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 遅番のバイトが終わり、夜道を歩き始めるとすぐに駅前のレストランの灯りが見えた。時間が経って少女の顔立ちも記憶から薄らいでいたが、少女と喋った場所を見てオートメーションのようにツキヤの顔が浮かんだ。  ツキヤから荷物を引き取った日から四か月近くが過ぎた。  ツキヤは携帯を壊したことについてはまだ何も言ってこなかった。声も聞こえない。  少女に「変な男」とは言ったが本当に変な奴だ。最初はただ冷酷だと思っていたが、あの間抜け面を見た後ではなんだかよくわからなくなってきている。  その上で直截な問いかけをしてくる。  あれではどこまでが手練手管でどこからが天然なのか、あの少女に見極めろというのは無理な話だ。  こんな風にふとしたことでツキヤの顔を思い出しては、ツキヤと初めて会った、いや初めてツキヤを見た時からの事を逐一反芻してしまうのだ。あの時のツキヤの仕草や言葉の意味が何だったのか、無表情な顔の心のうちを考えこんでしまう。  おかげで少女がつけたかすり傷はいつまでたっても癒えなかった。その痛みともつかぬかすかな感触を意識するたびにツキヤのぼぉっとした感情の薄い顔を思い出す。そしてツキヤの顔を思い出すと張りかけたかさぶたが剥がれ落ちてしまう。ここのところずっとそうだ。  「野次馬根性ってやつかなぁ……」  ひとりごちてみたがどうもしっくりこない。それほどのぎらぎらした好奇心は無い。他の事を考えれば次の瞬間消えてしまうような淡い感情だ。  だがしつこく、不思議なことに不快ではない。  旭日にとってはスイッチが入ると自動的にツキヤが脳内に展開することよりも、こっちの方が謎だった。煩わしいほど気になるわけでもないし、もうすぐこの街を出る身だ。人も風景も遠ざかればスイッチも入らなくなり、傷は小さく固まっていくだろう。謎は謎のままでも人は生きていける。  今日はちょっとお値段高めの弁当が残っていてラッキーだった。帰り際にチンしてもらったので多少は温かいだろう。ちいさな楽しみを掌中で転がしながら廊下を歩いていると、行く手に女が立っているのが見えた。  ダウンコートは着ているが寒そうに身を縮こまらせている。いつから立っているのか顔には血の気が無かった。 『まさかな』  またツキヤに会いに来た女だろうか。ツキヤの事を考えるのが意外と面白いのは、おそらく距離を置いて他人事として見られるようになったからだろう。自分自身がドタバタ劇に巻き込まれるのはもうごめんだ。何があってもドアに鍵を掛けて耳栓をして無視してしまおう。  今度の女は三十過ぎくらいといったところか。先日の諍い女たちのようにキリキリととんがった感じはしない。ごく簡素な化粧に飾り気のない服装で、普通の家庭の主婦といった風だ。 『真面目そうだけどなぁ……』  恋愛にのめりこむようにも、一夜の遊びを求めるようにも見えない。  女の前を会釈しながら通ると、女もぺこりと頭を下げた。  弁当はまだ、ほんのり温みを保っていた。 「焼肉久しぶり」  今日はじっくり味わって食べよう。  半分くらい食べかけたところで、コンコンと窓を叩く音がした。窓の外にはツキヤが立っていた。ため息をつきながら箸を置いてアルミサッシを三分の一ほど開けた。 「なんだよ」 「俺の部屋の前に人いるんだ。帰るように言ってもらえない?」 「女だろ」 「うん」 「自業自得だ」  窓を閉めようとするとツキヤがサッシに手をかけた。いつものどこかかったるそうな動きからすると驚くような素早さだった。亀が急に立ち上がって走り出したようだ。 「頼むよ」  弁償を請求されなかったことは、どちらかというと借りではある。  それに金色のパンプスの女は「居留守を使うタイプじゃない」と言っていた。旭日もそう思う。居留守を使う奴なら鳴っている携帯を放っておくだろう。  騒ぎに巻き込まれるのはごめんだが、あれだけの修羅場に平然としていた男がこそこそと隠れなければならない女というのには多少興味がわかないこともない。淡い感情が明らな好奇心の色に染まった。 