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「岩片……っ」
まさか、こんな早く来るとは思っていなかっただけに驚いた。
そして、早くにやってきた岩片に少しだけ残念に思っている自分自身にも。
「へぇ、随分と早かったじゃねえかよ。もじゃもじゃやろ……」
政岡が言い終わるよりも先に、ズカズカと目の前までやってきた岩片に腕を掴まれた。
そのまま、皮膚に食い込む程の強い力に引っ張られ、無理矢理立たされそうになる。
「って、無視してんじゃねえよ!」
けれど、間に入った政岡によってそれを制される。
力づくで岩片を引き離した政岡に、レンズ越し、岩片の目が目の前のそいつを通り過ぎ、俺の方を向いた。
「随分と飼い慣らしたようじゃねえの、ハジメ」
「……」
「はあ? ……俺のこと言ってんのか?」
「お姫様ごっこは楽しかったか?」
政岡を無視して続ける岩片の言葉に、何故だろうか、グサリとナイフか何かが突き刺さるようなものを感じずにいられなかった。
お姫様と揶揄する岩片に怒りを覚えたのも確かだが、それ以上に、突き放すような笑みに、言葉に、焦燥する。
「岩片……っ」
「せっかくそいつと仲良しこよししてるところ水を差して悪かったな」
冷ややかな笑みを残し、そのまま踵を返す岩片。
置いていかれる。そう考えたらいても立ってもいられなくて、
「岩片っ!」
咄嗟に、立ち上がった俺は岩片の腕を掴んだ。
岩片の目はこちらを向かない。けれど、振り払われないことが唯一の救いだった。
「悪……かった、勝手に行動して」
なんで俺が謝らないといけないんだ。元はと言えばこいつが神楽に捕まったと思って助けに行ってやったのに。
頭では納得行かなかったが、それ以上に、岩片から見捨てられることが酷く、恐ろしかった。
頭を下げれば、微かに岩片の口元が緩む。
「ハジメ」
名前を呼ばれ、顔をあげた時。
後頭部を鷲掴まれる。
そして、
「え……っ」
ぬるりとした舌の感触が唇に触れたと思った瞬間、間抜けに開いた唇を割って滑り込んでくるそれは間違いなく、というかどう考えても岩片の舌で。
視界にいっぱいに入る岩片の変な眼鏡に頭が真っ白になって、次に何されてるのか分かった瞬間、顔面に熱が集まった。
「な、な……っ」
呆れたような政岡の声が聞こえてくる。
そうだ、政岡が居る前で、こんな。
そう思うのに、根本深く挿入される舌は喉まで滑り込んでくる。
「っ、ふ、ぅ、う……っ」
岩片にキスをされたのは、二回目だ。
一回目は、五条を利用するため。
だとしたら今度は、政岡に見せつけるためか。
分からなかったけど、それでも、岩片を突き飛ばそうとした時、手首を掴まれ、封じ込まれる。
「ん、ぅ……っ」
岩片が何を考えてるのかなんて、ずっと分からないし恐らく一生理解する日なんてこないだろう。
けれど、なんとなく、岩片が何を求めているのか分かって、俺は拳に込めていた力を抜き、抵抗を止める。
瞬間、微かに岩片の目が細められた。
「……っふ」
笑った、と思った時、舌は引き抜かれる。
慌てて唾液を拭おうとした時、岩片に唇ごと唾液を舐め取られた。
「帰るぞ、ハジメ」
呆気に取られる政岡を最後まで無視し、岩片はさっさと歩き出した。
政岡にちゃんと挨拶したかったけど、こんな状態であいつの顔を見ることが出来なくて、俺は逃げるように岩片の後を追い掛けた。
とにかく、顔が熱い。
これならまだ殴られた方がましだ。
今、俺にとって後ろを振り向かないでいるのが精一杯だった。
最悪だ。政岡に見られたし、岩片は機嫌悪いし、またキスされたし。
「……っ」
思い出してしまい急激に居た堪れなくなる。
掴まれた腕が、箇所が酷く熱く感じてしまってつい、俺は岩片の手を振り払った。
学生寮、通路。
人気のないそこに、乾いた音が響く。
「別に……逃げねえから」
振り返る岩片にそう告げる。
相変わらずやつの表情見えなくて、何考えているのか分からない。
けれど、笑ってはいないことだけは確かで。
「逃げねぇから、な」
ぽつりと呟く岩片。
その含んだような言い方になんとなくカチンときた。
「……なんだよ」
