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幼い頃、母親に手を引かれて訪れた料亭で、母が誰かに詰 られている場面を遥人は目にしていた。
すぐに庭へと出されてしまったが、あの時母が話していたのはきっと祖父なのだろう。
そして、そんな遥人と遊んでくれた玲が木から落ちてしまい、救急車で運ばれた後、激しい怒号を浴びせられている母の姿も、幼い遥人は目にしていた。
遥人のことを庇うように前へと立った母親は、最終的には土下座までして何度も謝罪していたのに……そんな、衝撃的な出来事までもを遥人はこれまで忘れていた。
人間、あまりにショックな事が起こると、自分自身を守るため、記憶から消してしまうのだという記述を本で読んだ気がするが、それが遥人に当てはまるのかは分からない。
「俺がいるから母さんは苦しんでた。俺がいなければ……」
母は、そんなそぶりは見せなかったし、恨み言など聞いたこともなかった。
けれど、昼夜休み無く働いていた母が突然この世を去った時、こんなことになったのは……自分のせいだと遥人は思った。
「俺は、ずっと消えたかった。でも……できなかった。理由が欲しかった。消える理由が……誰かのせいにしたかったんだ」
母亡き後、頼って訪れた祖父のもとで、必要の無い……むしろ、邪魔な存在だと告げられてから、遥人の中で虚無感だけが日に日に大きくなっていった。
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