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 翌朝、ピンクの携帯が鳴った。  うっちゃっておいても罰はあたらない、はずだ。鈴が転がるような軽やかな音は二十回以上鳴っても止まらなかった。  画面を見ると、「公衆電話」とあった。本人が紛失に気づいたのだろう。  一瞬、幼さの残る泣き顔が頭をかすめた。それからもたっぷり一分は迷ったが着信音はリンリンと鳴り続ける。たまらなくなって、電話をとった。  無言のままでいると、 「あの……昨日の……人?」 と昨夜とは打って変わった弱弱しい声が問いかけてきた。 「そうだけど。忘れて行っただろ」 「うん……どうしよう」 「どうしようじゃねぇよ、取りに来るとかなんとかしろよ」 「……行きたくない」 「そりゃまぁ、そうだろうけど……」  あんな振られ方をした男の家に行かなければならないのは酷と言えば酷だ。 「駅まで行くから、持ってきて」 「はぁ?なんで俺がそんなことしなくちゃいけねぇんだよ!警察に届けとくから、取りに行けよ」 「警察?絶対やだ。駅前にファミレスあるでしょ、今から行くからそこまで持ってきて、お願い!」  ぷつっと電話が切れた。 「おい!人の都合も……」  幸いというか間の悪い事にというか、午前中は予定がなく昼から駅前のスーパーでバイトだ。猛烈にやりきれなくなって一〇五号室側の壁を思いっきり殴った。  昼にはかなり早い時間のレストランはほとんど客がおらずがらがらだった。  臙脂色のブーツの女は昨日と同じく襟に柔らかそうな灰色のファーのついたコートを着ていた。同じ格好でなかったらわからなかったかもしれない。化粧を落としたその顔は子どもそのものだった。 「ほれ」  旭日は立ったまま携帯をテーブルに置いた。ストラップがカップに触れて紅茶の水面が揺れた。 「じゃあな」 「ま、待って」 「なんだよ」  少女は薄く笑顔を浮かべながら上目遣いに旭日を見つめた。 「お兄さん、いい人だよね」 「ああ、人がよすぎる位だ」 「……お金貸して」  すっと冷たいものが胃の腑に落ちた。 「いい加減にしろよ」  自然に固い声になった。本気で怒っているのがわかったのか少女の顔から媚が消えた。 「千円でいいから」 「馬鹿にすんなよ」  旭日が踵を返そうとすると少女が腕を取った。旭日は反射的に強く振り払った。  少女はよろめいてソファの座面に手を付いた。 『やっちまった』  バツが悪い。互いに戸惑って奇妙な間があいた。その間隙をつくように少女は両手を合わせて懇願した。 「じゃあ百円でいい。本当にお願い。じゃないと私捕まっちゃう」 「百円?」 「さっき財布見たら三十二円しかないの……」  ここのドリンクバーは百二十円だったはずだ。旭日はがっくりと膝を落として、そのまま少女の向かいの椅子に座り込んだ。 「お前、家どこだ。電車賃位ならやるから早く帰れ」 「家なんて、無いよ」 「あぁ?」  旭日は内心頭を抱えた。余計な事を聞いてしまった。 「ツキヤと結婚するって、出てきたのに……帰れないよ……」 「馬鹿か、ありゃ……」  結婚なんてするタマじゃない。出てきそうになる言葉をぐっとおさえながら聞き返す。 「つーことはよ、家出か?」  少女は下を向いて唇をとがらせたまま黙っている。どおりで警察を嫌がるはずだ。 「はぁ、どうせ未成年だろ、まさか中学生じゃねぇだろうな」 「高三だよ!もう大人だよ」 「大人は見ず知らずの人に百円くれなんて言わねーんだよ。さっさと家帰れ」 「やだ……、私、虐待されてるもん」  不意に重たい言葉が出てきて鼻白んだ。 「……帰ったら殴られるのか?」 「そういうんじゃないけど……」 「じゃ、なんだ閉じ込められるとか、飯くれないとか?」 「ううん。なんて言ったらいいんだろ」 「……その、なんだ、変なことされる……とか?」  少女はかぶりをふった。 「わかんねぇよ」 「私もわかんない……」 「なんだそれ」  ちょっとオーバーな言葉を使って、人の気を引こうとしただけか。  少女はテーブルに腕を乗せ、指を組んでまっすぐに伸ばした。そして腕の間に顔を埋めて聞こえるか聞こえないか位の小さな声で「私、家に帰るとただの可哀想な子になっちゃうから」と言った。  さっぱり要領を得ないが感情だけは伝わる。おそらく一般的にいう虐待というのとは違うだろう。だが何か家に彼女を押しつぶすものがある。 「もう、帰らない。どっかで働いて、家借りて……」  自分では強く決意したつもりなのだろう、組まれた指先が赤くなってきている。