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「先輩……っ」 「先輩じゃねえだろ、ユウキ君」  青褪める俺に、阿賀松は口角を持ち上げる。向けられたその目は俺を捉えたまま細められた。 「いつもみたいに詩織って呼べよ」 「……ッ!」  まるで悪い冗談か何かのようだった。そんなことを口にする阿賀松に頭の中が真っ白になる。  間違いなく阿賀松なのに、ここにいるのは名義上阿佐美詩織になるのだ。  阿賀松として濡れ衣を被り自ら学園を立ち去った阿佐美のことを思い出し、胸が苦しくなる。  そんな俺とは対照的に、芳川会長の態度はあくまで冷静だった。 「……」 「都合が悪くなったらだんまりかぁ? 会長さんよ。……おい、言い訳ぐらいしたらどうだ?」 「規則を無視してるのはそちらも同じではないか?」  詰め寄る阿賀松を前に静かに吐き捨てる芳川会長。その言葉がどれを指しているのか俺には分からなかった。  それでも、阿賀松の目の色は確かに変わった。 「つまり、お互い様だと?」  細められた目から一瞬、光が失せる。それだけではない。 「一緒にすんじゃねえよ、虫唾が走る」  次の瞬間、阿賀松の手が芳川会長の胸倉に伸びる。このままではまずい、そう思った時には体が勝手に動いていた。 「……まっ、待って下さい……っ」  咄嗟に俺は会長を庇うように阿賀松の前に立っていた。  驚いたように息を飲む芳川会長。つい何も考えずに動いてしまった己に血の気が引く。 「……なぁにが待ってくださいだ?」  足の裏が地面に縫い付けられたかのようにその場から動くことができなかった。  目の前、阿賀松の目が芳川会長から俺へとゆっくりと向けられる。冷たいその目に、心の臓まで射抜かれたような恐怖を覚えた。 「お前もなぁ……」  低い声が鼓膜を揺らす。伸びてきた指先はそのまま顔面を鷲掴むように触れた。その感触にビクリと全身が震える。 「よく俺の前に面出せるなぁ?」  指の隙間から覗くその目は捕食者のそれだ。  情けないことに、蛇に睨まれるが如く俺は動けなかった。  作戦は成功だ。阿賀松本人に見せ付けることが出来たのだから。だから、あとは逃げればいい。逃げるんだ。逃げろ、逃げろ、逃げろ。  繰り返される脳からの指令。それなのに肝心の体は動かない。――動けないのだ。  自業自得だ、最悪の事態は想定していたはずだ。それでも実際その事態に陥ると、今まで積み上げた覚悟ごと打ち砕かされそうになる。 「おい、何か言えよ」  頬に食い込む指先。顔面の骨ごと握り潰されるような圧に血の気が失せていく。  会長を庇ったのは明らかに悪手だ。ここから逃れる方法は……ない。  終わった、と全てを諦めかけた矢先のことだった。視界を遮っていたものがなくなる。否、自分の体が引き離されたのだと気付くのには時間が掛からなかった。 「……彼は、俺が付き合わせただけだ」 「今関係ない」頭上から落ちてきたのは淡々とした声だった。  顔を上げれば、相変わらず無感情な芳川会長の横顔があった。  ――会長が助け舟を出してくれた。  それは理解出来た。けれど、どうして。どうして会長が庇ってくれているのか、その疑問と戸惑いで余計混線する思考回路。 「……関係ない?」  阿賀松から表情が消えるのを見て、『まずい』と直感する。  瞬間、こちらに向けられる鋭い阿賀松の視線に射抜かれ俯きかけたときだった。 「関係ないのか? お前は。なぁ、言ってみろ」 「お前は本当に関係ないのか?」芳川会長の肩越し、試すような言葉とともに阿賀松は真っ直ぐにこちらを睨むのだ。  俺が到底無関係とは言い難い立ち位置にいるのは事実だ。しかし、それを今このタイミングで口にする事はつまり。 「……ッ」 「ユウキ君、テメェの行動力には驚かされた。ああ、まさかあんな弱虫なユウキ君が――本気で俺をキレさせてくれるなんてなぁ?」  浮かぶ笑み。歪む唇から赤い舌が覗き、全身に悪寒が走る。 「お前……」 「テメエは喋るんじゃねえ。俺はユウキ君とお話してるんだよ」 「お話しだと?」 「……あぁ、そうだよ。例えば……そうだな、こいつが……いや、こいつらが企んでることとかな」  再び向けられる視線。しかし、それよりも俺はその口から出た言葉に引っかかった。  ――こいつら。  確かにそう阿賀松の唇が動いた。  志摩のことを指しているのか、それとも――。  栫井の横顔が脳裏を掠め、ぞくりと嫌なものが背中を走る。固まる俺を見下ろしたまま阿賀松は喉を鳴らして笑う。 「残念だっなぁ、ユウキ君。あと少しで目眩しくらいは出来たってのに」  頼る相手を間違えたな。そう続ける阿賀松に汗が滲む。  どういう意味だ。まさかとは思ったが、違う。そんなはずがない。  けれど、あの時のことを思い出さずにはいられなかった。阿賀松の部屋の中、捕まった志摩のことを。  ハッタリだ、俺の反応を見て確かめてるだけだ。  だって俺は志摩たちを危ない目に遭わせないために動いたんだ。だから、大丈夫だ。俺が信じないといけない。  そう思いたいのに、そう思い込むには現状目の前の不確定要素が多すぎた。 「どういう……」  意味だ、と。  俺たちのやり取りを黙って聞いていた会長も何かを察したようだ。  細められた会長の目がこちらを見る。俺はその鋭い視線から逃げることも隠れることもできなかった。 「君は、まさか――」  会長がそう、何かを言いかけた瞬間だった。  どこか遠くからガシャン、と何かが叩き割れるような音が聞こえた。そしてそれに続くように劈くような警報が辺りに響き渡った。 「何事だ!」  驚いたのは俺だけではなかった。突然の緊急警報に生徒会長の顔に戻る芳川会長、そして苛ついたように舌打ちをする阿賀松。  二人のどちらかの仕業だと思ったが、どうやら違うようだ。  ならば。そう、辺りに視線を向けた時だった。 「齋藤ッ!」  どこからともなく聞こえてきたその声にハッとする。あまりのタイミングに一瞬幻聴かと思った。が、違う。  一階校舎の窓、そこから身を乗り出すその姿を見つけた瞬間、「志摩」とその名前を叫びそうになった。  寸でのところでそれを堪えることが出来たのは、目の前の二人がいたからだろう。 「齋藤、早くこっちに!」  何をしてるんだ、そんなことしたら志摩が共犯者だとバレるじゃないか。  そう呆れる以上に、そんなことを無視して呼ぶ志摩が嬉しくて、考えるよりも先に俺はその場から駆け出していた。

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