39 / 109

28

 やばい。やばい。やばい。  やばい。  心臓が煩くなり、全身からぶわっと変な汗が滲む。  コピー用紙に印刷されたそれを見詰めたまま黙り込む岩片。走る沈黙に、なんだか時間そのものが止まったような錯覚を覚えた。いや、いっそのこと止まってくれた方がよかったのかもしれない。  分厚い瓶底眼鏡のその下、その双眼は確かにコピー用紙を見ているのだろう。慌てて奪いたかったのに動揺と焦りで全身が硬直し、こんがらがった脳がまともに機能せずその場から動けなかった。  機材置き場に走る重い沈黙。 「なんだ、これハジメじゃん」  その沈黙の中で、最初に口を開いたのは岩片だった。いつもと変わらないおどけた調子の弾むような明るい声。  コピー用紙から顔をあげた岩片はそう口を開けた。  正直、なんだか肩透かしを食らったような気分だった。いつも通りの岩片の様子に少なからず安堵する反面、レンズ下の表情が読めないだけに不安になる。それらを拭うように、俺は「んなわけないだろ」と口を開いた。 「コラに決まってんじゃんコラ。なんで俺が裸で出歩かなきゃいけないんだよ。ほら、早く渡せって」 「あ、なんだコラですか。へえ~コラにしてはよく出来てますよね、副会長がしたんですか?」 「いえ、私は先程部長から連絡を受け元さんの生写真を一枚一万円で売ると聞き駆け付けて来たばかりのただの客人です。五条部長曰く本物だそうで」 「ないない。生写真とか言って合成写真を高値で売り付ける魂胆なんだろ、あいつ。信じんなよ、絶対信じんなよ。能義も、こんな写真にバカみたいな金出すなよ。あいつの懐潤してどうすんだよ」  我ながら上手い言い訳を見付けたと思う。  数日前、五条と初めて会ったとき能義から五条がそういう専門の常習犯だということは聞いていた。感心はしないが、それを理由にこの写真の真偽をあやふやに出来るなら本望だ。まあ、いくら偽物だと偽ってもそれが本物だと知っている俺からしてみればじろじろ見られれば不快極まりないのだが。 「で? そのごじょーとかいうやつはどこにいんの?」  そんな俺たちの会話を聞き流しつつ、人の写真片手にそう能義に尋ねる岩片。マイペースにもほどがある。岩片からの問いに対し、尋ねられた能義は「ああ、もうそろそろ来るんじゃないでしょうか」と思い出したように答えた。 「早く来ねーかな、ハジメのこんな写真撮るとかやっぱすげえわ」 「だから俺じゃないって言ってんだろ」 「そうか? 時間帯とかこれ今朝のじゃん。しかもこの太ももから膝のラインといい適度に筋肉がついたふくらはぎの膨らみといいハジメっぽいんだけどな、ほら」 「ああ、確かにそうですね。この首筋から肩の滑らかさといい仄かに色付いたちくふぎっ」  コピー用紙とこちらを交互に見てくる二人のねっとりとした視線が気持ち悪すぎて我慢出来なかった俺は近くにあった箱ティッシュを能義に投げ付けた。スパンッといい音を立て顔を赤く腫らした能義は「おや、私の顔を狙うとはなかなかやりますね」ととかなんとか余裕ぶった態度を取っていたがその目には若干涙が浮かんでいる。つーんときたようだ。 「俺じゃねーって言ってんだろ、しつこいな。ほら、返せって」  そんな能義を無視して俺はにやにや笑いながら写真を撫でる岩片からそれを取り上げた。 「ったく、最近ハジメカリカリしてんなあ。カルシウム取れよカルシウム」 「こんな合成写真作られて喜ぶやつがいるか」 「俺」 「お前は末期だ」  残り最後の一枚をシュレッダーに入れ、それがただの紙切れに変わるのを見送った俺はパソコンの側にいた岡部に目を向ける。 「岡部、今すぐさっきのデータ消せるか?」 「ええっそんな……いいんでしょうか」 「大丈夫だって。んで代わりにこの写真五十枚印刷してくれ」  パソコンに近寄った俺はディスプレイに表示された画像データからとある写真を選ぶ。画面いっぱいに現れるのは先程俺が撮った五条の写真だ。もとい、鼻血をだらだら垂らしながら太ももを汚しつつ便所の床の上で全裸正座しカメラ目線で恍惚の笑みを浮かべるアザだらけの変態の写真だ。 「あのこれって……」  現れた顔見知った先輩のいじめ写真にぎょっとする岡部はじわじわ顔を青くさせ、不安げな表情で側に立つ俺を見上げてくる。 「岡部、頼むよ」そうあくまで優しく笑いかければ「わっわかりました、わかりましたからそんな怖い顔しないでください……っ!」と泣きそうな顔をする岡部はパソコンの前にへばりついた。そんなつもりはなかったのだが、やはり流石の出来事に顔に出てしまうようだ。 「もう削除してしまうんですか?」  頬の筋肉を緩ませるように揉んでいると、しょんぼりとした能義が尋ねてくる。 「見逃すわけないだろこんな写真」そのままそう即答すれば、「記念に一枚くらい貰おうかと思いましたのに」と能義は大袈裟に肩を竦めさせた。なんの記念だ。 「あいつのぼったくり写真にそんな金使うなよ。それなら俺に金渡してくれたらいくらでも脱いでやるっての」 「いくら出したら中出しいけますか?」 「本当お前わかりやすいよな」  脱ぐだけって言っているだろ。っていうか大体これ自体ジョークなのだからそんな期待するような顔をして財布取り出さないでくれ。普通に怖い。  椅子に座ってディスプレイに向かい合う岡部が本格的に作業に取りかかり始めるのを眺めていると、それを遠巻きに眺めていた岩片は「まあ確かにそれもそうだな」と珍しく神妙な調子で口を開く。 「俺の場合見ようと思えばいつでもシャワー浴びてるところ突撃できるわけだしあわよくばそのままうっかり挿入して最後まで無料で済ませることも「お前はそんなに俺との間に塞がらない溝を作りたいのか」

ともだちにシェアしよう!