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 校舎内、廊下にて。 「おいっそこの貴様! なんだその頭は!」  教室へ向かって歩いていると後方から聞き覚えのある怒声が聞こえてきた。  大きな声とともにずかずかと近付いてくる大きな足音に何事かと振り返り、そして俺はやってきた生徒を見て思わず「うわっ」と声を上げる。  乱れ一つない制服にそめたことのないような黒髪、細いフレームの眼鏡が似合う釣り目がちなそいつには見覚えがあった。  野辺鴻志。出た、風紀委員。 「黒以外の髪の色は校則で違反されてるはずだぞ」  肩を掴まれ、無理矢理顔を覗き込んでくる野辺。  やばい。また厄介なやつに絡まれた。顔を見られそうになり、咄嗟に野辺を振り払おうとするが遅かった。 「……ん? よく見たらお前昨日のやつじゃないか、まだ染めてなかったのか! 二度目はないぞ、氏名学年クラス洗い浚い吐け!」  ギリギリと指を食い込ませてくる野辺はそうヒステリックに怒鳴る。  思いっきり制服の襟を引っ張られ、喉奥から「ぐぇ」と潰れたカエルのような声が漏れた。 「いや、ちょ、引っ張んなって」  ひん剥く勢いで力任せに制服を引っ張ってくる野辺に顔を青くした俺は「暴力は法律で規制されてるだろ!」と声を上げた。 「校則では規制されていない」  こいつの脳みそはお花畑か妖精さん的ななにかが暮らしてるのだろうか。  転校してきたばかりなのでここの校則がどういうものかわからなかったが恐らく野辺が馬鹿なだけだろう。  とにかく、このままではまた俺の下半身が危ない。今すぐ殴り倒したかったが、岩片の命令がある今それは出来ない。取り敢えず、ここはこいつから逃げるしかないだろう。 「だからっ、落ち着けって」  そう冷静に判断した俺が肩を掴んでくる野辺の腕を振り払おうとしたときだった。 「なにをしてる」  不意に、前方から聞き覚えのある冷たい声が聞こえてくる。五十嵐だ。  丁度良いタイミングでとある部屋から出てきた五十嵐は、書類を手にしたまま揉めている俺たちを睨むように見た。 「五十嵐」 「そいつから手を離せ」 「また貴様か、指導の邪魔をするのはやめていただこうか。こっちは今馬鹿どもを野放しにしている貴様等の尻拭いで忙しいところだ。邪魔をするなら貴様も取り締まるぞ、五十嵐彩乃!」  仲裁に入る五十嵐に対しそう『ズビシィッ!』と効果音を立てる勢いで人差し指を突き付ける野辺。  相変わらずのテンションだ。そんな野辺に対し、フルネームで呼ばれた五十嵐は僅かに不快そうな顔をする。  が、それも束の間。 「そいつの髪なら地毛だ。前の学校で水泳をやっていたせいで色素が抜け落ちてる」  相変わらずポーカーフェイスな五十嵐はそう冷めた口調で続ける。その口から出た言葉に俺は目を丸くさせた。  いつから俺は水泳部になったんだ。なんでもないように続ける五十嵐に目を向ければ、五十嵐と視線が合う。 『黙ってろ』そうこちらに目配せさせてくる五十嵐。どうやらその場しのぎのハッタリのようだ。口の中で「なるほどな」と呟き、俺は五十嵐に小さく頷き返す。 「水泳だと? そんな報せ風紀には届いていない」 「だろうな、だから今こうして報せにきた」  もちろん野辺が無条件に五十嵐を信じるはずかなく、そう眉間に皺を寄せる野辺に対しそう静かに続ける五十嵐は言いながら手に持っていた書類を相手に差し出した。所々靴の跡がついたその書類にはどうやら俺の個人情報が書かれているようだ。靴の跡については敢えて触れないでおく。 「校則で禁止しているのは髪を染めることだろう。好きで染めた訳ではないこいつよりも他に指導する相手がいるはずだ」  五十嵐の手から書類を奪うように取り上げた野辺に対し、そう冷めた口調で重々しく続ける五十嵐。記載されたデータに目を走らせる野辺の眉間の皺は益々深くなり、やがて、書類から顔を離した野辺は小さく舌打ちをした。 「……っ五十嵐彩乃! 