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巳亦を先に歩かせ、その後を獄長がゆっくりとついていく。 そして、誘導されるがまま連れて行かれた先にあったのはどこかで見たことのある重厚な造りの鉄製の扉だ。 「扉を開け。妙な真似はするなよ」 静かに獄長は命じる。その声は自分のものなのに、まるで自分の声とは違う鋭利な冷たさを孕んでいた。 鍵もついていないその扉を巳亦が開いた瞬間、中からは錆びた鉄のような匂いがぶわりと鼻腔へと染み渡る。催す吐き気。けれど獄長はそれを意図ともせず、「中へ入れ」と巳亦を先に歩かせた。 「ここは……」 扉の向こうにあったのは、薄暗い部屋だった。 石畳の床にできた赤黒い染み。それがこの部屋の異臭の原因に違いないだろう。 たくさんの西洋人形が落ちているその部屋には窓はない。明かりもない。蝋燭を立てるタイプの照明ものが壁に取り付けられるだけだ。 目を拵えると中央に何かがあることがわかる。 それは椅子のように見えた。一脚の椅子が、そこにぽつんと置かれていた。 なんの変哲もなく見えるがなぜだろうか、酷く嫌な気配を感じるのだ。 俺の中に入った獄長が、一歩、また一歩とその異様な部屋の中へと足を踏み入れる。 その瞬間。 膝から力が抜ける。……膝だけではない、全身を支えていたものがごっそりと抜け落ちたみたいに体が脱力し、いきなりのことに対応しきれず俺はそのまま床の上に倒れそうになり、背後から伸びてきた何かに体を支えられる。 「曜!」 まだぼんやりと夢見てるような居心地の中、こちらを振り返った巳亦が目を見開いた。 それとほぼ同時だった。 「動くな」 すぐ背後から聞こえてきたのは、嫌ってほど聞き覚えのあるその低音の声。 腰に回された手は、俺の幻覚ではない。巳亦も信じられないものを見るかのようにこちらを見て、そして目を細める。 「……スペアか、随分と用意周到だな」 「職業柄体一つでは保たんのでな」 人形に変えられたはずのユアン獄長がそこにいた。 媒体があればそれを自我のように扱うことができる人形使い。改めてその事実を知れば、俺達が相手をしてるこの男が途方もない存在のように思えてゾッとした。 変わらない、それどころか傷一つもついていない無傷の相手を見てめまいを覚える。 「そこの椅子に座れ」 俺を捕まえたまま、獄長は巳亦に命じた。 あの椅子に座れば最後、本当に、本当に手遅れになってしまう気がして怖かった。 「み、また」 やめろ、と身を乗り出そうとすれば、首筋にひやりとした感触が押し当てられる。それを見た瞬間、巳亦は「やめろ」と聞いたことのないような大きな声で叫んだ。 「……っ、座る!座ればいいんだろ……!」 「巳亦……っ!」 「曜……俺は大丈夫だから」 俺の心情を察したのだろう。 そう、安心させるように笑うが、俺は正直気が気ではなかった。 言われた通り、巳亦が椅子に腰をおろした瞬間。 どこからともなく大量の鎖が生え、巳亦の首を、足を、両腕を、胴体を椅子へと縛り付ける。 「っ……」 肘置きに固定された腕を見た巳亦は、忌々しそうに顔を顰めた。身じろぎをするが、緩む気配はない。それどころか、鎖同士がぶつかる音ともに一層拘束が強まるのがわかった。 「どうした、随分と驚いた顔をしているな。……この魔力制御椅子の効果に驚いたか?そうだろうな。大抵の魔族ならこの椅子に座ったら最後……――どんな化物も無能同然だ」 なんでそんなものがここに、と思ったが、この施設がなんなのかを思い出す。魔界の危険因子を集めた政府公認の収容施設、その地下監獄だ。 巳亦の様子からして、獄長の言葉がただの仰々しいものではないとわかる。 「……っ、巳亦……っ」 「動くな」 このままでは、と駆け寄ろうとしたときだった。 それよりも早く銃を手にした獄長が巳亦の胸に向かって発砲する。瞬間、巳亦の体が跳ね上がり、鉛玉を食らったそこからは血が吹き出した。 「ぐ……ッ!」 「巳亦ッ!」 「俺の指示もなしに動くなと言ってるだろう、貴様の頭では理解できないか?貴様が俺に逆らう都度この男の体に穴が開くと思え。……それとも、なんだ。貴様は風通しがいい方が好みか?」 「…………っ!」 足が、動かない。動けるわけがなかった。 俺の行動一つで巳亦が傷付く。 巳亦の胸から溢れ出す赤い血がシャツを汚す。濃厚な血の匂いが更に濃さを増した。 逃げも隠れもできない巳亦は、強張った顔に無理やり笑顔を浮かべるのだ。 「……大丈夫だ、曜……俺は死なない」 「くく……そうだな、不死者は肉体的に完全に死ぬことはない。