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第5話 ③
夜の一時を過ぎていた。
しっかりとコートを着込んで部屋を出た快は、アパートの階段を上がっていく。
屋上のドアを開けると、落下防止の柵にもたれかかって立っているユキムラが小さく片手を挙げた。
「やあ。気づいたんだ」
「わざわざコートを返しにくるなんて、絶対に何かあると思ったんだ」
「へえ、さすが探偵だね」
何度も言っているが快は探偵ではない。探偵事務所で働いているというだけだ。
コートのポケットに入っていたメモには、返されたその日に気づいた。
夜、榎本探偵事務所の屋上で。
それだけが書かれていた。日付も時刻の指定もなかったが、一応その日の夜に屋上へ行ってみればユキムラは一人で待っていた。
「悠利は一緒じゃないんだね」
「一緒じゃないほうがいいんだろ」
「そんなこと書いたっけ」
「書いてなかったけど、わざわざ俺だけがメモを見るように渡してきたってことはそういうことだろ。違うのか」
ユキムラが目を丸くする。
「意外だなあ。あんた、結構頭が回るんだね」
「なんか失礼な言い方だな」
こんなことなら悠利と一緒に来てもよかったかもしれない。
「もし一緒に来たならそれでもいいと思ってたよ。ま、あんた一人のほうが都合いいけど。悠利がいると警戒されちゃってまともに話せそうにないし」
「されて当然だろ」
快だって警戒していないわけではない。
ただ、コートを返しに来たときのユキムラの雰囲気が今までと違ったので、攻撃しようと思って呼び出したのではない気はしていた。
「まあね。ああ、もっと近くに来なよ。そんな遠くちゃ話しづらくてしょうがないからさ」
ドアの近くから動かずにいた快は、ユキムラから少し距離を取って隣に立った。
一層冷たい風の通る屋上で、ユキムラはコート一つ身につけていなかった。感覚が壊れているのではないかと、ついそんなことを思ってしまうほどに彼の顔は平然としている。
「あんたはさ、これからどうしようと思ってるわけ?」
「これから?」
「箱、あんたらが持ってるんだろ?」
快は返答に迷った。
結果、箱を持っているかどうかという部分には触れずに答えた。
「悠利は処分しようと思ってるって言ってたけど」
「待った。言ったでしょ、あんたはって。悠利じゃなくて、榎本快、あんたがどうしようと思ってるのかだよ」
「俺は別に、あいつが箱を処分するって言うなら協力するし、やっぱりしないって言うならそうするだけだよ」
「なんだ、やっぱり悠利任せか」
「そりゃそうだろ」
初音家の人間ではない快に箱をどうにかする権利などあるはずがない。
「で、箱を処分したあとは?」
「まだ処分するって決まってねえけど」
「どっちでもいいよ。処分するかとっておくのか決めて、そのあとあんたはどうするのかってこと」
「どうって、俺は何も変わらねえよ」
「今まで通り榎本事務所で働くだけだから、って?」
「それもまあそうだろうけど、箱がどうなろうと悠利と一緒にいるのは変わらねえってこと」
箱も、初音家も関係ない。
ただ悠利とともに過ごす日常がこれからも続くように。
しいて言うならば、これがユキムラの問いかけに対する快の答えだ。
ふうん、とユキムラは静かに呟いた。
黙ったままで目の前の暗い町を見つめている彼の目に、いつもの怪しげな光はない。
目の前にいるのは快や悠利と同年代の、普通の男だった。
「俺も聞いていいか」
「なに?」
「なんでそんなに誠二郎さんを慕ってるんだ」
少し顔を傾けて快のほうを見たユキムラの口元が、軽く笑った。
「ちょっと、救われたんだよね。あの人に。月並みでしょ」
なるほどと、快は心の中で思った。
たしかによくある話かもしれないが、慕う理由としては納得できる。
「俺の両親、結構な大企業に勤めてるエリートなんだけどさ。俺、出来が悪かったんだよね」
「そうは思えねえけど」
「はは、そりゃどうも。けど兄貴のほうがよっぽど出来が良くてさ、そっちばっかり大事にされてたわけ。で、俺はやる気なくしてどんどん落ちこぼれていったわけよ」
遠い過去を話すかのようにユキムラが言う。
「悪い奴らと付き合うようになってさ。で、うっかり仲間入りしたのが、悠利の両親を殺した集団で」
「えっ」
