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第8話

まだ肺の奥が熱く燻っている。アツシはフラフラとしそうになる足を叱咤すると何とかフロアまで辿り着いた。 人の気配にほっと息を吐き出す。 一体さっきのはどういう意味だったんだろうか。7年も一緒に働いているがあんなことされたのは初めてだ。 「アッシュさん」 人の声にハッとして思考を止めると慌てて前を向いた。 立っていたのはここ唯一の女性、アルバイトのチャロである。 ミルクティーブラウンの髪はいつも通り頭上でお団子にしている。 彼女はこの店の最年少でユキオ達の一つ上、高校2年生だ。 確か学校も同じ東葉とうば高校だったはずだ。 すぐ恋愛問題を持ち込まれたり、自衛の問題からロイさんはあまり女性を入れたがらない。しかしチャロは合気道道場に子供の頃から通っている有段者だ。 その上体を動かす事自体が好きらしく、自主トレと称して筋トレもしている。女子としては珍しい部類の子だろう。 そんな点もあり万が一何かあっても安心だろうと働くことになったらしい。勿論その万が一が起こらないよう気をつけてはいるが、お酒を提供する場なのでトラブルというものは存在する。頭の痛い話だ。 自衛という点においてはアツシの方がチャロより問題かもしれないがあまり考えると悲しくなるのでやめておこう。 「あぁ、ごめん。おはようチャロ。昨日はごめんね、大丈夫だった?」 「おはようございますです。昨日はキイトさんが頑張ってたので大丈夫でした。もう、体調は良いんです?」 淡々と、抑揚がない少し変わった敬語が彼女の話し方だ。 それに大丈夫と返すと、気持ちを切り替えた。 兎に角、今は仕事だ。 アツシはキイトやチャロと一緒にフロアを担当だ。 だいたいがロイさんの常連だが、中にはシマさんに会いに来ている人もいるのでそういう人はシマさんのところに当たるようバーカウンターの方へと席を誘導する。 最初はまばらで、20時から21時の間が一番忙しい。ピークを過ぎれば賑やかではあるものの入りが少なくなるので注文もある程度は落ち着いてくる。 落ち着いたのを見計らってアツシとキイトは順番に休憩を取る。チャロは時間が短いので調子が悪くない限りはそのままだ。 「アッシュちゃーん、賄い取りにいらっしゃい」 厨房とフロアの間から声をかけてきたのは料理長のマキさんだ。美しいピンクのロング髪はいつもと違い今はひとつに縛られている。 「アッシュちゃん、体調大丈夫?病院行ったんですって?」 「はい、お騒がせしました」 アツシが頷くとマキさんは「無理しちゃダメよ」と念を押した。礼を述べるとマキさんに近づいた。化粧を施された顔の中でも自前らしい下まつげが目立つ綺麗な人だ。 じっと顔を見ているとマキさんにニコリと笑われる。 「やだもー、どうしたのよ人の顔なんか見つめて」 「あ、すみません」 クスリと笑われ慌てて視線を逸らした。 ハスキーボイスなので顔を見ていると少々混乱する。 そう、マキさんは所謂オネエさんというやつだ。 それも結構背が高いので目立つ。 向かい合って立つとマキさんはアツシより数センチ高い。結構大柄な人だ。 しかし気にしているらしいのでそれを口にすればラリアットを一発かまされることになるのでアツシは死ぬ気で口を閉ざした。 彼はコテツさんの上司にあたり、アツシがアルバイトをしていた頃からいるお店の古株である。 よく賄いで彼の料理を食べるが味は絶品だ。ついいつも以上に食べてしまうくらい美味しいのだが、マキさんにも困った癖があった。 それは――。 「もおおおお、あんたまたご飯食べてないんでしょう!」 「ひっ!!」 賄いを受け取った瞬間、ガシリと無遠慮に腰付近を引っ掴まれる。 「もう少し食べなきゃだめよ!だから病気にもなるのよ!こんっなペラッペラで……羨ましい!!!」 「ちょ、痛い痛い痛い!!!」 骨盤からミシッて変な音がした! 最初は掴んでいるだけだった手が、羨望と共に力が入り始める。 いくら顔は綺麗でもやはりこれだけ大柄な男性なので力が強い。アツシなど正直なところもやしっ子なので普通に握り潰されそうだ。 「なぁーんで太らないのかしらぁー!!」 「だ、だから言ってるじゃないですか。体質ですって!!」 「あんたの場合体質以前に食べないからよ!!今日もアッシュちゃんの分は大盛りだからね!!」 これである。 アツシは男にしては小食な方だ。大口を開けて食べるのが苦手で、物を詰め込むのも気持ち悪くなるので好きじゃない。だからちまちまと食べているうちにお腹がいっぱいになってしまうのだ。 ただでさえ一人前食べれるか否かというところなのにマキさんはアツシを太らせようとすぐ大盛りにしてくる。 無理に出されて毎度食べきれずに残す罪悪感を考えて欲しい。 「勘弁してくださいよ」 「ダメよ!今年こそは5キロ太らせてやるんだから!」 「人の体重で変な目標を掲げんでください」 アツシは呆れてため息を吐くがマキさんは聞いちゃいない。 毎年こうして目標を掲げれるのだがそれが達成されたことは今の所ない。 大盛りこれさえなければなぁとアツシは小さくため息を吐いた。

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