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第5話 藍色の月
藍の後をついてまた長い廊下を歩く。
「湯殿はお屋敷の外れにあるんです。少しご辛抱くださいね」
前下がりの長めの黒髪が、藍が歩みを進めるたびにさらさらと揺れる。
雅仁は藍と並ぶと、その頭に軽く手を触れた。
「藍は綺麗な髪をしているね」
「あ、ありがとうございます。……咲原様も、あの、お美しいです……」
顔を覗き込むと、藍は真っ赤な顔をしていた。
「み、見ないでください」
藍が慌てて小さな両手で顔を隠す。
思わず雅仁はくすりと笑って藍の髪を撫でた。
しばらくして、引き戸の前で藍は足を止めた。
「こちらが湯殿です。どうぞお入りください。私は少し準備をして参ります」
そういって藍は頭を下げると隣の部屋に入っていった。
一人になった雅仁は引き戸を開けて室内に足を踏み入れた。
手入れの行き届いた脱衣所には、衣紋掛けと籠があり、向かいに洗面台と木の扉が一つあった。
籠の中には手拭とバスタオル、替えの下着と烏羽色の浴衣が用意されている。
雅仁は脱いだ羽織と着物、長襦袢を衣紋掛けに掛け、湯気で曇った奥の硝子扉を開けた。
浴室は、大人が三人くらいは入れそうな広さがあった。
雅仁は洗い場に向かうと、習慣でまず髪を洗った。
続いて体を洗っていると、からからと硝子戸が開いた。
「咲原様、お背中をお流しいたします」
振り向くと、膝丈の白の肌襦袢 をまとった藍が浴室に入ってくるところだった。
前に向き直った雅仁は内心頭を抱えた。
紅月は使用人にどういう教育をしているのか……。
とはいえ、断るわけにもいかない。
「ああ」
体の前と下半身を自分で洗うと、後は藍に任せることにした。
「失礼いたします」
藍の手が肩に添えられ、泡立った手拭いがちょうどよい力加減で肌を擦る。
首筋、背中、腰、脇腹、腕。
藍が緊張しているのか、時々ふっと矯めた息が肌にかかるのさえ心地よい。
雅仁の腕をとった時には、明らかに藍の手が震えているのを感じた。
丹念に洗い終わると、肩と腕を簡単に揉みほぐしてくれる。
小さい手ながらなかなか力強く、とても気持ち良い。
傍らに置いていた桶にお湯を溜め、藍が手に取った。
「お湯をお掛けいたします」
首の後ろから一気に大量のお湯が流れ落ち、石鹸を洗い流した。
なかなかない感触で気持ちがすっきりする。
落としきれなかった泡は、シャワーと手のひらで丁寧に流してくれる。
「終わりでございます」
流し終わると、藍は心なしか寂しそうにそう告げた。
「ありがとう。さっぱりしたよ」
雅仁が振り返って礼を言うと、藍は嬉しそうに微笑んだ。
雅仁は顔を洗うと湯船に向かった。
掛け湯をすると、ちょうどよい温度の湯だった。
爪先からゆっくりと湯に浸かる。
背後で、藍が自分についた石鹸の泡を洗い流している。
肩まで湯に浸かると、疲れが溶け出すような心持ちがする。
心地よさに思わず小さくため息が漏れる。
「それでは、ごゆっくりおくつろぎください」
「藍」
雅仁は出ていこうとする藍を呼び止めた。
「はい」
「そのままでは冷えるだろう。こっちで温まっていけ」
「……あ、りがとう、ございます」
躊躇うように礼を言った藍は、どこかぎくしゃくとした動作で湯船に体を沈めた。
薄い肌襦袢の裾が広がらないように手で押さえている。
「藍は、紅月の元に来て長いのか?」
「数えてはおりませんが、半世紀ほどでしょうか」
「そうか。紅月は良くしてくれるか?」
「はい!ぬし様はお優しいです。時々外にも連れていってくださいます」
途端に藍はいい笑顔を見せた。
よほど紅月を慕っていると見える。
「あの、咲原様のこともお訊きしてもよろしいでしょうか」
おずおずと藍が少し身を寄せて顔を覗き込む。
「ああ」
「咲原様はいつぬし様とお会いになったのですか?」
難しい質問だ。なんせ雅仁も記憶が曖昧である。
「恐らく……二世紀くらい前じゃないか。よく覚えていないんだ。なんせ正体を明かしてくれなかったからな」
「そうなのですか。ぬし様は咲原様の昔のお話をしてくださいました。幼くていらっしゃった時のこととか」
「それは……恥ずかしいな」
雅仁は両手でざぶりと前髪を掻き上げた。
「大変お美しかったって、おっしゃっていました……今も、と」
後半はか細く、水音で雅仁の耳には届かなかった。
浴室の奥は曇り硝子になっていて、斜めになった上部だけ透明の硝子が張られている。
ふと藍は硝子に近づくと、上を見上げた。
「あ」
ちゃぷん、と音をたてて立ち上がる。
「咲原様、満月ですよ。よく見えます」
雅仁も数歩奥に行くと天を見上げた。
山吹色の大きな満月が、紺色の空に架かっている。
「綺麗ですね」
藍が呟く。
「そうだな。……しかし、俺にはこっちの眺めの方がいいな」
藍が訝しげに雅仁を振り返る。
雅仁は湯から立ち上がった藍の後ろ姿を見ていた。
ほっそりした体に、薄地の肌襦袢がぴったり貼りついていて極めて艶かしい。形の良い尻までよく見えている。
自分の痴態にようやく気づいた藍は、慌てて顎まで湯に浸かった。
「い、意地悪を、おっしゃらないでください……」
そっぽを向いてしまった藍に、雅仁は思わずくくっと笑いをこぼした。
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