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別室に移る。そこは、先程の教室とは違い片付いていて、資料室だろうか。ぎっしりと壁を埋め尽くした本棚には古ぼけた紙を糸で縛っただけの書物や魔術書のような分厚い革装丁本などがずらりと並んでる。部屋の中央には机と椅子がいくつか乱雑に置かれていた。 黒羽は俺を椅子に座らせる。 「一先ず、傷の手当をします。……これ以上出血しては大変です。少し痛むかもしれませんが、我慢してください」 見たことのない小瓶を取り出した黒羽は「止血剤です」とだけ口にし、それを滲ませた手ぬぐいで首筋の傷口を優しく抑える。 「……痛みますか」 「……痛くはない、です。……けど、なんか、ふわふわしてるっていうか……」 「申し訳ございません……私が、結界を破るのに手間取ったせいで」 「……黒羽さんのせいじゃないです、俺の、自業自得なんで」 慌てて否定するが、余計黒羽は気負いしてるように思えた。俺の全身の傷口を見て、まるで自分が大怪我したみたいな顔をするのだ。 「……ここにも、傷が……」 「……痛ッ……」 「申し訳ございません、すこし、我慢してください」 黒羽は切れた唇の縁の血を拭う。止血剤がついた箇所は酷く冷たく感じたがそれもすぐに止む。 本当は舌も噛まれたのだが、流石にそこまで言ったら今度こそ黒羽が怒り狂いそうだったので黙っておくことにした。 「……っ、黒羽さん、ごめんなさい」 「……リューグ・マーソンは、見つけ次第地下に幽閉します。恐らくまた近付いてくるでしょう。何かあればすぐに自分に……いえ、私が傍にいます」 安心してください、とは黒羽は口にしない。 黒羽だけが警戒してもいけない。俺が気を付けないと。  「……うん、分かった」 「……伊波様、傷は此処だけですか?」 「えっと……うん、多分……そう……噛まれたのは」 あの時はワケが分からなくて何をされたのかすら覚えていないが、大体見て分かるところの流血してた箇所は全て黒羽が止血してくれた。 それにしても、怖かった。自分の体が自分のものでなくなるような感覚。大分熱は収まってきたが、それでも、あの時懐中時計がなかったらと思うとぞっとする。 俺はあのままリューグが満足するまで血を吸われていたというこか。 「……吸血鬼は、特に気をつけてください。奴らは餌となる人間の心を掌握することに長けている。日常的に相手を騙すような連中です」 「……はい」 本当にそうなのだろうかと思ったが、まさにリューグがそれだ。当たり前のように嘘をつき、俺を誘い込んだ。騙される俺も大概だが、そう思ってしまっても仕方ない。 「あの、黒羽さんに貰った時計のお陰で助かったんだ。……ありがとう」 「役に立てたのならよかったです」 「……これをリューグに取られそうになったとき、リューグの手が燃えたんだけど……何か関係あるのか?」 「あの時計は、時計自身が認めた者以外が触れるとその者に危害を加えます。炎もあれば、針ボテへと変化し、手を貫くこともあると聞きました」 ということは、俺も認められなかったらそうなっていたということか? そう思うと途端に恐ろしくなるが、今認めてもらえてると思うと嬉しくもなる。それに、そのお陰で助かったのだから。 「この時計って、時間を止められるんだな」 「はい、この魔界でも貴重な魔具です。強い意思に反応して時計の針を止めます。それを伝えるのに一番確実なのは誰かに助けを求めることです。……なので、私の名前を念じるようにと伝えていたのですが……説明不足でしたね」 申し訳ございません、と黒羽は項垂れる。貴重な時計に貴重な手袋。つくづく優遇されてることに有難くもなるが、それ同様にそれほどのモノを与えなければならない状況下に陥る危険性があるということだ。 「念のため、傷口から菌が入らないように包帯を巻かせていただきます。服を脱いで貰っていいですか」 「っ、え」 「……どうしました?」 