25 / 126

23

教室全体が夜空に包まれるという摩訶不思議天文学の授業も鐘の音を合図に終わる。 正直、浮遊感どころで授業内容などまるで頭に入っていなかったが、楽しかったというのが感想だ。 それでは次の授業は、と立ち上がりながら生徒手帳を確認しようとしたときだった。 傍の机にぶつかって、その上に置かれていた本を落としてしまう。床の上に広がるその本は見たことのない文字で書かれた本だった。「すみません」と、慌てて拾おうとしたとき、横から伸びてきた白い手に奪われる。 白く見えた手は包帯に包まれているだけだった。 顔を上げれば、手同様包帯に覆われたその青年の顔、露出してる部分と言えば白目部分が赤黒く濁った左目と、灰色の頭だけで。 その左目がぎょろりとこちらを向くもんだから俺は動揺で言葉を失う。 「……」 怒られるだろうか、と身構えていたが、包帯男は何も言わずにその本を荷物にしまい、そのままその場を立ち去った。彼が通り過ぎた後には薬品が混ざったような匂いが残っていた。 「伊波様、お怪我は……」 ぼんやり後ろ姿を眺めていると、気付いた黒羽がやってくる。 「大丈夫、あの、それより今の人……」 「後を追いますか」 「え、いや、そこまでしなくていいから!……ちょっと気になっただけだから、気にしないで」 「わかりました」と、黒羽は短く答えた。 さっき落とした本、なんと書かれてたのかまでは分からなかったが、挿絵からして星の図鑑ということは分かった。 そういえば、一限目でも確か、白い人がいるような気はしたが。天文学が好きなのだろうか。 ……もっとちゃんと謝っておくべきだったか。 俺は、改めて手帳に目を向ける。 インクが勝手に滲む時間割のページ、次の授業欄は空白のままだった。 「黒羽さん、今日の授業ってこれで終わりだよな、表にも何も書かれてないし」 手帳を広げ、黒羽に見せる。黒羽は重々しく頷いた。 「ああ、今の授業で最後のようだ。……零時になる前に寮へ戻ろう」 一日というのは早い。言われて、時計を確認してみるがまだ人間界ならば夕方と呼ばれる時間帯だ。 俺は意を決し、黒羽を呼び止める。 「……あの、黒羽さん、俺少し行きたいところあるんだけど……」 俺のお願いを、黒羽が断ることはなかった。 そしてやってきたのはビザール通り。 放課後ということもあってか、ビザール通りは既にたくさんの者たちで賑わっていた。 朝とはまた違う、楽しげな笑い声、様々な言葉が飛び交うそこは少しでも黒羽から離れたらそのままどこかへ流されそうなほどの人混みならぬモンスター込みで。 流石にこの群れに混ざる勇気はなかった。本通りから少し離れた路地裏、そちらを通り、俺たちは目的地に向かって歩いていた。 「黄桜の言っていた吸血鬼避けか」 「うん……やっぱり、今日みたいなことがまたあったら怖いし、念には念をって思って……」 「……自分が不甲斐無いばかりに、伊波様にそんな心配をさせてしまうとは」 「そ、そうじゃないって……」 相変わらず、黒羽はこんな調子だった。 それに、吸血鬼除けはついでみたいなところもある。 予め、業案の場所は巳亦に聞いていた。それをメモした紙を手に、石畳の道を歩いていく。 裏道には柄の悪い妖怪たちがいたが、それも黒羽が横に居るのを見ると直接関わってこようとはしなかった。 ……心強いと思うのは、俺だけなのだろうか。辺りを警戒してる黒羽をちらりと見上げれば、ふいに黒羽と目があった。 「……伊波様」 「は、はい!」 「今の通路、右では?」 「……あ」 と、まあ、そんな感じで通りを彷徨うこと数十分。ようやく、それらしき建物が見えてきた。一言で例えるなら、オンボロの日本家屋だ。玄関口であろう扉の横には出入りの妨げにならない程度に骨董品やら箱やらなんやらが乱雑に積み上げられている。おそらく、『業庵』と木彫りされた看板がなければ見落としていた。 「……ここが、業庵……」 和洋折衷様々な造りの店が並ぶ中、業庵はどこか浮いていた。その理由はすぐに分かった。 どのお店も、形は様々だが共通して美味しそうな料理だったりはたまた珍味だったりといった食事処だった。けれど、この目の前のオンボロの店はメニューもなければサンプルもなく、料理が出て来る気配すらしない。それどころか、その店だけ周りに人がいないのだ。 原因は、近付いていなくても鼻につく独特の匂いのせいか。 俺は鼻呼吸を止め、扉を開く。ビンゴ。扉を開けた瞬間、外まで漂っていたその異臭は強くなった。 