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何してるんだ、こんなところで。 いやこんなところだからか、そうなのか。 キスするフリ、ならまだわかる。それでも恥ずかしいけど耐えられる。けれど、これはどうだ。 「……っ、は、……んむ……ッ」 唇を舐められ、柔らかく啄まれたと思えば開いた口の中へは先割れた舌が否応なしに入ってくる。長い舌は俺の意思なんて構わずに喉奥で緊張と困惑で縮みこんでいた俺の舌を絡め取り、そのまま挟むように舌全体を舐られればそれだけで身動きが取ることができなくなり、堪らず目の前の巳亦にしがみつく。ぢゅぷ、と口の中いっぱい響く濡れた音が余計恥ずかしくて、巳亦から離れようと後退るがその分更に俺にのしかかって来る巳亦に内心俺はパニックになっていた。 「……ん、ふ、ぅ……っ!」 柔らかいクッションは二人分の体重を受け止め、沈む。そのせいで余計逃げにくくて、元よりそういう用途もあるのか、ずるずると引き摺り込まれてはなし崩しになってしまいそうになる。舌の先っぽを擦り合わされると口の中に唾液がじわりと滲み、それを巳亦は躊躇なく啜るのだ。 そして、口の中の水分全部取られたんじゃないかと思い始めたとき、巳亦の唇が離れた。 「……み、また……っ」 「……ああ、クソ……外野が邪魔だな」 「っ、ご、ふん、五分っ、経った……から……」 これ以上は、まずい。怪しまれる。そう、回らない呂律でなんとか巳亦に訴えかければ、渋々といった様子で巳亦は俺から体を離した。 「……なんだ、早いな」 「……巳亦……」 「分かってるよ。……ああ、そうだな。テミッドに怒られる」 ……良かった。 一瞬、巳亦の目が笑っていないように見えて怖かったのだけれどちゃんと話は通じるようだ。そうだ、こんなことしてる場合ではないのだ。そうこくこくと頷けば、巳亦はソファーに沈んでいた俺の体を抱き起こしてくれる。 「動けそうか?」と囁かれ、俺は、小さく頷き返した。 巳亦のお陰で下手な演技を晒さずとも体に力が入らない。きっとそれを分かったのだろう。そのまま巳亦は俺を立ち上がらせた。 「……っ、ぁ……」 「しっかり捕まってろよ」 ……ちょっと待って、これ、お姫様抱っこじゃないか。 されるがままにしてたせいであまりにもナチュラルに膝裏ごと抱えられ、抵抗する暇もなかった。……しかも軽々と……相手が人間ではないからまだ耐えられたが、わりとこれはかなり相当恥ずかしい。 「み、また……これ……」 「ん?」 「は、恥ずかしい……」 「大丈夫だ、周りは誰も俺たちを見ていない」 本当か?と思ったが、確認する勇気もなかった。 それでも耐えられなくて、せめて顔を見られないように巳亦の体の方へと向ければ、頭を撫でられた。 「……曜、あまり可愛いことをするなよ、このまま連れ去りたくなる」 ……俺はそっと巳亦から顔を逸した。 そしてフロアを出た俺たちは、一度テミッドと合流して先程の便所へと向かうことになったのだが……。 「伊波、様……お姫様抱っこ……素敵です……」 「あ、ありがとう……?……ってか、巳亦、もう下ろしてくれよ、もういいだろっ」 「いや駄目だ、このまま便所に誘き寄せてテミッドに挟み撃ちにしてやる。だから、もう少しこのままな」 「作戦のためだ、諦めろ」と笑う巳亦は楽しそうだ。 本当に作戦のためなんですよね?面白がってないですか?じとーっと睨むが、巳亦はどこ吹く風で。 そんなやり取りしながら俺たちは便所へと入り、そしてテミッドは便所前の廊下の影で待ち伏せる。 「曜、大丈夫か?……随分と具合悪そうだが」 遠くから足音が聞こえてくる。数は恐らく一人だろう。巳亦がテミッドに合図を送り、影に隠れていたテミッドは小さく頷いた。やつが便所に入ってきた瞬間を狙う。 袋小路にするつもり満々なのだろう、怪しまれないようにするためか、演技を続ける巳亦に俺は「うーん」と死にそうな声を出す。 