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10.その命、真紅につき

壁も床も白い。ここは病院だ。 昨年大々的に改築したばかりの病棟はシミひとつない綺麗なものだ。 全て塗って覆い隠してしまったのだろうか。俺がガキの頃はもっと汚くて古い建物だった。 ―――『橘 陸斗が病院へ運ばれた』と聞いたのは今朝のこと。 自宅での事故で……と濁して電話してきたのはほとんど初めて聞く彼の母親の声だったらしい。 ……気がついたら、病院のこの病室。その母親という女性の前にいた。 初対面って事はないはずだ。それなのに本当に印象の薄い女だった。 普通の顔に普通の薄化粧を施し、普通の姿をした中年女。 特に特段美人なわけでも、逆に醜い訳でもない。特徴の挙げにくい、強いて上げるとすれば『普通』な。そんな彼女は、今まで連絡つかなかった事を詫びる訳でも言い訳することもなく淡々と頭を下げて何事か言った。 恐らく何かの挨拶めいたことだったのだろう。 申し訳ないが、俺の頭には何も入ってこず残りはしなかった。 んで、気がついたらこの箱みたいな病室。白くてつつるつるとした床は硬い。 そこでパイプ作りの寝心地悪そうなベッドに沈み込むように眠る男と二人。 「馬鹿野郎」 俺は毒づく。当然返事なんか返ってこない。返って来てたまるか。 「ばーか」 ……こいつさ。家庭内での事故だって。 手首掻っ切って水張った浴槽に突っ込んで、おまけに大量の睡眠導入剤飲み込んでいたってな。 つまりODとリストカットによる自殺未遂。 しかも初めてじゃないのは、白い手首に刻まれた大小様々な長さの線が物語っていたらしい。 常習的なリストカット。だから長袖脱がないし、体操服にも着替えられなかった。 セックスの時に頑なに服を脱がないのも。青白い顔で、遅刻無断欠席繰り返すのも。 こいつ、病んでたんだな。 「馬鹿野郎。バカ。アホ。変態。絶倫野郎。ヤリチン。早漏……」 「いやいやいや、言い過ぎでしょ」 布団がモゾモゾ動いて、点滴が繋がれた腕がシーツを彷徨った。 「起きてたのか」 「起きてましたよ」 ま、知ってたけど。狸寝入りなんてせこい真似しやがって。 「先生。来てくれたの」 「馬鹿。俺、担任な」 知ってた? 皮肉を投げつけると薄く笑って受け止められた。 思わず舌打ちしたら、橘はため息をつく。 ……ため息つきたいのはこっちだ、アホガキ。 「先生。ごめん」 「あ? 何がごめんだって。……俺の仕事増やしたことか。その腕のこと隠してたってことか。それとも」 「先生」 目を伏せるクソガキの言葉に被せるように言いつのる。 「俺を死ぬほど悩ませて心配させた事か」 「え」 間抜け面で固まる男をいい気味だと思った。 ……大人を舐め腐って。何が立場の違いだ。俺の方が大人だぜ。十年以上人生の先輩だっつーの。 「先生、心配してくれたの?」 「当たり前だろ、馬鹿」 「悩んでくれたの? オレのために」 「だったらなんだよ、アホガキ」 「先生がめっちゃ罵倒してくる……」 若干恨めしそうに言って身体を起こそうとする、生意気な生徒を俺は制する。 起き上がって傷口からまた出血したらどうすんだ。胃洗浄はもう済んでるみたいだけど、顔色真っ白通り越して青いじゃないか。 「……あのな先生」 その語り掛けで、ぽつりぽつりと彼は話し始めた。 橘 陸斗の両親は彼が物心着く頃には、既に夫婦関係破綻していたらしい。 幼い彼はそれについて疑問を持ったのは中学入った時の、まさに思春期真っ盛りである。 それでもその頃は父親だけが外に女を作ってろくに家に帰らない、と理解していた。