だ」と会長は短く吐き捨てた。
会長の言葉ももっともだった。疑われるのも無理がない。それでもこの言葉に打算的なものは含まれなかった。早い話、自己満だった。
それに気付いたのだろう、会長の表情は険しくなっていく。
「そこまで言うならどうして、俺の言うとおりにしなかったんだ」
「……それは……」
「どうして俺を信じてくれなかったんだ」
振り絞るようなその会長の声は怒りか、それとも他の何かからわずかに震えているように聞こえた。気の所為ではない、はずだ。
底冷えするような鋭い視線に射抜かれ、息が出来なかった。
それでも、会長の言葉は終わらない。堰き止めるものを失ったダムのように溢れ出す。
「君がどうなろうが関係ない。……君が俺の元から逃げ出して、何度俺は自分に言い聞かせてきたと思う」
「……」
「こんな屈辱を受けたのは初めてだ」
「……」
「俺は、君を許せない。……許せない。俺に楯突こうなどと考える君が」
「……」
「君を信じていた自分が馬鹿馬鹿しくて、無為な時間を過ごしてしまった己の愚鈍さに……吐きそうだ」
そう、ほんの一瞬。
浮かんだ笑みは自嘲するものだった。
「……君なら――俺を」
そう、会長が何かを言いかけたときだった。
中庭への扉が開く音がして、現実へと引き戻される。そして、一瞬にして地獄へと暗転した。
「こんな時間に逢引とは随分と乱れてるじゃねえかよ、会長様よぉ」
重なり合った草木の影。
冷たい風とともに吹き込んできたその声に、体の奥、防衛本能が一斉に騒ぎ出す。
まさか、ここで。このタイミングで。
全身から血の気が引く。恐る恐る振り返れば、そこにはあいつがいた。
「消灯時間、過ぎてんですけど?」
暗闇に紛れる黒い髪。その下に浮かぶのは軽薄な笑み。そして、唇にぶら下がるピアス。
阿賀松伊織は蒼白する俺を見下ろし、笑った。
深く、口角を持ち上げ……確かに楽しそうに笑っていた。
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