「ああ、言っとくけど俺はやってないよ。もっと危険な組織がやつらの上にいてさ。そこからの命令だったんだけど、俺、そんなことする勇気がなかったから逃げたんだよね。そしたら今
度は俺が追われることになってさ」
「そこで助けてくれたのが誠二郎さんってわけか」
「そういうこと」
誠二郎と行動をともにしている理由はよくわかった。
だが。
「お前これ、悠利がいたら話せねえだろ」
「そう? ま、俺は別に気にしないけど」
本当に気にしそうにないから困る。
やはり悠利がいなくてよかった。いきなりこんな話をされたとして、落ち着いて聞けるはずがない。
とはいえずっと隠しておくわけにもいかなそうな内容に、快は頭を悩ませる。
「で、箱はどこにあるの?」
唐突にユキムラがたずねてくる。
「なんでいきなりその話になるんだよ」
「別にいきなりじゃないでしょ。さっきから箱の話をしてるんだし」
「言えるわけないだろ」
「てことはやっぱり知ってるってことか」
しまった、とつい焦ってしまった快に、ユキムラがふっと笑う。
「安心しなよ、無理に聞くつもりないから。あんたらが知ってるってことも誠二郎さんには言わないよ」
あまりにも意外な一言に、快は驚きを隠さず言った。
「どういう風の吹き回しだよ」
「別に。あんたの言ったこと、ちょっと考えてみようと思っただけだよ」
「俺の?」
「一緒に生きるってやつをさ」
ユキムラは嘘をついていないと思った。
だからきっと、今話したことを誠二郎にも言わないだろう。悠利には、甘い、と言われそうだが。
キィ、と静かにドアが開いて、快が振り返った。
「おう、悠利。もういいよ」
悠利はドアを閉めて歩いてくると、二人の間に立ってユキムラのほうを見た。
「快に何もしていないだろうな」
「見てのとおりだよ。ていうか君、悠利には内緒で来たって言ってなかったっけ」
ユキムラが悠利の後ろの快にたずねた。
「内緒とは言ってねえだろ。事情を話して少しだけ待っててもらったんだよ」
「へえ。よく納得したね」
すると悠利がすかさず言う。
「どうしてもと言うから一〇分だけと約束しただけだ。お前を信用したわけじゃない」
「それはさっきの一言でよくわかったよ」
だが信用しないとは言いながらも、悠利は快にすぐにでも部屋に戻るよう促すことはしなかった。
彼がここに来たのは、約束した時間が過ぎたからということ以外にもう一つ理由があった。
「お前に聞きたいことがある」
「いいよ。俺、今機嫌がいいから答えてあげる。何?」
ユキムラの態度に少し眉をひそめながらも、悠利がたずねた。
「なぜ初音家と同じような力を持っている」
「あれ、気づいてない? とっくにわかってると思ったんだけどなあ」
ますます眉間にしわを寄せる悠利の代わりに、快が言う。
「カプセルみたいな薬を飲んでたけど、あれか?」
「ああ、そうそう。なんだ、やっぱり気づいてたんじゃないか。そう、それだよ。初音家の力を得ることができる薬、ってね」
冗談なのか本気なのかわからない顔で、ユキムラが笑う。
「何の薬なんだ、それ」
快がユキムラにたずねた。
「だから力を得られる薬だって」
「そうじゃなくて。中身は何なんだって聞いてんだよ」
「魔法の粉だよ」
妙な言い回しに、快が顔をしかめて問い返す。
「魔法?」
「初音家が代々守っている箱の中に入ってた粉末状ものを使って、誠二郎さんが作ったんだよ。悠利ならわかるんじゃないの?」
「俺が知っているわけが……」
言いかけた悠利がふと言葉を止めた。
そして、たずねる。
「……なぜ誠二郎さんが箱の中に入っているはずのものを持っているんだ」
誠二郎は悠利の伯父で、彼の父の姉の夫だが、箱を開けることのできる立場ではなかったはずだ。
「誠二郎さんの仕事、何してたか覚えてる?」
ユキムラにたずねられて、悠利は少し記憶をたどる。
「大学で働いていると聞いたことがあるが」
「今は働いてないけどね。研究室にも所属していたんだよ。食品とかの成分を分析できる機械が置いてあったって」
「なるほど。箱の中にあるものの一部を持って行って、その研究室で成分分析をするつもりだったということか」
「そういうこと」
箱ごと処分してしまう前に、と悠利の父にお願いされてのことだった。だが成分調査をする前に、悠利の両親と誠二郎の妻は殺されてしまった。
そして調査するはずだったものは、誠二郎の手元に残った。
「初音家が超能力みたいな力を持つ元となったものらしいんだけど、それは間違いないかもね。現にほら、あんたらも見たでしょ」