しかし、母親もまた長いこと不倫をしていたと知ったのはここ数ヶ月のこと。 どこか心の拠り所であった母親は、息子に知られたと悟った否や不倫相手の家に入り浸るようになった。 経済力だけは豊富にあった両親は、まさに金だけ置いて息子から逃げたのだ。 彼が大人たちに絶望し、見限るのは仕方のないことだったのだろう。 「……いつからか。どうしても苦しくなった時に、ここに傷を付けると少しだけ楽になったんだ」 彼は傷だらけの左腕を指先で力なく撫でた。 「それでも、どうしようもなく消えてしまいたくなって。じゃあもう死んじゃおうって思ったのが3ヶ月前でさ……そうなったら、やってみたい事やってやろうって」 「やってみたいこと?」 「髪も染めて。ピアスもして。あと」 そこで一旦言葉を区切る。 「……恋が、したかった。あと童貞卒業」 「はぁ?」 突然何言ってんだこいつ。いやまぁ言葉の意味は分かるけども。話の方向性が分からないぞ! それでもその顔は大真面目だ。 「オレ、恋もしたことないし。こういうのって初めては好きな子としたいじゃん……」 「ま、まぁな」 そういうもの、だっけか。 あんまり昔過ぎて忘れたな……うん、でもさ。 「橘、それ。お前が俺のこと好きみたいじゃないかよ」 「うん、好きだけど?」 「はぁぁ!?」 ここは病院。でも思わず声をあげちまって、慌てて自分の口を塞ぎ声を潜める。 「いやいやいや! 意味わかんねぇよ!? まさかお前が俺の事……」 「うん、好き。愛してる。多分一目惚れ」 「えぇぇぇ……」 お前やっぱりゲイなの? とか初恋がアラサーの男とかヤバいだろ、とか。よしんばそうでも、好きな人をストーカーして脅してレイプすんなよ。とか。 清純派なのか鬼畜なのかどっちなんだとか。 ……もうツッコミが追いつかねぇよ。 若い子ってそういうもんなのか? いやいや俺もまだまだ若いけど分からない。 「でさ。好きな人の事って色々知りたくなっちゃうじゃん」 「うんうん。でも、それストーカーって言うんだけどな」 「え。ダメなの?」 「……」 倫理観ぶっ壊れてんじゃねーの? この子。 うっとりと自分の世界に浸ってんじゃないよ。あと目が怖い。 「……そしたらブスと付き合っててムカついた」 「言い方!」 女教師に向かってブスってなんだよ。失礼なガキだな。 それに彼女はブスじゃねーよ。派手じゃないけど、それなりに俺のタイプの範疇だっつの。 「まぁ不倫、だったしな……」 「それは関係ない。ただ先生はオレのだもん」 「なんじゃそりゃ」 もん、はやめろ。あと俺はお前のモノじゃない! ……なんて口を挟む気にもなれなかった。 「身体だけでも良かったんだ。そしたら笑って死ねるかなって……1ヶ月だけ」 橘は何かを堪えるように目を瞑った。 「なるほど。それで『余命1ヶ月』か」 持病も心臓じゃなくて『心』の病気。余命も自分で定めた自殺までのタイムリミット、な。 「橘。お前……馬鹿だろ」 たっぷり時間を掛けて言った言葉に、彼は閉じてた目を開いて頷いた。 「このバカガキめ。そんなことして、誰が幸せになったよ。お前か? 俺か?」 「……誰も」 「そうだな」 年齢通り、それよりずっと幼く見える彼の瞳は傷付きまくった子供のそれだ。 見つめればなんだな堪らない気分になるから、少し視線を逸らす。 「先生、丹羽の事好きになっちゃったし」 「はぁぁ!? ……っ、な、なんでそうなるんだよっ」 俺は確かにハグもしてもらってたし、相談もしてた。でもそこに恋愛感情はないぜ。 断言できる。俺にはない。 彼にだって無いはずだ。だって……まぁそこは蛇足だし個人情報だからやめとこう。 とにかくあの人は天然というか、何考えてるかイマイチ分かんないけど単なる良い人だ。 