「他の男に頼って自分はのうのうとお姫様気取りだったくせに」
「は?……誰が、何だって?」
「テメェだよ、ハジメ。政岡を勝たせてやるつもりか?」
前々から思っていた、こいつのこの口の悪さというか性格の悪さといい根性のひん曲がり方といいどうにかならないものだろうかと。
でも、もう慣れた。
慣れたつもりだった。
「何……お前、妬いてんの?」
思っていた以上に俺は短気のようだ。
誰かさんのために走って、誰かさんを餌によくわかんねえ薬飲んでしまって誰かさんのお陰でケツ穿られまくった。
それをたまたま助け出してくれたのが政岡だっただけだ。
それを、こいつは、俺がお姫様だと。
腸が煮え繰り返り過ぎて冷静になって来る頭の中、無意識の内に自分が笑ってることに気付いた。
全く不愉快極まりないのだが、苛つけば苛つく程俺の表情筋は活発になるらしい。
「なんでお前なんかに妬かなきゃなんないんだよ」
嘲笑する岩片に、ピクピクと、頬が痙攣する。
「思ってたより大したことねぇんだなーって思ってな、少し優しくされただけで揺らぐのか、お前」
チョロすぎ、と明らかに馬鹿にした笑いを漏らす岩片にまた、顔が引き攣る。
岩片のねちっこい詰りにも慣れていた、慣れていたつもりだった。
けれど、俺は、ずっと岩片のことを一番に考えていた。
見返りを求めていたわけではないつもりだったが、そんな岩片に冷たい目で見られることがこれ程までに堪えると思っていなかった。
「……」
「なんだお前、その目は」
自分が今どんな顔をしているのか分からない。
けど、仕方ない。
こいつはこういうやつだ、今に始まったことではないだろう。
自分に言い聞かせ、肺の奥、溜まった空気を吐き出す。
馬鹿馬鹿しい。
非常に、馬鹿馬鹿しい。
「そうだな、俺が悪かったよ。お前が神楽に捕まるわけねーしな、俺も馬鹿だよなぁ、よく考えたら分かるものを。……あんなに、ムキになって」
「ごめんな、わざわざ迎えに来てくれて」人間どれ程ムカついていても笑えるようだ。
岩片の肩を叩き、そのまま歩き出そうとした矢先。
岩片に腕を掴まれた。
「おい、なんだよ」
「その目、ムカつくんだよ」
「はぁ?」
意味がわかんねーし、そんなのイチャモンじゃないか。
壁に抑え付けられそうになり、嫌な予感がして咄嗟に抜け出そうと身を捩らせた矢先、首筋に顔を埋めてくる岩片にギョッとする。
「おい、馬鹿、何やって」
ここ、通路のど真ん中なんだけど。
という俺の悲痛な叫びを無視し、首筋に思いっ切り歯を立てられる。
「い、つ……ッ」
皮膚を突き破る程ではなかったが、全神経に走る痛みは鋭く、岩片の噛み跡は痺れ、疼き始める。
これで満足したかと思ったのに、岩片は顔を離そうとしなくて。
「おい、岩片……ッ」
噛み跡をなぞるように這わされた舌に全身が痙攣する。
収まりかけていた鼓動が再び喧しく脈打ち始めて、軽くそこを吸われるだけで針で刺されたような痛みに声が漏れそうになった。
「お前、勘違いしてんだろ」
「お前は誰の下僕だ?」消えた笑み、冷ややかなその声にトドメを刺されたような気がする。
下僕。その響きに、心が重く沈むのを感じた。
この学園に来てから、それも、俺だけが岩片の隣にいることが許されて、少しでもこいつにとって俺は特別だと思っていた。
一緒にいる時間が増えるし、少しは、友達のような、そんな関係になれたらとも思っていた。
けれど、それ自体が間違いだというのか。
「お前なんかいつでも犯せるんだからな」
自分だけが特別。
そう思っていた俺にとってその一言は結構ダメージでかくて。
岩片にとってそこら辺にいる玩具と同等だと言われているような、いや、実際言われてるのだろう。突き付けられた言葉の刃物は躊躇いもなく自尊心を深く抉った。
岩片の手が離れる。独り歩き出す岩片に、俺は乱された制服の襟を戻した。
噛まれた跡が馬鹿みたいに疼く。
先ほどまでの異様な苛つきは消えていた。
代わりに、ぽっかりと何かが抜け落ちたような、そんな空虚が俺を支配していた。
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