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⑩‐2
***
入学式に合わせたかのように桜が満開だった。
四月。僕は柳生館高校に入学した。
県内はもとより遠方から入学する生徒も多いこの学校は、進学校として有名だった。
すでに入寮していたけれど、まだまだ慣れそうもない寮生活。
僕の成績じゃ、きっとついていくだけで必死に違いない勉強。
これから始まる新生活への不安と緊張に、僕はたった一人で校門の前に立ち尽くしていた。
同じ中学から進学した生徒は他にはおらず、共働きの両親が式に参列することもできなかった。
「君で最後だよ?」
そんな時だった。門の内側から掛けられた声に僕は不安げな顔を上げた。
「どうしたの? 入学式始まるよ?」
上級生らしき男子生徒が近づいてきて、僕に向かって不思議そうな視線を向ける。
「あ、すみません。なんか、緊張しちゃって……」
僕は少し震える声でそう答えた。
「そうか」
彼は小さく頷くとおもむろに、僕の頭に向かって手を伸ばしてきた。
「!?」
そして、微かに僕の髪の毛に触れる。
「でも、柳生館の桜は、君を歓迎しているよ?」
繊細そうな指先が僕の目の前に翳された。
そこには薄桃色の桜の花びらが摘ままれていた。
「もちろん、僕もだけど」
そう付け加え、彼は穏やかに微笑んだ。
「……!」
その笑みは、僕の中の緊張をあっと言う間に溶かしてしまった。
あとで知ったのだが、その男子生徒が生徒会長の鳥海先輩だった。
***
「そして今日、僕たちはこの柳生館を卒業します」
僕は鳥海先輩の二度目の答辞を目を瞑って聞き入る。
その後、勉強はやっぱり大変だったけど友人もできた。
でも入学式の日以来、僕の目はずっと、鳥海先輩を追っていた。
廊下ですれ違うと、僕がした会釈に軽く手を上げて応えてくれる。
それだけでいつも胸がいっぱいになった。それだけで幸せだと思っていた。
……そう、あの日までは。
***
一学期の期末試験前。
混雑した図書館で僕はノートを広げる。
自室は狭くて暑いし、寮の自習室の混み具合よりは幾分マシなので、僕はいつも学校の図書館で勉強することにしていた。
「ここ、いい?」
「あ、はい! どうぞ」
僕は頭上から降ってきた声に、隣の席にはみ出ていた参考書を慌てて自分の方へと引き寄せた。
しかし隣に腰かけた人物の姿が目の端に入ると、突然心臓が暴れ出した。
(……っ!)
隣に座ったのは、鳥海先輩だった。
少しだけ目線を上げて辺りを見渡すと、どの席もすでに埋まっていて、唯一僕の隣の席だけが空いていたようだった。
『ドクンドクンドクン……』
僕の心臓は隣の先輩にまで聞こえてしまうんじゃないかと思う程、音を立てた。
なんとか落ち着きたくて、必死に英単語を書き連ねる。
視界の右隅に映る鳥海先輩は、ゆっくりと数学の参考書を開くとノートに問題を解き始めた。
僕の右腕の傍で左利きの鳥海先輩のペンシルが揺れ動く。
その右手が参考書のページを捲る。
「……」
英単語を書く僕の右手は、いつの間にか止まっていた。
この時、初めて気付いたんだ。
僕は……。
鳥海先輩のペンシルになりたい。
鳥海先輩の参考書になりたい。
鳥海先輩の触れているものになりたい。
鳥海先輩に、触れたいーー
……そして、自分がどうしようもなく穢れていると感じた。
この日僕は、一個の英単語も覚えられなかった。
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