8 / 13
8
「帰るぞ」
外灯の光を避けるように歩き出した史晴の背中を、千彰は後ろを振り返りながら追った。
「おい、コウさん……あの人どうすんの」
ケガをさせておいて「どうする」もなにもないのだろうが、足早に先を行く史晴の背中はどんどん小さくなっていく。千彰はついていくしかない。
「兄貴」
「大丈夫だ。歩けないわけじゃないみたいだし、病院には行くようにいった。治療費と訴えられたときの責任は、俺がもつ」
「は!? なに勝手なことしてんだよ! やったの俺だぞ!」
こそこそと話していたのは、そういうことだったのか。
あれほどのケガを負っていながら、コウは史晴の一言であっさりと身を引いた。
本当に、それだけなのか――?
あの執着ぶりをみて、それだけでコウの気持ちがおさまるとは思いにくい。
やっぱり、もう一度話をと、引き返そうとする千彰を史晴が引き止めた。
「もういい」
「いいって……」
「原因は俺だ。俺に責任がある」
コウが激昂した理由は自分の性癖が理由なのだと、そう言外にいわれたような気がする。
「っ、だとしても!」
ふたたび歩き出した史晴の肩を掴んで引き止める。
「俺が、殴りたいから殴った」
史晴を渡したくなくて、殴った。
自分が本当は史晴をどう見ていたのかも。
「わかるだろ」
わかっているはずだ。
わかってくれという想いを、見つめる瞳に乗せた。
「……話は部屋で聞く」
部屋の前に着き鍵を開けると、史晴はドアを開けて千彰へ場所を空けた。
険しい視線が「入れ」と促してくる。千彰はしかたなく暗い部屋へ入る。
冷たい部屋の空気が足元に溜まってひんやりとする。靴を脱いで電気を点けると、史晴がドアを閉めた。
「明日中に、ここを出て行く」
突然、玄関に立ったままの史晴がいった。
「は?」
千彰が振り返ると、さっと視線を逸らす。
「俺がここにいたって誰のためにもならない」
「……俺のせい?」
史晴は首を振る。
「ちがう。俺のせいだ」
「またそれ……」
埒があかない、と千彰は史晴の腕をとった。「靴脱いで」
手を引いたまま、暗いリビングまで引っ張っていく。
「千彰」
「俺のことが嫌なら、ハッキリいって」
覚悟なら昨夜のうちからできていた。コウ相手には強がってみたものの、常識で考えれば兄である史晴が千彰に身体を許すはずはないこともわかっていた。
それでも。
「離れたくない」
史晴がハッと目を瞠った。
「たったふたりの家族なのに。俺、兄貴みたいに要領よく生きられないし、客以外に愛想笑いなんてできないし。叔母さんも、いつも俺のこと持て余してたよな。兄貴とちがって俺はすぐキレるから、兄貴、心配して高校も叔母さんちのすぐ近くに進路変えてくれたよな。なにかあったら、いつだってすぐ謝りにきれくれた」
中学高校と抱いていた鬱屈は、ほとんどが叔母に対する不満だった。
出来が良く誰にでも好かれる史晴とちがって、千彰はいつも世間に対する劣等感を抱いていたのだ。
『両親を失くした可哀想な子ども』。
子どものいない叔母が自分たち兄弟を実の子どもとして必死に育てようとすればするほど、千彰にはその馴れ馴れしさが煩わしく、おなじ境遇である兄が叔母の子として生きようと必死に努力すればするほど、自分の卑屈さが浮き彫りにされていくようで怖かった。
結局、中途半端にグレて、中途半端に更生した。ケンカもした。大事にはならなかっただけで、警察の世話になったことも一度や二度ではない。
叔母はあのときのことを一過性の反抗と割り切ってくれている。千彰も自分の稼ぎで生活できるようになって、ようやく叔母の偉大さがわかったような気がしている。
それでも、やっぱりどうしても、自分の家族は史晴だけなのだと――その想いだけで、ここまで生きてきたのだ。
「俺は、そんな兄貴が好きだった。兄貴が祐司を好きだって気づいたときも、応援したい気持ちはあったんだ。でも」
社会人になってしばらくして、祐司の結婚がきまった。
あのとき、史晴はなにもいわなかった。
「どうしてかなあ」
なぜ気づいてしまったのだろう。
なぜ、側にいるだけで満足できなかったのだろう。
踞り、涙を拭う千彰の背中に史晴の手が触れる。
「泣くな、アキ」
ふう、と大きな溜め息が千彰の耳元に落ちた。
「本当に、俺が悪いんだ。俺が……自分がかわいいだけのクズなんだよ」
ともだちにシェアしよう!