「い、いや、なんでもない……」 手当をすると言っていたのだから可笑しくはないはずだ。 けれど、さっきの今。散々リューグに触られた体を黒羽の前に晒すのには躊躇われた。 けれど、変に意識してしまっては黒羽に対して失礼だし……。ええい、ヤケクソだ。俺は、「分かった」とだけ答え、制服に手を掛ける。残りのボタンを外し、するりとシャツごと上着を脱いだ。 「……あ、あの……背中、向けた方がいいかな」 顔が、酷く熱い。顔だけではない。全身がまだ熱を持っていて、黒羽に見られてると思うとじわりと汗が滲んだ。 「……いえ、そのままで結構です」 それでは失礼します、と黒羽は俺の首に締め付けない程度の包帯を巻く。ゴツゴツとした指の感触に、体が震える。それを悟られないよう、俺は必死に息を殺した。 丁寧に首の包帯を巻くその指から目が離せなかった。 固くなった指先の皮膚。その太く長い男の指で触れられればどんな感触がするのだろうか。そこまで考えて、ハッとする。俺は、何を馬鹿なことを考えてるのだ。 リューグのやつが何か妙な術を掛けたのか。自分で自分の考えが理解できず、慌てて顔を逸した。 本気で心配してくれてる相手に俺は、何を。 「伊波様?」 「っ、え、あ、何?」 「いえ……手当が終わったので、もう制服着てもいいですよと言っていたのですが……聴こえてなかったみたいだったので」 「あ、ありがとう……ございました」 「…………」 恥ずかしい。俺は、黒羽の視線から逃げるように制服を着た。さっきからなんか変だ。やっぱり、リューグのやつが言ってたあれだろうか、リューグの体液を口にすると気がおかしくなるとかいう。 とにかく、どうにかしないと授業どころではなくなる。 かといって、どうすればいいのか分からない。 「伊波様、先程から様子がおかしいですが、いかがなされましたか」 単刀直入。悩んでる俺に、黒羽の方から声を掛けてくれる。 というか、そんなにわかり易かったか、俺。 「……黒羽さん」 「あの男に他に何かされたのですか」 恥ずかしい。情けない。けれど、黙っていたところで一人では何もできない。俺は、恥を忍んで黒羽に事情を説明することにした。 リューグとキスをしたこと。そして、リューグの体液には人を変な気分にさせる作用があるということ。……その作用か知らないが、体が落ち着かないこと。 黒羽は終始真剣な顔をして聞いてくれた。そして、俺が話し終えた後。「事情は分かりました」と黒羽は口を開く。 「吸血鬼の血には興奮剤が含まれてます。……そして、それに充てられた人間は性獣たちの恰好の餌になってしまう。その状態で人前に出ることは極めて危険です」 「でも、どうしたら……」 「………………」 「……黒羽さん?」 「……ひとつだけ、確実な方法はあります」 言うなり、黒羽は俺から顔を逸す。確実な方法と聞いて、大人しくしていられなかった。 「何だ?」と黒羽を覗き込んだとき、耳まで真っ赤になった黒羽とまともに視線がぶつかった。 「え」と、見たことのない黒羽の表情につられて硬直する俺。黒羽は、すごい悩んでいた。言いにくいことなのか、やがて、重々しく口を開く。 「……伊波様が満足するまで、俺が相手をします」 それを、俺よりもでかくて体格のいい男に真っ赤な顔で言われてみろ。正常ではない状況下、俺は、心拍数が跳ね上がるのを感じた。 黒羽が相手って、つまり、そういう?……そういう、あれを、黒羽と、俺が平気になるまでするってこと……なのか? 混乱した頭がどんどん冷静になっていき、それとともに全身の血液が一気に熱くなる。 想像してしまい、嫌悪感や恐怖を覚えるよりも先にずぐりと腰が疼く。 これも、それも、リューグのせいだ。俺と黒羽が変な空気のまま動けなくなるのも、そして、黒羽に抱かれてる自分を想像してしまって萎えないのも、全部リューグのせいだ。

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