とはいえ見た目だけでなく中身もまだまだ子どもだ。  あまりにも青くて甘い考えに、旭日はいらついた。 「それでまた悪い男に引っかかるんだろ」  少女は顔をあげた。 「ツキヤのこと悪く言わないで」 「あ、あんなこと言われてまだ目が覚めねぇのか!」 「ツキヤは優しい……優しかったよ。私のために泣いてくれたのツキヤしかいないもの。私だけは特別だから……泣いてくれたと思ったのに……」  ますます脱力してくる。あの男のどこが優しいというのだ。 「そんなもん、手練手管に決まってんだろ」 「……テレン?ってなに?」  頬杖をついていた手から顎が滑り落ちそうになった。 「女を落とすためのテクニックだよ!」 「違うもん、ツキヤは……違う」  蛍光灯の光に白く照らされたツキヤの顔は美しい人形のようだった。あの感情の薄そうな男が泣くところなど想像もできない。いや、そもそも淫乱だと思うくらいとっかえひっかえ女を抱いているというのが不自然にさえ思う。 「本当に……馬鹿か、親だって泣いてるだろ」  なんと言っていいのかわからなくなって型どおりの事しか言えなかった。自分でもこんな上っ面だけの言葉が慰めにもならないことはわかっている。 「親?親は自分のために泣いてるよ、こんな子になるはずじゃなかったって。自分達の思ったとおりの子にならなかったのが、可哀想だって。でもツキヤは違った。私が親の思ったとおりになれなくて苦しんでるのが可哀想だって、泣いてくれた」  少女はひたと旭日を見返した。  甘さも青さも、ふわふわも影をひそめて、その先にあるものを切り裂くような視線だ。 「お前、それ親に言えよ。本音だろ」 「言ったって、わかんないよ。もう十八年も一緒にいるんだもの。それくらいわかる。時々外国人、ううん……宇宙人としゃべってんじゃないかって思うくらい」  視線が心臓をかすめて、急に喉の渇きを覚えた。  旭日は一度天井を見上げ腕を伸ばしてテーブルの呼び出しボタンを押した。 「おい、なんでもいいから、好きなもん食え」 「え?」 「ちょっと早いけど昼飯だよ。昼飯。おごってやるからよ。俺これからバイトだからさっさと食えよ」  確か財布に六、七千円くらいはあったはずだ。いくら食ってもファミレスだ。そんなにはかからないだろう。 『やっぱり人がよすぎらぁ』 「これで味しめんじゃねぇぞ」 「わかってるよ……」  現金は渡さず電車の切符を買ってやった。改札を通るところまで見届けてバイトに行くつもりだった。  少女の顔はまだ暗い。  旭日はこれ以上言葉をかけるべきかどうか躊躇した。「親が心配してる」だの「大人になったらわかる」だのすりかえるような言葉は言いたくなかった。 「例えば、よ、親が……そうだなぁ、親に赤ん坊みたいに抱きしめられたい、とかあるか」 「急に、何?」 「いや、素直な話だよ」 「わかんない……今更って気もする」 「そうか」  多くの人は「今更」ではなく、「これから」だと言うだろう。 「それに、宇宙人に抱きしめられても私が思ってる意味と違うんじゃないかって気もする」  今までに、何があったか具体的なことは何一つわからないが、少女の口調には親の心子知らずではすまされないような不信感があった。ただ抱きしめれば伝わる。なんて旭日だって信じていない。抱きしめても問題ない関係なら、そもそもその必要はない。  心臓の傷口から少女の孤独が旭日の中に染込んできて混ざり合った。 「それだけ自分の気持ち言葉にできるなら大丈夫だと思うけど……宇宙人が宇宙語で喋ってきてもうろたえんな。私は地球人だって矜持は持てよ。でも虚勢は張るな」 「キョウジ?って?」 「……誇りってことだよ」 「キョセイは?」  旭日は再びがくっときた。 「あのなぁ、親が何言っても私は私だって思えってことだよ。でも誇りだけじゃ生きていけないから困ったら素直に人に相談しろってこと!そういう人見つけるのは……難しいのはわかるけど、とにかく甘えるんじゃなくて、相談のできる真っ当に信用できる人だぞ。ああぁ……説教くさいこと言いたくなかったのによ」 「お兄さんは?」  少女がくるんと上目を使った。 「馬鹿!ちょっと飯おごってやったくらいで信用すんじゃねぇよ」  自分でも逃げを打ったという感覚はあった。 「できるかなぁ、そういう風に」 「さぁな、変な男にひっかかってるようじゃダメだろうな」 「わかってるよっ」  礼も言わずにぷいっと前を向いて改札をくぐると、少女はすぐに人波に紛れて見えなくなった。

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