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「……っ!」  一瞬、何が起こったのかわからなかった。  岩片の熱が、焼けるほど熱い掌が背中に回されて、上半身の隙間なく抱き寄せられて……身体が強張った。流れ込んでくる岩片の体温と心臓の音が広がる。岩片の鼓動が早い。やつがどんな顔をしてるのかもわからなくて、俺はどんな顔をしたらいいのかわからなくて、迷子の子供みてーに視線を彷徨わせる。 「な、にするんだよ……っ離し……」 「……」 「っ、おい、岩片……」  なんなんだ、なんなんだこいつは。  怒りたいのに、突き飛ばしたいのに、何も言わない岩片に、焼けるほどの熱量に気圧され、何も考えられなかった。恥ずかしくて堪らなかったのに、パニックになっていた頭がすっと冷めていく。  心地良い、なんて認めたくなかった。けど、見えなかったはずの岩片の存在が急に浮き彫りになったみたいで、困惑する。  俺みたいに鼓動が早くなって、ムカついたら熱くなって、それも、こうしてると落ち着いていく。  こんな事してる場合じゃないとわかってたのに、離れようとしない岩片を無理矢理引き剥がすことができなかったのは岩片が一瞬、俺と同じような迷子に見えたからだ。 「なんなんだ、お前。……なんで……俺を頼らねえんだよ、全部一人で終わらせようとしてんだよ」 「……っ、そんなの、俺の勝手だろ」 「勝手じゃねえよ。……お前は俺のものだろ」 「…………言ってること、無茶苦茶だよお前まじで」  本当になんなんだこいつは。  俺も俺だ、岩片の言葉を聞いて散々苦しかった胸の奥がすっと軽くなったのを感じた瞬間、自分で呆れた。  無茶苦茶で自分勝手で横暴、不遜で揺るがない自己中野郎な岩片にこんな顔をさせたやつがいただろうか。  顔を上げた岩片と、その分厚いレンズ越しに目があった。覗き込まれ、頬を撫でられる。 「俺のこと好きだっていい加減認めろよ」 「……っ、何、言ってんだよ……」 「好きなんだろ」 「好きじゃねえ」 「……じゃあなんで俺から逃げないんだよ」  そんなこと言われて、言葉に詰まる。  お前が最初逃してくれなかったんだろと言いたかったのに、後半俺は確かにこいつから逃げるということを頭から抜け落ちていた。  というか、普通に話ししてしまってることに気付いてハッとしたが……今更意固地になるのも馬鹿馬鹿しくなったのだ。 「誰かさんが寂しがってるから……居てやってんだよ」  だから、その代わり……せめてもの抵抗として嫌味の一つだけ言ってやったら岩片は俺の方を見たまま「ああ、そうだよ」と即答した。 「……やっぱ、お前いねーと駄目だわ。俺」  ただ、何気なくそんな言葉を口にする岩片に、その言葉に、ぶわりと形容し難いものが胸の奥から溢れ出した。  顔が、熱くなる。さっきまでの頭に血が登ったときのそれとは違う、別の熱だ。歯が浮くような甘い言葉ではないはずなのに、その独り言のような言葉を聞いた瞬間、感じたことがないものが溢れ出すのだ。  なんだ、なんなんだこれは。目眩、違う、足元が綿かなにかになったかのようなふわふわとした感覚に、俺は情けないことに文字通り絶句した。 「は、……はは」  口から、笑いが漏れる。  なにが面白いのか自分でもわからなかったけど、なんだかおかしくて、それなのに上手く笑えないのだから変な話だ。 「……なんだよ、それ」 「何が」 「……お前、やっぱ変だよ。おかしい」 「……」 「それじゃあ、お前、まるで……」  ――まるで。  脈が加速する。焼けるように熱くなる体に、汗がじわりと滲む。  考えたくもなかった、考えてはいけない。  過った思考に、自分で自分が恥ずかしくなる。  言い掛けて口を噤む俺に、岩片はすっと目を細めた。その表情に笑みはない。ただ、真剣なその目がただこちらを射抜く。 「……まるで、なんだ?」  静かに促され、心臓が、体が、反応する。  岩片はそれを求めるように口にした。その先を言ってはいけないというのに、この非道な男はその先を促すのだ。  考えてはいけない。駄目だ。それだけは。  そう思えば思うほど、ぼんやりとしていたその考えはしっかりと輪郭を浮かび上がらせる。  ――まるで、俺のことを。  いけない。駄目だ。そう思えば思うほど、声は強くなる。  それに堪えられず、俺は、拳を握り締めた。掌に食い込む爪、その痛みにハッとする。  飲み込まれそうになっていた意識を取り戻し、俺は固く唇を結んだ。 「まるで、なんだ」 「……なんでもねえ」  そう、しつこく聞いてくるやつから逃げようとするが、すぐに肩を掴まれる。細っこい指が食い込む。強い力で抱き寄せられ、気がつけば目の前にはやつの顔があった。 「逃がすかよ」 「っ、岩片……ッ」 「お前だってもう分かってんだろ、気付いてんだろいい加減」 「っ、離せ……岩片……っ!」  壁に押し付けられ、それでもその腕から逃れようとジタバタする。目の前の男を振り払えばいいだけだとわかっても、その力は強く、ちょっとやそっとじゃ離れない。  それどころか。 「ハジメ」  そう、顔を逸らそうとする俺を無理矢理前向かせようとするのだ、この男は。目を逸らすことも許さないのだ。これほどまでの暴君がいただろうか。  嫌だった。本当の本当にこれ以上はもう元の関係に戻れなくなってしまう。それがわかってしまったからこそ、阻止したかった。  こんな状況になってもなお、そんな風に思ってしまう自分が馬鹿でとんでもなく恥ずかしくて自惚れているやつだとわかってしまうのも嫌だった。  ――だから、拒んだ。 「っ、嫌だ、聞きたくない」 「駄目だ」 「っ、やめろッ! やめてくれ、岩片……っ」  拒絶というよりもそれは懇願に近かった。  俺を自意識過剰だと笑ってほしかった、馬鹿なやつだと、お前は本当自惚れているなと。いつもの皮肉たっぷりの冷たい笑みを浮かべ、笑ってほしかった。  けれど、実際の岩片は笑みすら浮かべていない。まるで俺を憐れむような目で見てくるのだ。  そして、やつは俺が最も恐れていた言葉を、死刑宣告に等しい言葉を、口にした。 「ハジメ、好きだ」  いとも簡単に口にしやがったのだ、この男は。  空気が、酸素が一気に薄くなるような息苦しさと、鉄の鉛を頭の上に落とされたようなそんな衝撃に目の前が暗くなる。 「……好きだよ、ハジメ」  今度は、優しい声だった。  聞き間違えだと思いたかった。そうであってくれと。けれどやつはそれを許さない、追い打ちを掛けるように続ける岩片に、頭の中が真っ白になる。

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