カツカツと響く足音は確かにこちらへと向かってくる。 一歩二歩、あと数歩で顔を出す。固唾を飲んだときだった。 ――きた。 そして、現れたのは俺たちにドリンクをくれたウエイターだった。普通に待ち構えていた俺達に驚いたのか、一瞬戸惑った顔をした次の瞬間、その口から言葉が発されるよりも先に、男の背後に浮かぶ影。それは見事な回し蹴りだった。ウエイターが便所に足を踏み入れたその瞬間その側頭部に蹴りを叩き込み、力いっぱい壁にめり込むウエイターを見て、俺は顎が外れそうになった。 テミッド、やり過ぎだ。 頭から壁に突っ込んだ男に内心同情せざる得なかった。 それから、「よくやった、テミッド」と嬉しそうに笑う巳亦によりウエイターを捕獲することになったのだが……。 「それで?客を選んで飲み物に毒を入れるなんて真似してどういうつもりだ?」 「……っ、し、知らねえって、俺はただ言われた通りにしてるだけで……」 「誰に?」 「……っ、そ、それは……ここのマスターにだよ」 「マスターってのは誰だ?」 「お、俺はただ雇われてるだけだから知らねえよ!けど、ヴァイスならきっと……」 「ヴァイスってのはどんなやつだ?」 「白髪の、ひょろっとした野郎だよ。あいつしかマスターの顔知らないんだよ……ってか、俺が言ったって言うなよ。頼むから」 余程テミッドの蹴りが聞いたのか、そのスタッフはベラベラと喋る喋る。しかし、これは有益な情報だ。 やけに怯えるスタッフに巳亦は「わかったわかった」と笑う。 「それで、ヴァイスはどこにいるんだ?」 「さっき、地下へ他の客連れてってるの見たけど……」 「客?」 「ああ、なんか背が高いおっかない野郎だったな」 『背が高くておっかない』、そのキーワードに俺は黒羽を思い出した。もしかして、やっぱりあの白髪が……! 「なあ、それって、顔に大きな傷ある人じゃなかったか?!」 咄嗟に男に確認すれば、少しびっくりしたような顔をしたそいつは「い、いや……よく見てねえ」と首を横に振る。 やっぱりそううまくはいかないか。落ち込みそうになるが、俺には確信があった。もちろん、証拠なんてないけど絶対黒羽だという確信が。というか、勘だけど。 「あ……それじゃ、語尾が『アル』っていうキョンシーとニヤニヤしてる吸血鬼の二人組は?」 「あー……それなら、見かけたな。やけに目立つ奴らだったから覚えてるよ、片方はリューグ・マーソンだろ?」 「知ってるのか?」 「知ってるも何も、あいつ有名だからな。……あいつというか、あいつの兄貴が」 リューグの兄となると……アヴィドか。そんなに有名人なのか、と思ったが知ってるのなら話は早い。 「なあ、そいつらはどこ行ったんだ?」 「さあな?女連れて上に行ってたのは見たけど……」 「上?」 「……お前、ここに来るのは初めてか?上のフロアには個室があって、そこでお楽しみできるようになってんだよ。わかったか、ガキ」 「んな……ッ!!」 なんでテミッドや巳亦のときと俺のときとで態度が違うんだこいつ!カチンと来たが、巳亦の言葉を聞いて思い出す。というか、女連れってあいつら……! 何をしてるんだ、と怒りで顔が熱くなったとき、ふと冷たいものを背後から感じだ。テミッドだ、テミッドから背筋の凍るような殺気が滲み出てる。 「……て、テミッドさん?」 「……伊波様はガキじゃない、撤回しろ」 「ヒッ!わ、悪かったよ……悪かったからその手やめてくれ!」 てっきりリューグたちに怒ってるのかと思いきやそっちか。いや、そこに怒るのかという呆れもあるが、殴りかかりそうなテミッドの怒りを察知したのかスタッフはすぐに謝ってくれたので鎮火したが……。 「……取り敢えず、ヴァイスってやつを捜した方が良さそうだな。……なあお兄さん」 「な、なんだよ、まだあるのかよ!」 「地下ってのはどこから行けばいいんだ?」 「……腰に鍵がついてる、それを取ってくれ」 巳亦の笑顔の圧が怖い。逆らえばろくな目に合わないと学習したらしい、巳亦はそのスタッフの腰に下がっていた鍵の束を取り外す。 