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03

 久し振りに堂々と歩く校舎内は新鮮だった。  職員室前。扉を開けば教師たちの視線が一斉に突き刺さる。  数名の教師からは咄嗟に視線を逸らされ、数名の教師は驚いたように目を見開いては三者三様の反応を見せてくれた。  その内の一人、担任は俺の姿を見るなり駆け足でやってくる。  一種の気まずさと照れ臭さにどんな顔をしようか迷いつつ、俺は「お久しぶりです」と頭を下げれば、担任は安堵したように頬を綻ばせた。  担任がいつもと変わらない態度でいてくれたのが救いかもしれない。  担任に停学を解除するという旨を伝えれば、あっさりとそれは承諾された。 「けど……具合はもう大丈夫なのか?」 「はい、すみません長い間授業休んでしまって」 「体を壊したんなら仕方ないだろ、それよりもあまり無理するなよ。なにかあったらすぐに先生たちに言えよ?」  言えることなら言いたいが、恐らく、というよりも確実に先生を頼るには手遅れすぎるところまで来ているのだろう。  そしてこれからも担任には迷惑を掛けてしまうだろう。それが心残りだが、今の俺には「ありがとうございます」と頭を下げることしかできなかった。  満足そうに頷く担任。そして担任はふと思い出したように「ああ、そうだ」と手を叩く。 「お前が休んでいた間の授業のことだけどな、壱畝のやつがノートに纏めてくれているはずだから見せてもらえ」 「……壱畝君が、ですか?」 「聞いたぞ、中学の時から仲が良かったそうじゃないか。あいつもお前が停学届け出したと聞いて心配していたぞ」  有り得ない。有り得ないが、外面だけはいい壱畝のことだろう。これも担任からの好感度を上げようとする作戦なのかもしれない。いや、そうだ。それしか考えられない。 「後で元気な顔見せてやれ」 「……はい、失礼します」  俺は担任に頭を下げ、足早に職員室を後にした。  ――壱畝。  恐らく、教室にいけば嫌でも壱畝と会うことになるだろう。治まったはずの全身が痛み始める。  ――……壱畝。  キスをされた時の感触が今でも鮮明に蘇るようだった。  額に滲む汗を拭い、深呼吸。志摩に悟られないようにしなければならない。  今は余計な心配は掛けたくなかった。  職員室前廊下。  外で待っていた志摩は、俺の姿を見るなりすぐに駆けつけてくる元へやってくる。 「齋藤、どうだった?」 「阿賀松は先生たちには変なこと言ってなかったみたい。すんなり解除することできたよ」 「そう、なら良かった」  もしかしたらもう今まで通りには戻れないかもしれない――そんな覚悟もしていただけに、逆にちゃんと手続をしてくれていた阿賀松に驚いた……というよりも拍子抜けした。  俺があのまま病院に残っていたら普通に学園へ戻してくれるつもりだったのだろうか。  全て気まぐれで動いている阿賀松のことなど考えるだけ無駄だと分かっていても、やはり考えずにはいられなかった。 「……」 「齋藤?」 「いや、なんでもないよ。……ごめん、それじゃあ行こうか」  今更、道を間違えたのではないかなんて考えるだけ無駄だ。  俺は思考を振り払い、志摩とともに教室へとを向かうことにした。  こうやって始業前に教室にやってくるのはどれくらい振りだろうか。  人の目を避けるようにやってきた教室の前、俺は数回深呼吸をする。  ――よし。  覚悟を決め、開いた扉をくぐった瞬間クラスメートたちの視線が一斉に突き刺さった。  先程まで賑やかだった教室内はしんと静まり返る――が、それも一瞬のことだった。何でもなかったかのように教室内は再び賑わうのだ。  声を掛けてくる人間はいない。まるで腫れ物のように扱いだが、俺にとっては寧ろこれくらいで丁度よかった。  けれど唯一、あいつだけは違った。 「あれ、ゆう君?」  背後から聞こえてきた声に凍り付く。  振り返ればそこには最も会いたくない男……壱畝遥香がいた。なんというタイミングだろうか。  そしてそれも壱畝も同じだったらしい。俺と志摩の顔を交互に見て、何か理解したようにすぐ取り繕った笑顔を浮かべる。 