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「い」
――なんなんだよ昨夜 から!
「……ってぇな!」
昨夜から発散する場所を探していた怒りが、ここぞとばかりに目の前の暴漢にむかって爆発した。
すかさず飛んでくる2発目をなんとか避けて、倒れ込んできた暴漢の襟首を掴む。
掴んだ首を乱暴に引き上げ、外灯の下に引きずり込む。と、あらわれた顔に見覚えがあって、千彰は立ち止まった。
「アンタ……コウさん?」
千彰とあまり変わらない背格好に、千彰とはちがう綺麗に整えられた髭面。
男らしい派手な造りの顔は、胸に覚えた微かな苛立ちとともに、脳裏にしっかりと刻まれている。
「何してんすか。俺、和城の弟ですけど」
「知ってるよ」
史晴のセフレ――コウは襟に絡みつく千彰の手を振り払い、はだけた胸元を直した。
「へえ。じゃあ、遠慮はいらないわけだ」
千彰を史晴の弟と知って襲ったということだ。
不意討ちかますくらいなら、やり返されても文句はないだろうと、視線に意味を含ませる。
「わかってんの、アンタ。これ犯罪だよ」
「うるさいっ」
ヒステリックに叫ぶ男の声に耳を塞いで考えたところで、ようやく襲われた理由に合点がいった。
コウの怒りの原因は、昨夜の誘いを史晴が断ったことだろう。
会うのは久しぶりだといっていた。
コウは史晴が祐司を好きなことも、弟である千彰がそれに協力していることも知っている。自分と史晴との関係を一番邪魔しているのが千彰だと気づけば、逆恨みがあってもおかしくない。
だが、黙って殴られてやる義理も負い目も、千彰にはない。
「あのさあ」
昨夜から溜まりっぱなしで発散する場所のなかった鬱憤を、ここで晴らしてやろうと思った。
「兄貴がアンタを好きにならないのは、俺のせいじゃないと思うけど」
職業柄、丁寧に整えていた髪をわざと乱暴に掻き乱す。
「あの人はセフレとしてのアンタを気に入ってたよ。詮索はしない。連絡しなくても文句いわない。身体の相性はしらないけど……まあ、あの男好きが長く続くだけあって、そこそこよかったんでしょ。それがこんな、みっともなく縋りついちゃってさ。兄貴は気づいてたのかもね。アンタが本当はどこにでもいるような面倒くさいヤツだってことをさ。なにが理想的なセフレの姿かなんて、まっとうに生きてる俺なんかには到底わかんないけど」
「まっとう?」
ハッ、とコウが鼻で笑った。
「まったく、どの口が? この薄汚い犯罪者!」
「俺が? ……ああ」
盗撮のことだろう、と千彰は思った。祐司本人の了承があったことは千彰しか知らないのだから、コウの言い分にも一理ある。
「別に。訴えるならお好きにどうぞ。いっとくけど証拠なんてどこにもないから、万が一にもアンタに勝ち目はないけど。そもそもアンタ、当事者でもないしね」
千彰の言葉にコウが眉をひそめる。
「当事者ならフミがいるでしょ。フミが訴えれば、いくら実の弟だってタダじゃすまないよ」
フミ、と気安く呼ばれたことに苛立ちを覚えながら、それよりもコウの話のほうが気になった。
「コウさん。アンタ、一体なんの話してんの」
訊かれて、コウが怪訝な顔をした。
「なにって……フミをレイプしたことでしょ」
レイプ?