けれど、心はどうだ?」 「な……」 「任しておけ。不死者の処刑は何度かしたことがある。皆、夢を見るただの肉塊になった。ある者は悪夢に耐えられずに自ら生きることを放棄し、ある者は自我を失った。……貴様はどこまで耐えられるのだろうな」 「そりゃ楽しみだな……生憎、こちらと悪夢は見慣れてるんでね」 胸を撃ち抜かれてもなお、笑い、言い返す巳亦。 不死身とは言ったが、痛覚がないわけではないだろう。人間の体とは違う、わかってても正気でいられなかった。 「巳亦……み、また……血が……っ」 「大丈夫だ、曜、大丈夫だからそんな顔するな……俺は平気だから……こんなの……」 安心させるように巳亦は笑う。けれど、あふれる血は止まらない。巳亦は傷付いている。その事実に、酷く自分が情けなくなった。 俺がもっと強ければ、ここにいるのが俺じゃなくて黒羽さんやテミッドだったら、助けられたかもしれない。 けれど今は俺が下手な真似をするだけで巳亦が傷付く。 そんな条件を出されてしまえば、なにもできない。それと同時に、何もできない自分がなによりも嫌で、悔しくて、泣きそうになる。 そんな俺の肩を、獄長に掴まれた。革手袋越しの感触にぎょっとしたとき、変わらない冷たい表情でやつは言い放つのだ。 「そうか。ならば人間、貴様の手で傷をつけてやれ」 一瞬、この男が何を言ってるのかわからなかった。 「……な、に言って……」 「聞こえなかったか。やれと言ってるんだ」 掴まれた手に、短刀を握らされる。 硬い感触が嫌で、慌てて手を離そうとするのを無理矢理手のひらごと掴んで握り込ませられる。 「……っ、い、いやだ……そんなこと、できるわけ……っ」 「曜」 「……み、また……」 「……俺のことはいいから、やってくれ」 ……おかしいだろ、いくら不死身だからって痛覚はあるんだ。 そんなことすれば、巳亦が辛い思いするのはわかってる。 助けたい相手を自分の手で傷付ける、そんなことできるわけがない。 喉が酷く乾くようだった。 そんなことしたくないのに、巳亦はやれというのだ。そうしないと、俺達の身が危ない。否、きっと巳亦のことだ、自分のことは二の次で俺のことしか考えてない。俺が、この男の手から逃れる方法を。 だから、そんな残酷なことが言えるのだ。 「肺を潰すか、それとも筋肉の筋を切断するか。ここは内臓を引き摺り出して血抜きするのも悪くないな。悲鳴は聞けるように喉は最後まで残しておけ」 「っ、嫌だ……っ、そんな真似……」 「……っ、曜……」 「拒むつもりか」 「で、きるわけないだろ……っ!いくら巳亦が不死身だからって……こんな……酷い真似……!!」 「なら俺がしてやろう」 え、と俺が声をあげるのとそれはほぼ同時だった。 俺の手から短刀を取り上げられたかと思った瞬間、獄長は躊躇なくその短刀を巳亦の腹部に突き立てるのだ。 「ぅ゛、ぐッ!」 それを横一文字に裂いた瞬間、巳亦の体が大きく跳ねる。口から赤い液体がどろりと溢れ出し、拭うものもないその血が巳亦の口元を、首筋を、上半身を真っ赤に濡らすのだ。 一瞬何が起きたのかわからなかった。けれど、深く根本まで突き刺さった短刀を見た瞬間、口から悲鳴のような声が漏れた。 「巳亦ッ!!」 「だ、い……じょ……ぶだ……曜……」 咳をする巳亦。その度に血が溢れる。青い顔。けれど、その目は輝きを失っていない。俺を確かに捉え、そしてやっぱりあの優しい顔で笑うのだ。 「巳亦ッ、巳亦……ッ」 「貴様がしなくてもこいつを痛めつけることは容易い。不死者となればあらゆる手段を使うこともできて興も尽きない。……ああそうだ、貴様がしなくてもだ」 耳元、囁くように吐き捨てられるその言葉は呪縛のように脳髄へと染み渡り、俺をどん底へと突き落とす。 俺が巳亦を傷付けることを拒んだところで、何も変わらない。獄長の言うとおり、これは獄長が楽しむためだけの余興だ。そこに俺の意思なんて関係ないのだ。 目の前が真っ暗になる。呆然としたところに、いきなりの前髪を掴まれた。 「っぐ、ぅ」 「しかし、俺の命令に従わなかった処罰は受けてもらうぞ……曜」 濡れたような黒髪の下覗くこちらを見つめる赤い目が、細くなる。薄く、色の失せたその唇は歪に笑ってみせた。 温かみを感じさせない無機質な笑顔。 ……けれど、その目の奥渦巻くそれは人間なんかよりも遥かに残忍で、その目に見つめられた俺は命の危機を肌で感じた。

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