貴様、俺に恥をかかせたな!」 「勘違いするな、別にお前に恥を掻かせたつもりも争うつもりも毛頭ない」 「当たるなら転校生の書類を届け忘れていた政岡に当たれ」怒りで顔を赤くした野辺を見据えたまま、五十嵐はそう呟いた。  そんな五十嵐の言葉に相変わらず不快そうな顔をした野辺はふん、と鼻を鳴らし「言われなくてもそうするつもりだ」と唸るように吐き捨てる。政岡どんまいと言いたいところだが自業自得なので俺は敢えてなにも言わないでおく。  数分後。見事五十嵐の口車に乗せられた野辺は「次もこう上手くいくと思うなよ」だかなんだ悪役染みた捨て台詞を吐きながらその場を後にした。 「あー……ビビった」  ――校舎内廊下にて。  野辺がいなくなったのを確認し、五十嵐の背中に隠れていた俺はそう肩を竦めながら五十嵐から離れる。 「ありがとな、あや……五十嵐」 「あのくらい自分で追い払えなくてどうするんだ」  そう五十嵐は吐き捨てるように続けた。相変わらず愛想は宜しくないが、こうして五十嵐に何度も助けられているのも事実だ。  だけどやはりこの愛想のなさと嫌味っぽさはカチンとくる。 「岩片からあいつに絡むなって命令来てんだから仕方ないだろ」  むっとして、本気出したらあんなやつくらい余裕であしらえますよと遠回しにアピールしてみれば、五十嵐は「手を出さずともあいつを追い払う方法は幾らでもある」と冷静に反論してきた。 「今度からまた髪のことで風紀になにか言われるようなことがあればさっき俺が言ったことを言え」 「さっきのって……水泳ってやつか」  確かに、地毛と押しきる方法もあっただろうがあの状況で野辺が俺を信じるとは思えない。  どちらにせよ、五十嵐がいなかったらまたややこしくなっていたということだ。助けられたことには変わりないだろう。 「そーだ、あれどういう意味なんだよ」 「どうもこうもそのままだ。お前は一から十まで説明しなきゃわからないのか」  そして、書類のことを尋ねようとすれば相変わらず小馬鹿にするような冷たい目で五十嵐は俺を見下げる。 「生徒会に届いていたお前のデータを少し改竄した。とは言っても水泳部のことだけだけどな」 「いずれバレるだろうが少しの間目眩ましにはなるだろ」そして、そうなんでもないように言葉を並べる五十嵐はそこまで言って小さく息を吐いた。 「これから風紀室に届けるつもりだったが、間に合ってよかったな」  そう言いながらこちらに目を向けてくる五十嵐。どうやら本当にたまたま通り掛かっただけのようだ。まるで感謝しろとでも言いたげな視線はあまり気持ち良くなかったが、それのお陰でもう風紀に絡まれる必要がなくなると思えばかなり有り難い。 「……すげ、生徒会ってそんなことまで出来んだ」  それよりも、俺は書類の改竄の方が驚きだった。そう素直に感心するように口にすれば、五十嵐は「書類に書き足すぐらい誰だって出来る」と相変わらずの仏頂面で即答する。そんなものなのだろうか。俄信じがたいが、五十嵐がそう言っているのだからそうなのかもしれない。 「そう言えばあいつは一緒じゃないのか」 「あいつって、あー岩片のこと?……岩片なら五条祭を調教中だってよ。んで、俺は避難してんの」 「五条だと?」 「そうそう、新聞部の」  そう俺が頷き答えようとしたときだった。ふと廊下の奥の方から人の気配を感じ、言葉を止める。 「……場所変えた方がよくね?」  そして、こちらへとやってくる遅刻組らしき連中の影を見つけた俺はそう声を潜め五十嵐に尋ねる。  その問い掛けに対し、どうやら五十嵐も同感のようだ。 「そうだな」そう静かに続ける五十嵐は周りに目を向け、そして「ついてこい」と言い残せば人影とは真逆の廊下を歩き出す。  俺としても五十嵐と二人きりで密会染みたことをしている場面を見られてややこしいことになるなんてことは避けたかったので大人しく後についていった。

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