「それ、誰に聞いた?」
昨日の今日だぞと、今朝の史晴を思い出してみる。
誰かに相談しているような素振りはなかった。たしかにいつもよりさらに素っ気ない態度ではあったが、とくに腹を立てたり、ショックを受けている様子もなかった。
そもそも、いくら誰にも相談できないとはいえ、あの史晴が実の弟に襲われたことをセフレであるコウに漏らすだろうか。
ここ最近のコウの変化を知っている史晴なら、彼がこうやって千彰のもとへ乗り込んでくることも想像できたはずだ。
それだけ慎重に遊ぶ相手を選んできたはず。
ありえないと思いつつも、潤んだ瞳でこちらを見上げる史晴の姿がちらついて落ち着かない。
「聞かなくてもわかる。フミ変わっちゃった。手つきも、態度も。前はあんなに激しく愛してくれたのに、少しずつ……あんたと一緒に暮らすようになってから」
目尻に溜まった涙を拭って、コウは訴える。
「ちょっと待ってよ。そういうの……いまは聞きたくないんだけど」
今といわず、一生耳に入れたくない。
耐えきれず踵を返した千彰の肩をコウが掴む。
「聞けよ! ……あんたのせいなんでしょ?」
「は?」
――なんだよ、それ。
どういうこと、と千彰が眉を跳ね上げると、肩にかかる指に力がこもった。
「最初はちょっと好みが変わったのかな、ってくらいだった。それがだんだん触っても反応しなくなって、そのうち途中で帰っちゃうこととかあって……みんなに聞いてみたら、最近のフミ、なんか、ヤら……抱かれたがってる、みたいな感じだって。誰とヤッててもそんな顔してるって」
「おい――やめろ。聞きたくないって」
「あんたがフミに何かしたんでしょ? 弱みにつけこんで、あの子に変なクセつけたんでしょ! あの子が言うこときく相手なんか、あのユウジって男以外にあんた以外いないんだから!」
「やめ……」
あんたのせいだ、と繰り返しコウは喚く。
〝アキ〟――組み敷いた史晴の、潤んだ瞳が千彰を見上げる。
史晴が、男に抱かれたがってる?
――俺だけじゃなかった?
誰でもよかったのか?
抱いてくれれば。
満たしてくれれば、誰でも。
「フミがどれだけ僕たちを夢中にさせてたかわかる? みんないってる。あんなの、僕たちが知ってるフミじゃない! あんな――女みたいに啼いて、〝苛めてほしい〟なんて……あんな、」
目の前でコウが膝から崩れ落ちた。
自分の拳が男の腹にめり込んだのだと気づいたときには、千彰は地面に這いつくばったコウの襟首を掴んで引き起こそうとしていた。
重い。
いま自分が〝男〟を取り合ってる相手は、正真正銘〝男〟なのだと、まざまざと見せつけられる。
情けなさと、後に引けない意地と、どうにもならない欲望で頭がぐちゃぐちゃになる。
「立て」
「いやだっ……」
「立てよ!」
逃げようと這いつくばる腹に靴の爪先を突き立てる。
咳き込む声とともに、吐瀉物が地面に散らばる気配がした。
「〝女みたい〟? てめぇらに史晴のなにがわかんだ? あ? たかが便器のくせして、アイツのなにがわかるってんだよ!」
周囲にはぱらぱらと人だかりができている。すぐ傍のコンビニから出てきた若いOLがきゃあ、と悲鳴を上げた。
誰かが「警察をよべ」と叫んでいる。
「てめぇらと俺と、なにがちがうってんだ」
息苦しさに喘ぐ間に、じりじりとコウとの距離を詰めていく。
怯えた顔がもうすぐそこだ。
「おなじ男だろ? なあ。なんで俺じゃダメなんだよ……答えろよ!」
「ひっ」
振り上げた拳を見て、コウが固く目を瞑った。
骨と骨がぶつかる寸前、千彰のコートの腕を誰かが掴む。
「アキ!」
振り返ると、青ざめた顔の史晴がいた。
しっかりと千彰の腕をとり、コウから引き剥がそうとする。
「おまえ……なにやってるんだ! ケガは!」
そういうと、史晴は千彰の身体にひとしきり目を走らせた。頬以外に目立った傷がないのをたしかめてホッと肩の力を抜く。
「よかった」
――よくはねえだろ、と千彰は声に出さずにツッコんで、史晴がコウよりも先に自分の心配をしたことに不思議なほど怒りが萎んでいくのを感じた。
コウは地面に転がったまま啜り泣きを続けている。
途端に胸が痛んで、千彰は手を差し伸べる。
「コウさん……あの」
「触らないでっ」
怒鳴られて千彰は立ち尽くす。どうしようもなくなった手をさまよわせていると、史晴が千彰をコウから引き離した。
「いいから」
史晴は跪いてコウの肩を抱き、耳元で優しく話しかける。
スーツのポケットからハンカチを取り出すと、汚れた顔を拭った。
ようやくコウが落ち着いたのを見計らって、すっと立ち上がる。
ピンと伸びた背中が、雑多な人の群れのなかにあって、異様なほど美しく映えた。
「すみません。身内のケンカです」
お騒がせして申し訳ありません――振り返った史晴が野次馬にむかって頭を下げると、ざわめきは少しずつ収まっていく。
人騒がせな、と渋い顔をする人、もっと派手な立ち回りを期待してスマホを片手にかまえていた人々が、ひとり、またひとりとその場をあとにする。
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