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第23話 涙
深い、甘やかでスパイシーな薫りが鼻をかすめた。濃厚で脳髄まで蕩けるような薫りは、心地好く、スゥエンを包み込む。花のような獣のような------。軽い目眩のなかで、そっ---と目を開けると、枕元にオルテガの姿があった。
「起きられるか?」
大きな掌が頬に触れ、髪を撫でた。遠慮がちに唇を寄せてきて、啄むように口づける。
「はい---。」
なんとか半身を起こすと、その背に逞しい腕が回され、胸元に抱き取られる。いつものスゥエンならば、勢いよく突飛ばしているところだが、身体に力が入らない。ひどく気怠いのは、この薫りのせいだろうか---。
「すまんな、手加減はしたつもりなのだが---。」
一方の手でわしゃわしゃと頭を掻く。金色の髪が陽光を乱反射して、眩しい。
「殿下に、お伺いしたいことがあります---。」
「お茶にしよう。」
深い緑色が自分をじっとを見上げ、薄紅の言いかけるのを遮って、オルテガは、スゥエンを抱き上げた。庭に面したテラスの、ビロードの寝椅子にスゥエンを横たえ、傍らのスツールに腰を降ろした。
侍女達が、銀の盆にティーセットと焼きたてのタルトを乗せて、控えている。
「少しでも、口に入れないとな。」
目配せに頷いて、侍女達はお茶の支度を猫足の大理石の卓に並べ、室内へ戻った。
スゥエンは、覚束ない手でカップを取り、一口、唇を湿らせて、切り出した。
「殿下は、私がΩであることをご存知だったのですか?」
「うむ。」
オルテガは、タルトを一切れ、スゥエンの手元の皿に乗せた。透き通った蜜がとろりと梨の狭間から零れ、白い指先に垂れた。スゥエンはすかさず舐めとり、オルテガをじっと見た。
「いつから----なのですか?」
「ナヴィアを訪問した時だ。------微かだが、あの花の香りがした。」
オルテガは、目線で庭先を示した。そこにはあのガーデニアの庭園が広がっていた。スゥエンは忌々しそうに眉をひそめた。
「以前に、こちらの宮殿にお伺いした折りには、私の精進を褒めてくださいました。」
スゥエンは哀しさが込み上げてくるのを押さえきれなかった。
「何故なのですか?----何故、私を妻に、などご無体なことを---。」
「無体では、ない。」
オルテガは、スゥエンの頬を伝う滴を指先で拭った。
「ワシは以前からお前を娶るつもりだった。以前に、招待した折りには、まだその時ではなかった。それだけだ。」
「しかし---。」
無理に身体を起こそうとするスゥエンを止め、肩を寄せるように抱きかかえた。
「スゥエン、私は女を娶るわけではない。
Ωであるお前を娶るのだ。わかるか?」
「分かりません---。私は男なのに---。」
「いずれ解る。お前の国と民が大切なら、ワシに従え。ワシは、お前とお前の子が欲しい。」
「何ゆえ----でございますか?」
「お前がナヴィアのΩであり、スゥエン-ラドリックだからだ。」
オルテガは、スゥエンの頬を両手で包み、その目をじっと見据えた。
「お前はΩに生まれた。ならば、Ωに生まれた自分にできることを考えよ。」
「Ωに生まれたオレにできること---。」
会話は、そこまでだった。二人は、二杯のお茶と二切れのタルトを黙って腹に収め、身体が冷えるーと言われて、スゥエンはまた室内へ運ばれた。
スゥエンをベッドに横たえ、立ち去ろうとするオルテガの背中に、スゥエンはあの事を問うた。
「私の荷物は、薬は何処ですか---?」
「ここでは、必要ない。」
オルテガは振り向きもせず、短く言って立ち去った。閉ざされた扉に向かって、スゥエンの瞳は、また一筋、涙を零した。
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