「なんだ、もう元気になったんだ」 「……ハルちゃん」  この間栫井の部屋の前、芳川会長といたところに会っていたはずだ。あのあと会長から何を聞いたのか知らないが、向けられる視線は不快極まりないものだった。 「さっき先生に聞いたよ、ノートだろ? 悪いけどゆう君が復帰してるって思わなくてさ、部屋に置いたままなんだよな」  なにも変わらない。まるで何もなかったかのような笑顔と態度だ。しかし俺は知ってる。こういうときの壱畝は敢えて本心を隠そうとしているのだと。  歩み寄ってきた壱畝はまるで友人かなにかのように馴れ馴れしく俺の肩に手を回す。そして。 「放課後、取りに来いよ」  耳元へと寄せられた唇。  部屋まで、と小さく付け足される言葉にぎくりと凍り付いたときだった。 「あのさあ、お前――」  そう今にも壱畝に突っ掛かりそうな摩の腕を引き、止める。 「志摩」とアイコンタクトを送れば、志摩は不服そうにしながらも一歩後ずさる。  そうだ。今は一人ではない。……志摩もいる。 「……わかった、放課後だよね」  壱畝に向き直る。そしてその目を見つめ返したとき、ほんの一瞬壱畝の視線が揺らいだ。  よく見てみると最後にちゃんと顔を見た時よりも痩せたような気がする。目の下の隈も酷い。 「ありがと。……大変だったよね、こんなこと押し付けられて」  そう返せば、壱畝がこちらを睨み付けてくる。 「なんだよ、それ」と壱畝が忌々しそうに口にしたときだった。  教室に取り付けられたスピーカーから流れるチャイムとともに、担任がやってくる。 「おーい、席につけー!」  その言葉に各々の席へと戻るクラスメートたち。それは壱畝も一緒だった。  やはり、あいつも人前ではどうこうするつもりはないようだ。  ほっとしたが、問題はここからだ。俺達も席につく。荷物を片付けながら、相変わらず空いたままになった阿佐美の席を眺めた。  阿賀松が堂々座ってるかもしれない、と思ったがそんなことはなかった。  が、安心はできない。放課後のことを考えたら憂鬱ではあったが、取り敢えず今は目の前のホームルームに集中することにした。  それから間もなくしてホームルームが終わる。  一限目から移動教室ということで教科書の準備をしていたのだけれど。 「齋藤、準備できた?」 「あ、ちょっと待って……わ……っ!」  また虫や生ゴミが入っていたら、と慎重になってしまったせいで余計手元が狂い、教科書やノートを引っくり返してしまう。  バサバサと落ちるそれに、「齋藤何してるの」と一足先に廊下で待っていた志摩が顔を出す。  慌てて床に散らばる教科書を拾おうとした時、不意に伸びてきた手がそれを横から拾った。 「ご、ごめ……」 「別にいいよ、これくらい」  その教科書を受け取ったとき、頭上から聞こえてきたその声に全身が強張った。  俺の横、座り込んだ壱畝遥香は教科書やプリントをまとめて拾い上げ「はい、これも」と差し出してくる。  どういうつもりだ、こいつ。  固まったまま、渡されるまま無言で受け取れば「礼くらい言えよ」と壱畝は俺にだけ聞こえる声量で呟いた。  そして、そのまま立ち上がり、今度は志摩の方へと向き直る。 「それよりも志摩君、早く行った方がいいんじゃないか? ただでさえ無断欠席してるんだし、これ以上サボったら何言われるか分かんないぞ」 「別に構わないよ。今更真面目にしたって評価が上がるわけでもないしね」 「随分といい加減だな。成績が奮わないなら他でカバーすべきだと思うけど……まあ、君のレベルなら諦めた方が賢明かもね」  志摩を怒らせるつもりだったのか。殴りかかりやしないかとハラハラしていたが、あくまでも志摩の反応は冷静だった。  壱畝の横を素通りし、俺の元までやってきた志摩は「齋藤、準備は出来た?」とこちらを覗き込んでくる。 「あ、うん……」 「じゃあ行こ」  そう伸びてきた志摩の手に手を取られた。  人目を気にせず、まるで壱畝なんてそこに存在していないかのように志摩は俺を引っ張り、教室を後にする。  壱畝の反応があまりにも恐ろしかったが振り返ることもできなくて、ただ背中に突き刺さるような強烈な視線だけはしっかりと感じた。

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