90 / 304
第90話
「ほら、泣け泣け!」
バシン、と井上の手が背中を打った。
「今、そーゆー雰囲気だったろ?」
「空気ぶち壊すから引っ込んじまった!」
照れを隠すように大袈裟に言って、でも、まだ抱かれた腕の中にいる。
「お前良い奴じゃん…」
「今頃気づいた?」
「はは…」
笑ったつもりが、つうっ…と涙が頬を伝った。
「はは…っ…ンぅ…」
次から次へと溢れ出し、俺は情けない顔を見られたくなくて井上の胸にぎゅっと顔を押し付け、井上も俺の背中に回していた腕に力を込めた。
「ぐっ…うぅ…ひっ…」
大人なのに…井上の優しさに甘えるように泣きじゃくった。
井上は何も言わずに、俺を抱きしめたままでいてくれた。
ひとしきり泣いて、今更だが、井上の胸を押しやった。
「も…もう、大丈夫…」
「そ?顔、酷いぞ」
「え…?そんなに?」
そうだ…殴られて腫れ上がった顔なのに泣いて目まで腫れたら…。
立ち上がり、室内にある鏡を覗く。
「うっわ…」
想像を超えるホラー…。
「悲惨…」
「外に出れないだろ?今日は家に泊まれよ」
一瞬、ビクッと身体が波打つ。
…大丈夫…井上は…。
「悪い。そうさせてくれると有難い」
俺は井上の部屋に泊めてもらうことにして、ネクタイを外し、スーツを脱いだ。
「彼女…いるんだろ?悪いな…」
「いっ…!」
ゴトッという音がして、井上が脛を押さえている。
「…ない…から…大丈夫…、てて…」
「…それなら、いい…」
二人の間には今までとは違う微妙な空気が澱んでいた。
ともだちにシェアしよう!