「地下の階段がそっちの奥にあるから、それで扉開けて階段を降りろ」 「い、いいのか、こんなの渡して」 いくら脅してる側としてでもここまで素直に差し出されたら逆に呆気取られるというか、何か企んでんじゃないかと勘繰ってしまう。 「どっちにしろ、アンタらにバレた時点でおしまいだよ。それに、前々から心配してたんだ。いつかこうなるんじゃないかって。俺はこれ以上巻き込まれるのはゴメンだ、このままこんな店辞めてやるよ」 「え」 「……賢い選択……」 ……良かったのか?と心配するのも変な話だが、スタッフ、否元スタッフは「もういいだろ?解放してくれ」と両手を挙げて降参のポーズ。 「んー……まあいいや、鍵手に入ったし、嘘は吐いてなさそうだしな。曜も他に聞くことないか?」 「ま、まあ……ないけど」 「……ん、じゃあもういい」 「っ、ほ、本当か?!」 元スタッフの拘束を解いたテミッドは「ばいばい」と手を振る。元スタッフはようやく自由になった手をわきわきし、そして「絶対俺のこと言うなよ!」とだけ言うとさっさと逃げ出した。すごい逃げ足の速さだ。俺はしばらく唖然としていた。 「本当に帰してよかったのか……?」 「まあいいだろ。それに、逮捕は俺達の仕事じゃないしな」 「確かにそうだけど……」 掟破りを裁くのは獄吏たちの仕事だ。そもそも魔界の掟を破ってるのかどうかもわからないし、どちらかというと俺達の方が裁かれるべきことはやってきてるわけだし。 「……まあ、いいか……?」 「そーそー、深く考えない。それじゃ、さっきのやつが言っていたヴァイス……だっけ?そいつを探しに行くか。恐らく、そいつと一緒に黒羽さんもいるだろうし」 「あ、ああ!」 というわけで気を取り直して、元スタッフの言うとおりに奥へと進めば……あった、扉だ。巳亦は例の鍵束を使い、扉を開ける、真っ黒な扉は吸い込むようにその鍵を飲み込むと、大きな音を立て開いた。 重厚な鉄製の扉、それが開いた瞬間、むわっと異様な匂いが地下から込み上げてきた。生ゴミ、いや、なんだこれ。いつの日かの地下監獄の地下水よりかはましだが……思わず吐き出しそうになり、慌てて口を制服の袖で抑える。 「くっ……さ!」 「……まあ、アンデッド専用っていうくらいだからな、恐らく地下に食材を保存してるのだろう」 「……な、なるほど……」 じゃあテミッドは平気なのかな?とちらりと視線を向ければ、なんとテミッドの開いた口から涎がだばーっと溢れているではないか。きゅるるるというなんとも物悲しげな腹の音もセットで。 「テミッド……お腹減ったのか……?」 「う……あ……ご、ごめんなさい……」 「いや、いいんだ……テミッドが平気なら……」 「あう……」 そうか、テミッドからしてみればご馳走のいい匂いがしてるってことか。すごいぞ種族の壁、これは生半可な気持 ちでは乗り越えられない食文化だ。恥ずかしそうにお腹を抑えるテミッド。帰りにテミッドが好きなクレープ屋に寄ろう、なんて決意する俺。 「それじゃ、降りるか。曜、無理そうなら……」 「だ、……大丈夫!」 「……わかった、きつくなったら言ってくれよ。最悪、眠らせて運ぶから」 「はい……」 確かに嗅がずに済むがそれは使いたくない手だ。 俺はぐっと堪え、「大丈夫!」と頷き返した。……うん、大丈夫だ。きっと、多分。……恐らく。 そして、俺達は地下へと降りることになった。 ホアンとリューグのことも気にならないと言えば嘘になるが、あいつら女遊びをしてるとなれば話は別だ。先に黒羽さんの無事を確認するのが優先だ。女遊びなんてするやつらは後だ、後。羨ましいようなムカつくようなもやもやを懐きつつ、俺は先を歩く巳亦の後ろからついていく。そしてそんな俺の後ろからテミッドがついてくるのだが……ずっと後ろから聞こえてくる腹の音が気になって仕方なかったのは秘密だ。

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