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「うわぁ。和城くん、そのアザ。朝よりひどくなってるよ」
更衣室を出た直後、入れ違いにバックヤードへ戻ってきた同僚の新谷目まいが、千彰の顔を見るなり細い眉を吊り上げた。
「ああ、そう?」
昨夜史晴に思い切り殴られたところは、頬骨の上あたりにくっきりとしたアザをのこしている。痛みはもうそれほどでもないが、濃く残った指の骨の痕がいかにも〝殴られました〟と主張していて、見るからに物騒だ。
マネージャーの神原から、『和城くん、今日はお客様の前に出ないでね』と釘を刺され、千彰は一日裏方に徹していた。神原の指示はもっともだろう。自分が客でも、せっかくの高級ホテルでの滞在中に、スタッフの私生活での修羅場など垣間見たくはない。
「いい歳して兄弟と殴り合いのケンカとかねえ。むしろ、ケンカするほど仲良い、ってこと?」
「はは。さあね」
少なくとも、むこうは俺のこと〝大好き〟ってわけじゃないみたい――まいが女子更衣室から探し出してきた湿布を頬に貼ってもらいながら千彰は笑う。
「ありがとう。じゃ、また明日」
「あ、待って」
薬くさいフィルムをまいの手から受け取って歩き出すと、不意に呼び止められた。
「なに」
「これから楓とカラオケでもいこうって話してるんだけど、和城くんもどうかなって。お兄さん、和城くんと一緒に住んでるんでしょ? 帰るの……ちょっと気まずくないかな」
時刻はまだ夜の7時だ。おなじく同僚の酒勾楓とこれから待ち合わせているのだというまいの話に、千彰はそろそろ家路につくころであろう史晴の顔を思い浮かべた。
今朝は千彰のほうが早く家を出たから、顔を合わせるのは昨日の夜以来になる。
昨夜――精神的にも物理的にも――完膚なきまでに叩きのめされた記憶と感触が、撲たれた頬に蘇る。じくじくと疼くアザを千彰の手が無意識に擦った。
「和城くん?」
期待のこもった上目遣いの視線に当たり障りのない笑顔を送って、千彰はブルゾンのポケットからスマホを取り出した。
電源を点け、時間を確認する――フリをする。
「お誘い、ありがたいけど、これから約束あるんだよね」
「あ……そうなんだ。もしかして――」
「彼女じゃないよ。残念だけど。また今度誘って」
まいの曇り顔がぱあ、と晴れた。近々また誘われるかもしれない。そのときはおそらく〝ふたりきりで〟、というヤツだろう。
面倒だな――いまから断りのセリフを考えながら、近所のカラオケ店までまいを送った。
店の前でまいと別れ、すぐそばにあるファミレスへ向かう。
家族連れや仕事帰りの会社員などで賑わう店の一番奥の席に、つい最近見たばかりの好青年面がある。スーツ姿のその男は、入り口に立ち止まった千彰の姿を目ざとく見つけ、軽く手を上げた。
「よう。おつかれ」
レジ前の客に慌ただしく礼をしてこちらへ寄ってくるウェイターに、連れがいるからと目で合図して、千彰は男へ近づいた。
「悪い、祐司。待たせた」
「おいおい。その顔どうした?」
スーツの男――茂木祐司が、千彰の頬の湿布を見てぎょっと目を剥く。詳しいことは説明せず、千彰は曖昧に肩をすくめた。
「転んだ」
祐司の向かいに腰掛けると、さっそくアイスコーヒーを注文する。
ここで祐司とゆっくり語り合うつもりはない。熱いコーヒーが冷めるのを待つのも、いまの千彰には面倒だ。
「悪かったな、こんな時間に呼び出して。――これ。いつもの」
そう前置いて、千彰はバッグから薄い茶封筒を取り出す。手渡されて中身をたしかめた祐司が困ったように、だがどうにも喜びを隠せないといったように、にやりと口元をゆるませた。
「いつもより多くないか」
「いままで世話になった礼だよ」
「なんだよ。じゃあ、アレももう終わりってこと?」
「ああ、もういい。ありがとな、色々」
「そっかあ」
祐司はうん、と大きく伸びをする。すっかり冷めているのだろう自分のコーヒーに口をつけると、もう一度、今度は盗み見るような視線を封筒に落とした。
「つってもさ、まさか自分のハメ撮りでダチから金もらうことになるとはな。ずいぶん稼がせてもらったし、毎回データも返してもらってるから別にいいんだけどさ」
