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第3話 酒と肴
「ふふ。会わなかった間の話を後で聞かせておくれ……早速だけれど私は湯を浴びてくるよ。そろそろ日が沈むからね。一緒にどうだえ?」
「いや、俺は後にするよ」
「そう」
紅月はゆっくりと立ち上がると手を二度打ち鳴らした。
すぐに襖が開き、着物の少年が膝をついて現れた。
着流しのそれはどうやらお仕着せらしい。先ほどの女性と色は違えど裾に同じ柄が入っている。
「私は湯殿に行くから、客人の相手をしなさい」
「かしこまりました。ぬし様」
少年が頭を下げる。
「食事も後で用意しているけれど、酒を飲むだろう?雅仁」
「そうだな。それはありがたい」
雅仁が頷くと、紅月は少年に命じた。
「藍 、酒と肴を。それから楡 に私の着替えを持って湯殿まで来させなさい」
「はい。ぬし様」
そう言うと少年はすっと廊下に消えた。
「それでは雅仁、しばし待っていておくれ。すぐに藍に相手をさせるから」
「わかった」
紅月は妖艶に微笑むと、打ち掛けの裾をひいて部屋から出ていった。
「……ふぅ」
紅月が戻ってこないのを確認して、雅仁は大きく息を吐いた。
強すぎる剥き出しの妖気は無くなったとはいえ、紅月の前にいるのは緊張する。
肩に手を当てて首を回し、ついでに部屋の中を見渡す。
八畳ほどの広さの部屋。床の間にはどこかで見たような気がする小ぶりの玻璃 の珠が飾られている。
紅月が凭れていた小さな文机と書見台くらいしか、この部屋には家具はない。
出入り口から見て左手が障子になっていて、閉まっているので鮮やかな夕陽に染められている。恐らくは、その向こうが庭になっているのだろう。
朱に染まった障子をぼんやりと眺めていると、廊下から声をかけられた。
「咲原様、失礼いたします」
先ほどの藍という少年の声だ。
襖が開くと、燗酒と猪口と皿の載った膳を持って藍が入ってきた。
こうして見ると、年の頃は7、8くらいだろうか。
膳を捧げ持つ腕はか細いが、大きめの膳をささげ持っても小揺るぎもしていない。
雅仁の前に膳を置くと、押し入れから座布団と脇息を一組取り出した。
「どうぞ、こちらをお使いください」
そして、「お注ぎいたします」と小さな手で徳利を取った。
雅仁が持った猪口に、とくとくと酒が注がれる。
人肌燗のそれを口に含むと、馥郁 とした香りが鼻に抜け、思わず目を閉じた。
「これは……美味いな」
「先日ぬし様が伏見にいらっしゃった際に買っておいでになったお酒です。今日のために取って置くんだとおっしゃって、開けるのをずっと我慢なさってました」
ふふ、と藍は口元を押さえて微笑んだ。その額の両脇からは、小指半分ほどの長さの青白い角が生えている。
二口、三口と猪口を傾けると、小ぶりのそれはすぐに空っぽになった。
藍がまた徳利から酒を注ぐ。
雅仁は一口飲んで、藍の顔を覗き込んだ。切れ長の目が見つめ返してくる。
「藍はいける口か?」
徳利のくびれに指を添えて訊いた。
「もちろんでございます」
嬉しそうに藍が頷く。
「では付き合ってくれ。一人酒は寂しいからな」
藍が袂から取り出した猪口に酒を注ぐ。
「ありがとうございます。いただきます」
藍は軽く猪口を押し頂くと、一口飲んだ。桜色の唇が酒で濡れて、ちろりと赤い舌が舐め取る。
「ああ、本当に美味しゅうございますね」
はぁ、と満足そうに小さく息を吐いた。
雅仁は思わず微笑んで肴の甘海老の刺身に箸を伸ばした。
しばらくさしつさされつで飲んでいた。空の徳利が膳の上に二、三転がる。
雅仁はもちろんだが、藍も顔色を変えない。それなりに飲めるようだ。
少し楽しくなってきた。
「海老も食べろ」
藍が口を開き甘えるように赤い舌を少し覗かせる。その上に甘海老を乗せてやった。
にこにこと口元を指先で押さえて食べている。
「美味いか?」
「はい」
にこりと微笑む顔があどけなく可愛らしいので、雅仁は猪口を傾けながら頬を緩め、藍の頭を撫でてやった。
しっとりした髪が指に心地よい。
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