そこにこいつの思う感情のやり取りも機微もない! ……それを丁寧にしつこく説明してやって、ようやく彼は暗い色の瞳にほんの僅かな光を映し始める。 「ほんと?」 「俺のストーカーなら、そんくらい把握しとけっての。馬鹿!」 俺は彼が何か言う前に、軽くデコピンかました。 「痛てぇっ! 先生、ひでぇよ……オレ、怪我人なのに」 「バーカ。自業自得だろうが。ほんと馬鹿だな。お前ってさ」 この馬鹿でアホで自分勝手でイカれてるクソガキに……嗚呼、くそっ。なんでかなぁ。 「もうこんな事すんなよ……り、陸斗」 「先生」 縋るような目で見やがって。 迷子になった子供みたいじゃないか。歪んで、苦しんで自分を傷付けて……でもその傷は、痛みはこいつを本当の意味でこいつを救ってくれたか。 違うだろ? こんな目をしたこいつ、だれが。 「頼むよ。死ぬな」 ……俺の口から柄にもない言葉が零れて止まらない。 「切るな、なんて言わない。だからもう死ぬとか止めろ。いくらでも抱かせてやるし、恋だってさせてやるからさぁ。お前が望むまでずっと一緒にいてやる。いや、居ようぜ」 ……俺は何を言っているんだ? 元々自殺とか自傷行為とか『勝手にやれよ。止めねぇよ』のスタンスだったじゃねーか。 止める奴を『綺麗事ぬかしやがって。エゴ押し付けてんじゃないの』って否定的だったはずだ。 なのに何故だ。 今の俺は思い切り彼の近くで、『死ぬな』とか言ってる。おかしいだろ。なんでこんなにこいつが傷付くのが怖いんだよ。 「先生?」 「なぁ、陸斗。俺の事、好きか? まだ」 おいおいおいおいっ、何言おうとしてんだ。まったく俺の嫌いなタイプの女みたいじゃないか! 感情的で相手にすがりつくタイプの鬱陶しいやつ。 今の俺がそれだ。嗚呼、気色悪い。やめてくれよ。 でも止まらない。言葉が、感情が止まらないんだ。 「先生」 ベッドの上の彼が、陸斗が白くてやたら青い血管の浮いた腕を伸ばす。 それをしっかりと握りしめる俺。 「好き。あんたのこと……愛してる」 「そうか」 彼の絞り出すような声には、涙が滲んでいたと思う。 苦しげに泣きそうに歪んだ顔は、いつしか見た気がする。 こうして見れば、今の方がよっぽど余命1ヶ月っぽいな……なんて薄情な事を考える俺と。 その痛々しさすら愛しいなんて思うイカれた俺が同時に存在してやがる。 俺もついに病んじゃったんだろうか。 こんな下らない恋愛ドラマみたいな……。 少し灰色がかった瞳はやっぱり綺麗なんだ。 吸い込まれるように顔を近付ける。 「本当にいいの? オレ、メンヘラだよ」 「知ってる。あとストーカーだしな」 「結構その……妬いちゃうタイプだし」 「知ってる。あー、暴走しそうだな」 こいつのムカつく所は嫌ってほど知ってる。 「今度は好きなところ、増やしていけるよな」 ポジティブに考えたらそうだ。 そう思わないと、こんな頭おかしい事出来ない。 ……自分を脅してレイプしてた男を恋人にするんだぜ? しかも生徒で10歳ほど年下。 頭おかし過ぎてクラクラするなぁ。 「ありがとう……優希。オレのモノになってくれて」 「ははっ、じゃあお前も俺のモノな」 俺だって。それなりにあるんだぜ、執着心。 ―――ベッドの枕元に軽く手をついて、ゆっくり距離を詰める。 「ぅん……」 「ん」 啄むようなキス。リップ音すら鳴らないそれは、まさにガキのするやつだ。 まぁ良いだろう? 俺の恋人はガキなんだから。 「愛してる」 「知ってる」 俺たちはこの白くて四角い部屋で、小さく笑った。

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