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⑪魔法の粉Ex

「カーペットにできた頑固なシミも、コンロのしつこい油汚れも、何年もほったらかしにしていた換気扇も、この魔法の粉Exがあれば……!」 俺は抑揚をつけた大声でそこまで言うと、銀色の筒にショッキングピンクの文字で『魔法の粉Ex』と、でかでか書かれた容器を持ち上げた。そしてもう片手に持っていた布巾に傾け、白い粉を振りかける。 あらかじめ油でべとべとに汚しておいた換気扇の羽を、その布巾で一撫でした。 「ほら! この通り、あっという間にピカピカ!」 撫でられた部分だけ、油汚れがスッキリと取れ、元の青い色を取り戻していた。 「そう、この魔法の粉Exがあれば、あなたの消したい過去もきれいさっぱり真っ白に……」 って、誰も聞いてねぇ……。 俺は大きな溜息を吐きながら、布巾を力なくテーブルに置いた。 陽射しが強まる夏の午後。蝉の声だけがジワリジワリと辺りに響く。 スーパーの入り口横に設けられた簡易テント。その中で行われる実演販売なんかに、足を留める客などいなかった。みんな、クーラーが効いた店内に一目散に駆け込んでしまう。 唯一、四、五歳くらいの男児がテーブルに顎を載せて、興味津々といった表情でこちらを見ているだけだ。 「あっちー」 俺はネクタイをゆるめながら、パイプ椅子にどっかりと腰かけ、シャツの胸ポケットから煙草を取り出した。 俺は全国津々浦々で実演販売をして生計を立てている。 元々一か所にじっとしていられる性分ではなく、旅家業は性に合っている……と思っていたが、三十路も過ぎた今、そろそろ落ち着きたいというのが正直なところだ。 だが、商売柄出会いもなく、彼女すらもう何年もいない。 あー、今日の売り上げも、人生も厳しいな……。 モクモクと育ち始めた入道雲を遠くに見つめながら、やるせない気持ちとともに煙草を咥える。 平和で、だけど、何の変哲もない毎日。 火を点けるでもなく、咥えた煙草を持て余していると、魔法の粉Exに小さな手が伸びてきた。 まだいたのか、このガキ……。 俺はすかさず、子供の手から魔法の粉Exを遠ざけた。 紺色の上等そうな上着に白いズボン。 これ、幼稚園の制服か何かか? やけに高級そうだが。ってか、まだ冬服か? しかもえらく可愛らしい顔してんなあ。 「えーっと、ボク、ひとり? (若くて美人の)お母さんとか、(すっごいお金持ちの)おばあさんとか、一緒じゃないの?」 俺は煙草を口から離し、心の声がだだ漏れないよう気を付けながら、できるだけ優しく話しかけてみた。 「余、ひとりだ」 するとその男児は尊大にそう答えた。 余? え、今、自分のこと、余って言った? 子供たちの間で流行ってんのか? アニメか何かの影響か? 「あ、ああ、そう……。迷子とかじゃないよねぇ?」 内心戸惑いつつも、辺りを見回し、保護者らしき人物、もしくはスーパーの店員がいないか目で探る。 面倒ごとはごめんだぜ……。 「そなたの持つその粉は、本当に魔法の粉なのか?」 内心ぼやいている俺に、その子供が聞いてくる。 「そ、そなた? え? ああ、これ? そうだよ。どんなものも、きれいさっぱり新しく生まれ変わらせる……」 俺が説明していると、トトトっとテーブルを回って俺の元に駆け寄ってきた。 「余はそなたを捜していた」 そう言って、その男児は俺の煙草を持っていないほうの手を取った。 「な、なんだ!?」 「余は敵対する魔王の手によって、このようないたいけな幼児の姿に変えられてしまったのだ。なので長い間、この呪いを解いてくれる魔法使いを捜していた」 「ま、魔王!? 魔法使い?」 なんなんだ? やっぱりアニメの話か? 素っ頓狂な声を上げる俺に構わず、しっかりと手を握り締め、期待に満ちた瞳でじっとこちらを見つめてくる。 「さあ早くその魔法の粉を、余にかけてみよ」 「えぇっ、か、かける!? ボク、何言って……! これはただの……」 言いかけて、俺は魔法の粉Exを見た。センスのない銀色の容器が太陽の光をキラリと反射する。 「心配せずとも謝礼はするぞ。余の名はグリュンタール王国、第一王位継承者、アルヴァー王子」 「お、王子!?」 目を白黒させる俺をよそにさらに続ける。 「余が元の姿に戻れた暁には、ともに王国に来い。そなたを嫁にして進ぜよう」 「え……っ、よ、嫁!?」 何がなんだかわからない状況にもかかわらず、俺の手は煙草の代わりに魔法の粉Exを掴んでいた。 これをかけたら……ほんとうにこの子は……? 「さあ、早く!」 急かされるまま、俺は魔法の粉Exを自称王子の頭上に掲げる。 蝉の声が降り注ぐ中、ごくり、と唾液を呑み込む音がやけに大きく響いた。背中を一筋の汗が流れ落ちる。 何の変哲もない俺の日常。 それが今、崩れ去ろうとしていた。 ***終わり

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