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「……………………う、そだ」  そんなこと、あり得ない。冗談だと笑っていくれ、いつもみたいな無意味な軽口でいい。だから、頼むから。  総懇願するが、やつは逆に不愉快そうに首を横に振った。 「嘘じゃねえよ」 「っ……だって、お前今までに一度もそんな素振り」 「お前が俺の側に居たからする必要がなかっただけだ」  そう続ける岩片に、全身の熱が一気に引いていくのを感じた。怒りとも悲しみとも違う、不気味なほど浮ついたところを一気に叩きつけられるような落胆。  それと同時に、違和感しかなかった岩片の言動すべてが腑に落ちる。  ああ、こいつ、そういうことか。と。 「……なんだよ、それ」 「……ハジメ?」 「ゲームに負けそうになったら、そうやって他の野郎にするみたいに口説くつもりかよ」  絞り出した声。喉の奥がチリチリと焼けるようだった。  好きだ、なんて言葉をほんの一瞬でも信じてしまった自分が馬鹿だった。  そういうやつだとわかっていたはずなのに俺は、また騙されそうになったのだ。さぞやつの目に映る俺は滑稽なことだろう。 「ハジメ」と、宥めるように名前を呼ぶやつに腸が煮え繰り返しそうになる。  わかっていたはずなのに、やっぱりだめなのだ。 「……俺も、大概馬鹿にされたもんだな」  アホらしい、ああなんとアホらしい。馬鹿げてる。こいつも馬鹿だし、こいつを信じた俺はもっと馬鹿だ。けれど、よかった。変に勘違いせずに済んだのだ。痛い目を見ることもなく。 「……離せよ」 「離さねえよ。逃げるだろ」 「当たり前だろ。そうやって甘い言葉囁やけば誰もが尻尾振って喜ぶと思うなよ」  離れない手を振り払おうとする。  けれど、肩にがっちりと食い込む岩片の手は離れない。それどころか、痛いほど食い込んで、俺は「おい」とやつを睨んだ。  視線が、ぶつかる。 「……俺のせいなのか? お前の『それ』は」  暗に俺の性格を言ってるのか。  だとしたら、今まで自覚なかったのかと頭が痛くなる。  平気で嘘をつき、平気で他人を傷つけ、甘い蜜を吸い終わったあとは平気な顔をして捨てる。最低なお前のことをずっと見てきた俺が、聖母よろしくの慈愛で受け流してきたと思ってるのか。 「……ああ、そうだな。お前が身をもって教えてくれたんだろ、こんなやつに騙されるなよって」  人として最低だ、けれどそれは俺も同じだった。  だから許せた、その矛先に自分がいないとわかっていたからだ。勿論高みの見物ならの話だ。  けれど、俺も連中と同じように良いように利用されて捨てられるのなら……その道を辿るとわかっておきながら、こいつの言葉を純粋に喜ぶほど俺はお花畑ではない。 「っ、……いい加減退けよ。お前のこと心配してくれる優しい副委員長とお茶でもしてきたらどうだ」 「俺なんかよりもずっと優しくしてくれるぞ」たっぷりの皮肉を込めて言い返せば、岩片の眉がぴくりと反応する。冷たい目。  怒ってるのか。そりゃそうだろう、あのプライドがエベレスト山よりも高いこいつが俺に散々馬鹿にされて笑顔でいられるわけがない。  けれどすぐ、その怒りは更に膨れ上がるのがわかった。顔には出ない、けれど、触れた肩越しに伝わってくる。  肌に突き刺さるほどの、痛いほどの感情が。 「……ああ、そうだな。お前よりもずっと理解力もあるし柔軟な思考を持ってる。おまけに従順で美しく、血統書付きときた」 「お前みたいに忠犬にもなれない野良犬とは大違いだな」正直に言おう。俺は、岩片があの男を褒めた時、自分でも笑えるくらい動揺した。それだけならまだ隠せたのかもしれない。  けれど比較された瞬間、頭にカッと血が昇るのがわかった。  わかっていたはずだ、こいつに口で勝てるわけがないって。それでも、それでも心の奥底で踏みとどまっていた一線を越えてきたのはあいつだ。  場所が場所だとわかっていても、火にガソリンぶち撒けられて黙ってられるほど俺はお利口ちゃんではない。 「悪かったな、育ちが悪い躾もなってねえクソ犬で」 「ああ、そうだよ。おまけに童貞みてーな妄想働かせて勝手に嫉妬してキレる。そんなに俺のことが嫌いか? 噛み付くくらいに許せなかったか?優しくされるのも嫌だ、じゃあなんだ。鎖で繋いで犬小屋にぶち込んどけばいいのか?」 「ああそうだな、お前はそういうやつだよ。俺のことなんか、他の連中だって一人の人間として見ちゃいない。チェス盤の駒、いや違うな。お前は……確かにお前からすりゃ全員家畜みたいなもんかもしれねえけど、俺は」  声が、怒りで震える。  こんな人でなし相手に何を言っても無駄だ、わかっていても今まで数年堰き止めていた感情はもう止まらない。勢いを増して溢れ出す。  ああ、馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しすぎて、言葉に詰まる。 「俺は……俺だって人間なんだよ。……少し、うつつ抜かすのも駄目なのかよ」  なんでこんなことを言わなきゃいけないんだ。当たり前のことを。  笑えるのを通り越して涙が出てきそうだ。  ここまで言わなきゃこいつはわかんないんだ、伝わらない。そう思っていたが……どうやらそれは俺の気のせいのようだ。 「ああ、駄目だ」  即答だった。わかっていたはずだが、当たり前のように答えるこの男に目の前が真っ暗になる。  こいつの常識は俺の常識だった。こいつが黒と言えば俺も白いものでも黒として扱った。  疑わなかったわけではない、勿論俺だって共犯だ。クズに加担したと背後から刺されても文句は言うつもりはない。  けれど、こいつの異常さに気づいてからは、駄目だった。  それでもほんの少しでもこいつにあるかどうかもしらない人間性とやらを信じていた俺が馬鹿だったのだ。 「特にお前が他の野郎に唆されてるのが死ぬほど腹立つ。わかるか?……なんで俺に言わなかった。なんで秘密にした」 「っ、おい……」 「なんで、あいつを頼った」  最後の一言は、恐ろしい声だった。頭を掴まれ、耳元に直接囁かれるその声に、吐息の熱さに堪えられず、粟立つのを堪えて俺は岩片の顔を押し退けようとする。弾みに、やつの顔から眼鏡が落ちた。  フレームが曲がったかもしれない、かしゃんと音を立てて転がるそれに目もくれないまま、岩片は俺を裸眼で見据える。  色素の薄い青みがかった瞳は俺を捉えたまま離そうとしない。

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