ユキムラが自身を指差した。
たしかに、それを使って作った薬を飲んだユキムラが一時的とはいえ力を得たということは、間違いないのかもしれない。
「そんな得体の知れないもの、よく飲んだな」
思わず快が言った。
「超能力みたいな力を使えるかもって言われたら試してみたくなるでしょ。それに、その粉が何なのかは一応わかってたし」
「魔法の粉とか言うんじゃねえだろうな」
「あれは冗談だよ。その粉末状のものの正体は、木乃伊だ」
「木乃伊? って……人の、か?」
「さあ、そうなんじゃないの? 木乃伊って昔は薬として珍重されてたらしいし。俺も詳しいことはよく知らないけど」
「……本当によく飲んだな」
「別になんてことないよ。飲んでみたいなら一粒あげようか?」
にやりと笑うユキムラに、悠利が口を挟んだ。
「おい。変なものを飲ませようとするな」
「あんたじゃなくて榎本快に聞いてるんだよ」
「飲むつもりはないけどもらうって言ったらくれるのか」
快がそう問い返した。
「どういうこと?」
「正直、飲みたいとは全く思わないけど、中はどうなってるのかなと思って」
「なら、飲んでみたいからほしいって嘘でも言えばいいのに。正直だねえ」
「嘘ついてまでほしいとは思ってねえよ」
「ふうん、そう」
ユキムラはそう返事をしただけだった。
結局、飲んでみたいと言ったところで本当にカプセルをくれたかどうかは謎だ。
「なぜ木乃伊が初音家の力の元なんだ」
たずねた悠利に、ユキムラが言う。
「そんなの自分で調べなよ。どうせもう箱のありかもわかってるんでしょ」
確かに、わかっている。
だが当然、快も悠利もわかっているとは言えずに黙っていると、ユキムラがふんと笑った。
「そんなに警戒しなくたって、誠二郎さんにも朋希にも言うつもりないよ。俺がこれからどうするか決めるまではね」
言うなりユキムラが快のほうへ投げてよこしたのは、彼が飲んでいたあのカプセルの薬だった。
「それ、好きにしなよ。じゃあおやすみ」
ユキムラが屋上を出て行くのを悠利は目で追っていたが、追いかけることはしなかった。
「どうするつもりだ」
悠利が快の手元に残った薬を見て言った。
「いや、うん。どうしようかな」
一応もらってはみたものの、そのあとどうするのかまでは考えていなかった。快には誠二郎のように成分を調べる手段もない。
「割ってみるか?」
「今ここでか」
「それでもいいけど、割るものがないんだよな。こうやって握ったところで潰れたりは……あ」
ぐ、と握りしめた手の中でカプセルの薬が壊れた感触がした。
「割れたかも」
「お前……」
「いやだって、まさかこんな簡単に割れるなんて」
だが考えてみれば、ユキムラはこの薬を飲んですぐに超能力のような力を使っていた。ということは、中身がすぐに体内に吸収されるように外側のカプセルは脆く作られているということだ。
開いた手についていたのは、少し茶色がかった白い液体状のものだった。
「中身、粉じゃないんだな」
カプセルの中身のついた手を顔のほうへ近づけようとすると、悠利が止めるようにその手首をつかんだ。
「間違っても口には入れるなよ」
真剣な彼のその目には今までの苦労や辛さが映っているように見えた。
「大丈夫だよ」
言って、快は手を下ろした。
どうせ近くで見たところでわからないし、亮次が管理している貸金庫に入っている箱にはこの薬の元となったものが入っているはずだ。
もし調べたいのならそちらを調べればいい。
「手、しっかり洗えよ」
「わかってるって。寒いしそろそろ戻るか」
「その前に一ついいか」
切り出した悠利が体ごと快に向き直る。
「貸金庫にある箱を取りに行こうと思っている」
箱のことを口にせずにいる悠利のことを気になっていたが、彼なりにどうするべきか改めて考えていたようだった。
言葉には決心が滲んでいた。
「亮次さんには言ったのか」
「まだだ」
「取りに行ったあとの箱って」
「全て処分する」
悠利に迷いはなかった。
だが廃棄すれば全てが解決するわけではない。揺らぎながらも何とか保っているこの日常も、いつ崩れるかわからない。
「一緒に来てくれるか」
聞くまでもないはずの問いかけに、顔には出ない彼の不安が透けている。
「もちろん付き合うよ。最後まで」
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