25 / 41
⑥‐2
比呂くんが他の作品を、他の誰かを、他の何かを褒める言葉を聞くと、僕の心の中がどんどんどんどん黒く染まっていく気がした。
心臓がギュッと掴まれみたいに苦しくなって、比呂くんが僕から離れて遠くに行ってしまうように感じる。
「ほら、真音。こっちの絵もすごいぞ? 見てみろよ」
「ほ、他の絵なんか、見ないでよ!」
思わず、叫んでいた。
静かな館内に僕の声だけがこだまする。
比呂くんがキョトンとした顔で僕を振り返った。
周囲の人々も驚いたように僕を見ている。
「あ……」
顔に熱が集まっていく。
僕はキュッと下唇を噛むと、居たたまれなさにその場を駆け出していた。
「真音!」
比呂くんの声が追いかけてくる。
だけど僕は立ち止まらず、美術館の玄関を飛び出す。
「……はあ、……はあっ」
薔薇の咲く庭を通り過ぎて、いつの間にか、美術館の建物を取り囲む雑木林の中に迷い込んでいた。
足元が落ち葉でふかふかしている。
「真音っ!」
鋭い声とともに、肩を掴まれ、ぐいっと後ろに引かれた。
無理やり振り返らされた僕の前に、肩で息をする比呂くんが現れる。
「急にどうしたんだ、真音」
困惑しきった表情に見下ろされた。
「だって……、」
僕は項垂れて、苦しい胸の内そのままの苦い声を漏らした。
「嫌で嫌で、堪らないんだ……」
「え?」
比呂くんの戸惑う声に、顔を上げた。
僕より頭一つ背が高い比呂くんの眼鏡の奥の瞳を、まっすぐに見上げる。
「僕のだけ、見てよ。比呂くんのその目に、僕の絵しか映さないでよ!」
言いながら、比呂くんの手首を掴んだ。
「僕を見てよ! 僕だけを見てよ! 嫌なんだ、比呂くんが僕以外のものを褒めるのが、僕以外を見るのが嫌なんだっ」
知らず知らず、涙が滲んでいた。
目の前にある比呂くんの驚いた顔がぼやけて見える。
僕は比呂くんがどこにも行かないように、その手首をきつく握り締めた。
「真音」
比呂くんは硬い声音で僕の名前を呼ぶと、まるで小さな子供を叱るかのように眉根を寄せて、少しだけ、背を屈めた。
そして僕に掴まれていないほうの手を、僕の肩にそっと載せる。
「真音にも見えるんだろう? この世の中には美しくて、心躍る素晴らしいものが溢れてる」
静かに、諭すように、比呂くんが僕に語りかける。
「こんなに素晴らしい世界を俺一人で見ても、絶対につまらない。俺はこの世界の美しさを、素晴らしさを、胸が痛くなるほどの感動を、真音と分かち合いたいんだ」
比呂くんは眼鏡のブリッジを押し上げながら背筋を伸ばすと、ちょっぴり肩を竦めた。
「真音、だからだよ」
一気に柔らかくなった声と表情に僕の目から大粒の涙がひとつ、零れた。
「俺はこれからも、真音と、この気持ちを分かち合っていきたいんだ。だめかな?」
「う……っ、」
次から次へと涙は溢れ出し、俯いた僕の頬を濡らしていく。
僕は比呂くんの手首を掴んでいた手を、やっと離した。
「ほら、顔を上げて?」
比呂くんは僕のその手を拾い上げ、ギュッと繋いでくれる。
「太陽が傾き始めてるよ。夕焼けがとても綺麗だね」
比呂くんの穏やかな声に、僕は洟を啜りながら、顔を上げた。
闇に染まり始めた木立の輪郭から残照が零れていた。
藍色の空の中を橙色に染められたうろこ雲が流れていく。
いつもと代わり映えのしない夕焼けなのに、なぜか僕の胸の奥をきゅううっと切なく締めつけた。
「……うん、とっても、綺麗だね」
僕は比呂くんのあたたかい手のひらを握り返す。
比呂くんと一緒に見た夕焼けは、ひとりで見るよりずっとずっと、心に沁み込んだ。
***「僕だけの水玉」終わり
ともだちにシェアしよう!