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「齋藤君ッ!」  聞こえてくる会長の声にごめんなさいと返す余裕もなかった。  とにかく早く、志摩のところに。そうでもしなければまた自分を見失ってしまう。だから早く。  二人から逃げ出し、一目散に校舎へと――志摩の元へ向かおうとしたときだった。 「いや、普通に逃がすわけねえだろ」  あと少しで扉へと触れれそうなところで背後から伸びてきた手に肩を掴まれる。そのまま首に回る腕にぐっと抱き寄せられた。阿賀松だ。  このままではまずい、そう思い必死に藻掻いてその腕から抜け出そうとした時だった。 「――落ち着いて」  耳元、囁きかけられるその声に俺は目を見開いた。  落ち着いたその声は阿賀松のものではなく、 「っ、しおり……?」  そんなはずがない、俺を捉えているのは間違いなく阿賀松のはずだ。だけど、今の声は。  振り返った瞬間、至近距離で視線がぶつかり合った。 「お願い、俺に合わせて」  こちらをじっと見据えるその目はあまりにも真剣で、どこか切羽詰まっているようにも見えた。本当に阿佐美なのか、と聞き返しそうになった時だった。 「おい、その手を離せ」  背後から聞こえてきたのは会長の声だった。  俺を追いかけてきてくれたのか。それでも阿賀松――否、阿佐美はこちらを真っすぐに見据えたまま目を逸らそうとしなかった。 「ユウキ君」 「……俺、は……っ」  迷ってはダメだ、立ち止まってはダメだ。分かっているのに、何故阿佐美がここにいるのかと考えだしたら足が止まりそうになる。  ――いや、ちょっと待て。そもそもここにいるのは本当に阿佐美なのか。  その可能性に気付いた時だった、何者かがいきなり阿佐美に殴り掛かったのだ。芳川会長ではない、ならば――。 「志摩……っ!」  間一髪、志摩の拳を掌で受け止めた阿佐美は先ほどまでの阿賀松の顔に戻っていた。しかし、その目には確かに動揺の色が浮かんでいる。  その一瞬の隙を狙ったようだ。志摩は俺の腕を掴み、そのまま阿佐美から引き離す。 「……おい、お前はいつからそんな短絡的な馬鹿になったんだ?」 「軽率な行動を起こすやつがいるからね、形振り構ってられないんだよ」  そう言い切る志摩の声は笑っていた。が、俺の体を抱きとめるその手からは微かに震えが伝わってくる。  普段から本心を口にせず、不安や弱音を一切見せない志摩。そんな志摩が唯一俺の前で本心を吐露してくれた時のことが脳裏に蘇る。  ああ、そうだった、と。忘れかけていた何かを思い出し、俺はその手を握り返した。 「……ごめんね、志摩」  志摩は俺だけを信じてくれた。全部を捨ててまで、形振り構わず。なのに俺は。俺はまた、見失いそうになっていた。情に流されて、信じるべきものを見失いそうになっていた。  一瞬、驚いたようにこちらを見た志摩だったが、すぐにその口元にはいつもの笑みが浮かんでいた。 「……ま、自覚してくれただけ成長かな」  そう、志摩は俺の手を強く握り返してきた。  そんなやり取りを阿佐美は何も言わずに見てるだけだった。そこに笑みはない。 「次から次へと……どういう事だ、これは」 「さあ? 俺にもどういうことやら。もしかしたら、日頃の行いが悪かったのかもしれませんね」 「……貴様」  芳川会長に対しても相変わらずな志摩。けれど状況は悪い、それは俺にも分かる。  ここからどうするつもりなのかと志摩を見上げれば、目があって志摩は微笑む。そして、走るよ、とその唇が小さく動いた矢先。  どこからか何かが割れるような音が響く。ほんの一瞬二人の意識がそちらへと向いたとき、志摩は走り出したのだ。 「ちょ、わ……っ!」 「な――」  反応するよりも先に走り出す志摩に俺はただ引っ張られる。  俺達の他に誰かがいるのか、そちらも気になったが志摩は止まらない。 「おい、待て!」と会長の声が響く。その声につられ、振り返りそうになった俺の腕を志摩は強く引っ張った。 「齋藤、後ろ向いてる暇あるんなら自分で走りなよ」 「言いたいことはたくさんあるんだけど……取り敢えずさ、外まで全力疾走してもらうから」  外、ということは校舎を出るということか。  それともまたこの学園を立ち去るハメになるのか。分からないが、迷っている暇はない。 「その足で着いて来れそう? 俺がおぶった方が早いかな」  そう底意地の悪い笑みを浮かべる志摩。確かに志摩は運動神経いいし、足も早い。  対する俺は体調が万端というわけでも、志摩に追い付ける自信があるわけでもない。おまけに阿佐美の顔を見たせいで治まりかけていた下腹部が痛みだす始末だ。  けれど。 「……大丈夫」 「着いて行けるよ」何が何でも着いていく。  そう口にすれば、志摩は小さくこちらを振り返って「言ったね?」と笑う。 「男に二言はないんだよ」 「わかってる。……俺は志摩に着いていくよ、どこまでも着いていくから」  だから、とその先の言葉は言葉にならなかった。  