例えるなら、様々な漢方を混ぜたような、そんな匂いだ。 「っ……う゛……」 「……これは、すごい匂いですね」 俺と黒羽は鼻を抑えながら、俺は店内へと目を向ける。中はあまり広くないだろう。それどころか、外に溢れていた骨董品やらが中でも山のように積み上がっているのだ。 おそらくカウンターらしき場所は見つけたが、ガラクタばかりが積まれてるばかりで人の姿はない。 誰もいないのだろうか。 「……すみませーん」 恐る恐る、カウンターに近づく。それにしても、ここ何屋だ。壁には干からびた爬虫類が吊るされ、また一部では教科書で見たことがあるような古い水墨画も飾られている。天井には隙間なく御札が貼られてるし、なんか天井部分がミシミシと音立ててるし……。 と、辺りを見渡していたときだ。 傍にあったガラクタの山がガラガラと音を立て崩れた。 「……らっしゃい」 「うわっ!!」 いきなり現れた小さな老婆に、一瞬、口から心臓が飛び出しそうになる。 俺の膝ほどしかないのではないだろうか、分厚い座布団の上に座っていた老婆は、痩せ、その顔は骸骨のようにも見えた。 老婆は、俺の姿を見るなり「ん?」と細い目を更に細める。 「……おや、珍しいね、あんたみたいな人間の小僧が来るなんて」 「何の用だい、ここで取り扱ってるのは人間様には無縁のものばかりだよ」そう、裾口から煙管を取り出し、咥える老婆。嗄れたその声には棘があった。 けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。 「あの、ここに吸血鬼……が苦手なものがあるって聞いたんですけど……」 「……ああ、あれか。あるにはあるが……どうするつもりだい?」 「えっ、ええと……」 「あるなら出せ。言い値でそれを頂こう」 口籠る俺の代わりに前に出たのは、黒羽だ。 高圧的な物言いだが、老婆は機嫌を悪くするわけでもなく、自分の何倍もある黒羽を見上げ、そして口から真っ白な煙を吐き出した。 「……金なんかいらないよ、あんなもの店に置いてるだけで寝床まで臭くて仕方ないんだ。持ってってくれるならくれてやる」 「……えっ、いいんですか?」 「いいって言ってるんだ、ちょっと待ってな」 よいしょ、と立ち上がる老婆はそのまま、ガラクタを足蹴にしながら奥へと進んでいく。 そして暫くして、黒く塗られた箱を手に戻ってきた。 「ほら、これだろう」 「……ありがとうございます」 臭くて仕方ないと言うものだからどんなものがくるかと思えば、それほど臭わない、というか匂いが分からなかった。「開けていいですか」と尋ねれば、老婆は返事の代わりに煙を吐き出した。 そっと開ければ、中にはお守りが入っていた。 どこからどうみても普通のお守りに見えるが、黒羽の表情を見るにそれなりに効果はあるようだ。 「……これで満足かい?」 「……あの、本当にただでもらってよかったんですか?」 「くどい。……アタシの善意が信用できないってか?」 「い、いえいえいえ!」 「……フン!まあいい、それと言っちゃなんだ、……うちでは色々魔道具から薬品、調味料まで役立つものを取り扱ってる。……また何か欲しいものがあったらうちに来な」 「あんたが来てくれると、広告にもなる」そう、老婆はしわしわの顔を歪め、ニッと笑う。 なるほどな、と思ったが、怪訝にされるよりかは歓迎された方が嬉しい。俺は、「わかりました」と頭を下げ、木箱を手にそのまま店を立ち去ろうとした。 そのときだ。 「そこの黒いの」 老婆は、呼び止める。 それは俺ではなく、黒羽に向けられたものだということはすぐに分かった。 「……俺か?」 「ああ、おめえだよ、その目の傷、治す気はないのかね。……視力は戻らんだろうが、傷跡を消す薬ならいいものがある。もちろんそれなりのモノは貰うがな」 そう言って、老婆は厭らしく笑った。 黒羽の顔の傷。確かに、目立つなとは思っていたが、あまり触れてはいけないのだろうと思い、触れないようにしていた。 だからこそ、俺は足を止め、二人のやり取りを聞いていた。 「無用だ。……この傷を消したいと思ったこともない」 黒羽の態度は、昂然としたものだった。 まるで証だ、とでも言うかのように、黒羽は笑う。 それは老婆とはまた違った感情を孕んだ笑みだった。 「ふん、変わりもんだね。まあいい、気が向いたらまた来な。そこらのやぶ医者よりもいい薬をやる」 老婆はつまらなさそうに手を振る。俺は、木箱ごと制服の内ポケットに仕舞い、黒羽とともに業庵を後にした。

ともだちにシェアしよう!