「言うだけだぞ」  食べかけの弁当を置いて、財布を手にして立ち上がった。  自販機から缶コーヒーを出してアパートに戻る。  三たび女の前を通るとき「そこの部屋の人なら、今日は帰ってきませんよ」と声をかけた。女は驚いて目を見張ったが、すぐに笑顔になった。 「そうですか。あの、お友達ですか?」 「あ、いや……」  さも親しげなことを言ってしまったので言葉につまる。 「まぁ、そうです」  苦々しいが、どうせまるっきり嘘なのだ。嘘に嘘を重ねて答えると驚いた事に女は深々と礼をした。 「ありがとうございます。あの子のことよろしくお願いしますね」 『身内か』 「あ、いや、こちらこそ」  こう丁寧に礼を言われると「実はとんだ迷惑ばかりかけられてます」とも言いにくい。 「それじゃあ、帰ります」  もう一度女は礼をして立ち去っていった。女の姿が見えなくなると旭日は自室のドアを開けた。  ツキヤは勝手に窓から上がりこみ、こたつに入ってうたたねをしていた。 「くぉらぁ!勝手に入ってんじゃねぇよ!」  旭日が怒鳴るとツキヤは半分目を開けた。 「帰った?」 「ああ」  返事を聞くとまたすぅっと目を閉じる。 「寝るな!」  コーヒーの缶で頭をこづくとようやく体を起こして欠伸をした。 「やっぱりこたつっていいね」 「先に礼言え」 「ああ、ありがとう」  気だるそうに礼を言ったツキヤはこたつの天板にあごを乗せて動かなくなった。 「帰れよ」 「もうちょっと……」  こたつに入ると出られない。誰でも陥りがちな罠だ。  旭日は苦虫をかみつぶしたような顔をして自らもこたつに入った。外はかなり冷え込んでいて五十メートルほど行って帰っただけでもう手先が冷たくなっている。こたつ布団をめくる時ちらっとツキヤの足が見えた。この寒いのに何故か素足で、すっかりこたつに身をもたせかけて足を伸ばしきっている。中はすっかり占領されていた。  旭日はむかむかしながら足に触れないように布団の中でヒーターに手をかざし指先を温めて箸を持ち直した。 「俺がこれ食ったら、出て行けよ」  食べかけの焼肉弁当を箸で差す。 「……ふぁい」  わかっているのかいないのか判別できないもやっとした返事だった。このまま寝込まれると面倒だ。旭日はツキヤに話しかけ続けた。 「あれ誰だ。お前の事よろしくって言われて、まいったぞ」 「母親」 「は、母親?」  ツキヤがいくら子どもっぽいところが残っていると言っても二十歳にはなっているだろう。 「若すぎる」 「義理」 「……だろうな」  ちょっと複雑そうだ。  旭日はだまって箸を動かした。弁当は冷え切ってしまっていた。 「なんで隠れるんだ」  寝てしまったのかと顔を見ると、まつげの作る影の間に薄っすら茶色い瞳が光っていた。 「会いたくないから」 「返事になってねぇ」 「……俺、家族苦手だから」  天板に乗せた細い顎をころんと転がしてから、ツキヤはつぶやいた。 「ま、義理ならな、しょうがねぇよな」 「ううん、家族っていうのが、苦手」  外の冷気が忍び込んできてじんわりと二人の上に降り積もる。足だけがほかほかと温かい。 「苦手なら、仕方ねぇ」  弁当を食べ終わった旭日はすっかりぬるくなったコーヒーのプルタブを開けた。 「……そう?」 「ああ」  ツキヤがこたつから出る気配はない。旭日は黙って弁当がらを台所のゴミ箱に捨てに立った。  ゴミを捨て、箸を洗って振り返ると、ツキヤが飲みかけのコーヒーに口をつけていた。 「勝手に人のコーヒー飲むな!」 「だめ?」 「だめに決まってんだろ。もういい、やるから持って帰れ」 「……もうちょっと」 「食べ終わるまでっつっただろうが」 「……はぁい」  のろのろと頭をあげて畳に手をつき、ずるっとこたつから足を引き抜いた。亀かと思ったがイグアナだ。  ツキヤは立ち上がってコーヒー缶をつまみあげた。 「ありがと」  ふらり、ふらりと揺れながらツキヤは硝子戸の向こうへ消えて行った。  旭日は見送りもしなかった。鉄のドアが重たい音を立てて閉まった。その音でさらに部屋の温度が下がったような気がした。

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