ただ志摩の表情から笑みが消え、ふい、と志摩がそっぽ向く。 「齋藤も、なかなか恥ずかしいこと言うね」  それはお互い様のような気がするが、握り締めてくるその手が一層強くなったのを感じた。  警報が鳴り響く夜の校舎、教師たちが集まって来ているのを避けながら、俺達は一度学生寮に戻ることとなった。  ようやく歩くことに慣れていた体だが、やはり走るとなると話は別のようだ。早く、もっと早く。そう気ばかりが急いては本調子ではないからだが悲鳴を上げた。  せめて、遅れを取らないように。志摩の手を離れてしまわないようにと必死のその背中についていく。そんな俺を振り返っては、志摩は何も言わず手を強く握り、俺の体を引っ張り上げる。 「わ、しま……っ!」 「意地っ張り」  それ、志摩がいうのか。  思わず小さく笑ってしまい、緊張していた脇腹が悲鳴をあげる。それを抑えながらもさらに俺達は階段を駆け上がっていく。  ――校舎・三階。 「……ここまで来たら、大丈夫かな……」 「ぜえ……っ、ふ……も、大丈夫……?」 「うん、休んでいいよ。齋藤」  人気のない真っ暗な廊下の角。こちらを振り返った志摩の声が柔らかくて少しだけむず痒くなる。  けど、今はそんなことをしてる余裕はない。 「いや、大丈夫……ちょっと、結構走ったから体の方がビックリしただけで……」  いつ会長たちが来るかも分からない状況だ。警報はいつの間にか止まっていたし、先生たちも遅かれ集まってくるはずだろう。  そう頭では理解できているが、言いながらも膝に力が入らず震えてることに気づいてしまった。そして志摩も。 「本当に?」 「……ごめん、ありがとう」  虚勢張ったところで逆に足手まといになってしまっては元も子もない。俺は素直に志摩の言葉に甘えることにした。  志摩は近くの扉の施錠を確認する。が、どうやら閉まっていたらしい。舌打ちする志摩に、俺は「ここで大丈夫だよ」とだけ声をかければ、志摩はなんだか微妙な顔をしてこちらを振り返った。 「……」 「……志摩?」 「なんか、調子狂うなぁ……」  ぽつりと、溜息混じりに呟く志摩。  つられるように「え?」と聞き返してしまえば、志摩はバツが悪そうに頭を掻く。 「本当は言ってやりたいことたくさんあったのにさ……齋藤の顔見たら全部飛んじゃった」 「……ごめんね」 「謝らないでよ。本当にごめんねって思ってないでしょ。俺があの時止めてもこうするつもりだったんだよね」  やはり気付かれていたようだ。図星だし、なんだったら今でもその選択は間違っていたとは思わない。少なくとも、俺は会長と直接話すことが出来てよかったと思っている。  賭けだった。良いことばかりではなかったし、まだ胸の奥にはしこりは残っている。それでも、会長の本心が少し聞けただけでもよかった――そう思うのだ。  頷き返せば、志摩は呆れたような、諦めの色が混ざった目でこちらを見る。  勿論志摩が大人しく「はいそうですか」と納得してくれるわけがなかった。 「……本当、バカだよね」 「そう言うと思ったから相談出来なかったんだ」 「だから事後報告ってわけね」  自分勝手なことをしたと思う。  けれど、一つ一つ丁寧に説明してる時間も説得させる余裕もなかった。弁解するつもりも、ない。 「齋藤が自分で書類を持ち出すとか言い出した時、心臓停まるかと思ったよ。……正直、さっきだって芳川たちに囲まれてるの見て、俺は……」 「志摩……」 「謝らないでよ、反省していないやつの謝罪程腹立つものってないからさ」 「うん、ありがとう。……志摩」  そう志摩を見上げれば、こちらをじっと睨んでいたその視線が揺れる。この目程志摩の感情がよく表れやすい部位はないかもしれない。自分を偽ることを得意とする志摩の最も素直に語りかけてくる部位だ。  志摩はそのまま俺の肩口に顔を埋めてくる。抱き着くとは違う。 「志摩?」 「齋藤のバカ」 「……」 「なんで黙るの」  そう顔を上げる志摩の背中にそっと触れる。少しだけ目を丸くし、俺の顔を覗き込んだ志摩は「言い訳くらいしてくれればいいのに」と漏らす。そうしたら、と言いかけて志摩はそのまま押し黙る。  ほんの数秒、けれどずっと長い間こうしていたような気がする。 「志摩、そういえば栫井は……」  沈黙の中、ふと思い出し尋ねれば志摩は少しだけ不満そうな顔をすした。 「……ああ、忘れてた」 「えっ?」  もしかしてまだ栫井に会ってなかったのだろうか。八木のところに突撃してないかとひやりとしたが、そんな俺を見越したように志摩は笑った。  いつもの不遜な笑顔で。 「大丈夫、死んではないと思うから」 「な、どういう……」 「まあ見つかったら面倒だし、そろそろ拾いに行こうか」  ――拾う?  志摩の口から次々と出てくる不吉な言葉に不安になりながらも、俺は志摩に案内されるがまま栫井を『拾い』に向かうことになった。

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