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第5話 ①
六年前。
二人が榎本事務所を訪れたのは、ちょうど昼時を過ぎた頃だった。
「いいんじゃねえか」
悠利の父、初音利明の話を聞いた亮次はそう言って頷いた。
まだ六月だというのに蒸し暑く、梅雨なのによく晴れた日だった。接客用テーブルの上には冷たいお茶の入ったグラスが三人分用意されている。
利明が軽く眉をひそめた。
「相変わらず適当な男だ」
「適当じゃねえよ。本当にそう思ってんだって」
しかし眉間のしわが戻らないところを見ると、どうやら彼は信用していないらしい。
初音家の本家が代々守っている、箱。
今、それを受け継いでいる利明が、箱とその中身を処分することに決めたという。
「詩織さんも一緒に来たってことは、賛成なんですよね」
亮次の言葉に、利明の姉の詩織が笑った。
「ええ。そもそも私はもっと早く処分するべきだと思ったもの」
「じゃ、誠二郎さんも当然同意してるんですね」
「主人は私と同意見よ」
最後まで箱の処分に反対していたのは利明だった。
彼の妻と詩織の説得が実を結んだこともあるだろうが、一番大きかったのはおそらく息子の存在だろう。
「悠利には話したのか」
「いや、これからだ」
予想していた通りの答えが返ってきて、亮次が小さく息を吐く。
「もちろん処分する前に話すんだよな」
「ああ」
利明ははっきりと頷いた。
だがそれ以上は何も言わず、事務所の部屋もしんと静かになる。
「亮次、頼みたいことがある」
「言っとくが俺から悠利に言ってくれってのはなしだぞ」
「わかっている。だから一緒に来てもらえないか」
「悠利のところにか?」
彼の息子の悠利は大学二年生で、一人暮らしをしている。そのアパートを彼が訪れたことは一度もない。
「行ってあげて、亮次君。早く会いに行きなさいって言ってるのに、この人、一人じゃいつまで経っても行こうとしないのよ」
「姉さん……」
周囲から近寄りがたく思われるほどに強面な利明だが、相変わらず姉には頭が上がらないようだ。
「行くのは構わねえが、言うのは自分で言えよ」
「ああ。わかっている」
返事をした利明の肩が緩んだ。
どうやら亮次も一緒に行ってくれると決まったことで、かなり安堵したらしい。
彼と息子の悠利とは仲が悪いというわけではないが、決して良くもない。本家の当主としてばかりで、父親としてはあまり関わってこなかったこと。厳しく接していたことを利明は今さらながら気にしているようだった。
「ではまた日にちが決まったら連絡する」
「こっちの都合はなしかよ」
「どうせいつも暇なのだろう」
「言ってくれるねえ。ま、そのとおりだがよ」
両親を失くしてからずっと事務所で暮らしていた快も、今は事務所と同じアパートで一人暮らしを始めている。まだ少し不安定な気がして心配になることもあるが、半日ほどなら出かけても大丈夫だろう。
利明と詩織が帰った事務所で、亮次はやれやれとソファに寝転んだ。
彼らが長く悩んできた問題に、ようやく決着のつく兆しが見えてきた。箱を処分したところで、すぐに解決、というわけにはいかないだろうが、やっと一歩踏み出したといったところだろうか。
心なしかほっとしたせいかいつの間にか眠ってしまい、気づいたときには窓から夕焼け色の光が部屋に入り込んでいた。
「あー……もうこんな時間か。快に夕飯の相談しねえとな」
まだ眠気が残って重い体をソファから起き上がらせた亮次の目に入ったのは、向かいのソファの下に置きっぱなしになっていた小さな黒い鞄だった。
「あいつ、鞄忘れていきやがったな」
利明が持ってきていたその鞄の中を確認すると、やはり貸金庫の鍵が入っている。
こんなに大事なものを忘れるなんて、悠利に会いに行くと決めたものの今から相当緊張しているらしい。
慌てて電話をかけるが、コール音ばかりで出る気配はない。
「おいおい。こんなもん持ってたくねえぞ、俺」
全く、と。
亮次は黒い鞄を抱えて立ち上がった。
そして自分のカバンを肩にかけると、もう一度利明に電話をかけながら事務所を出て行った。
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