封筒の中には千彰が用意した現金と、昨夜のメモリーカードが入っている。
メモリーカードは、部屋を出ようとする千彰の背中に史晴が投げつけてきた。
『忘れてるぞ』
人を思い切り殴っておいて、約束――〝使用済みのデータは千彰に返すこと〟――はきっちり守る。そんな史晴の律儀さを思い出して、千彰は内心舌打ちでもしたいような気分だった。
「いつもどおり、そっちで処分しといて。コピーはとってないし、ネットにも上げてないから」
「わかってるって。おまえを信用してなけりゃ、彼女の真っ裸なんて他人に見せるかよ」
「ユリちゃん、気づいてないよな?」
婚約者が自分とのセックス動画を友人に流している――そんなことが知れたら、いかに温厚な女性でも黙ってはいないだろう。ことによると盗撮どころの騒ぎではなくなる。
「全然。……あ、こないだ花に水やろうとしててちょっと焦ったけど、うまく誤魔化しといた」
「よかった。悪いけど、あのカメラも捨てといて。使いたければそっちで使ってもいいよ。俺はもういらないから」
「……なあ、千彰」
突然真面目な顔になった祐司が、声を落として身を乗り出した。
「ん?」
「コレが終わったってことはさ」
手元の封筒を指先でとん、と叩く。
「史晴さん、俺のこともう諦めたのかな?」
途端に渋面をつくる千彰に、祐司は慌てた様子で手を振る。
「いや、いいたくないなら別にいいんだけど。俺も、あの人の趣味のこととやかくいうつもりないし。ただ、ほら、史晴さんって昔から、なに考えてるかよくわかんないところあるじゃん。こないだ会ったときだって――」
「このあいだ? 祐司。会ったのか、兄貴に」
そんな話聞いていない。
史晴のことだ、自分をからかう千彰に、わざわざネタにされるようなことをいいたくなかっただけなのかもしれないが、それにしてもそんな素振りはまったくなかった。
史晴の些細な変化でも、千彰は見逃さない自信がある。ここのところ、史晴が気の良い素振りを見せたのは、昨夜の映像を手に入れた瞬間だけだった。
「ああ、うん。おまえん家の近くでばったり。ばっちり目が合ったから無視するわけにもいかなくて、挨拶だけ」
「兄貴、なにかいってた?」
「いや、それが……」
おかしいんだよ、と祐司は首を捻る。
「こういうことするようになって、はじめて会うからさあ。お互いに――つっても、むこうは俺が〝知ってる〟ってこと知らないんだけど――こう、なんか気まずくなるかもって思うじゃん。でも、そんなんまったくなかったんだよなあ」
「どういうこと」
だからさあ、と唸り声を上げた祐司も、うまく言葉にできないらしい。短い髪を節の高い指でがしがしと掻き毟る。
「なんていうかな。ほら、冷たい……ちがうな、ちゃんと挨拶はするんだけど、どっか他人行儀っていうか。目の前にいるのに、全然視界に入ってない感じ? なんならもう、〝どうでもいい〟ってのが顔に出てるみたいな」
「そんなこと――」
――ないだろ。
史晴に限ってそんなことはありえない。
なんといっても相手はあの祐司だ。
史晴が小学生のころから好きで、盗撮してまで近況を把握しておきたい相手だ。
婚約者がいると知っているいまでもオカズにできるほど執着している男に、あの恋愛ごとにはいやに素直な史晴が、そう簡単に無関心を装えるわけがない。
祐司の勘違いか、そうでなければ史晴の無関心を装う演技がよほど堂に入っていたかのどちらかだろう。
そういうと、祐司は納得がいかないというようにまた首を捻った。
「そもそもさ。あの人……本当に俺のこと好きなのかな?」
金は結婚資金にでもしろよというと、祐司は笑って、ユリが着たいドレスがあるっていってから助かると答えた。
祐司と別れ、人混みもまばらな住宅街を千彰はアパートに向かって歩く。
史晴はそろそろ部屋に着いたころだろう。
コンビニでも寄るか――史晴が食べても食べなくてもどちらでもいいように、冷凍の惣菜でも買っていこう――ぐちゃぐちゃした頭の中を整理する気力もないまま千彰が歩いていると、
「おい」
角を曲がったところで突然胸ぐらを掴まれ、思い切り頬を殴られた。
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