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第66話

ビクリとアツシが肩を震わせると、目を細めたリュウさんはアツシの方を見つめながら顔の角度を変えると更に深くキスを続ける。 そこでようやく弾かれたように身体が動いた。 慌ててロッカーまで走っていったことまでは覚えている。 着替えるのもそこそこにエプロンだけを外し、上着を引っ掛けると退勤を押すのも忘れて家に向けひたすら走り続けていた。 走っているうちに涙がとめどなく溢れてくる。 止まったらもう歩けない気がして息が上がって肺が苦しくなっても止まらない。 こんなに走ったことなんてない。 肺どころか脇腹から肋骨辺りまで痛くなってきた。 緊張からなのか、口の中も唇もカラカラに乾いて苦しい。 それでもアツシは止まれなくて歪んだ視界の中必死に走り続ける。 辛くて足がもつれそうになった頃、ようやく自宅のアパートが見えてきた。 「……っはぁ……、は……っ!!」 手が震えて上手く鍵が刺さらない。 両手で鍵を握り何とかこじ開けると、鍵をかけるのも早々に玄関に座り込んだ。 「はぁ……っ、はぁ……、ふ……うぅ……っ、」 ――苦しい。苦しくて、辛い。 肺も胸も脇腹も全部痛くて仕方ない。 むき出しのコンクリートに涙がポタポタと跡を残す。 「バカだなぁ」 思わず自嘲の笑みが零れる。 脈アリ、なんて言われて少しだけ浮かれた自分がいた。 お世辞だと分かっていても、心のどこかでそうだったらいいのになんて淡い夢を見た。 そうだったなら、どれ程良かっただろうか。 けれど現実はあっさりと覆されてしまった。 「ふ……っぅ、」 歪んで前が何も見えない。 ボロボロと泣きながらアツシは膝に顔を埋めた。 ユキオには素直に言えばいいのになんて思ったけれど、実際の自分は伝えるどころか逃げてくることしか出来なかった。 苦しい。消えてしまいたい。 胸なのか肺なのかよく分からないところが痛くて堪らない。 胸が引き裂かれそう、なんて表現を見たことがあるけれど、本当に自分の身が引きちぎられるような、引き攣った痛みを感じる。 力が入らなくて指の先まで冷たくなっていくようだった。 ――こんなに苦しいなら好きだと気づかなければ良かった。 「う……ぁ……っひぐ……っ、うぅー……っ、」 ただの仕事仲間として居られたらどれだけ良かっただろう。 立ち上がる事も出来ず、アツシはそのまましばらく1人で泣き続けた。 翌朝、目覚めは最悪だった。 泣き腫らしたせいで目が痛い。 鏡を見れば瞼も目尻も赤く腫れぼったい。 夜中に慌てて冷やしたが遅かったらしい。 「……ひどいかお」 泣きすぎたせいだろうか、喉も少しいがらっぽい気がした。 声は兎も角、この顔はどうにかしたい。 もう少し冷やしたらマシになるだろうか。 ロイさんには気づかれたくない。 それどころか昨日まであんなにドキドキしていたのに今は会いたくなかった。 「アッシュくん……?」 いつもならキイトがいの一番に出迎えてくれるが、間が悪いことに扉近くには今1番会いたくない人が立っていた。 目が合った瞬間、少しだけ驚いたように目を見張られる。 やっぱり休めば良かった、なんて一瞬思うものの、休んだら苦労するのは恐らくキイトなのでそういうわけにもいかない。 「……おはようございます」 案の定ロイさんの顔が見れない。 今までどう接していたんだっけ? どんな表情で接すればいいのか分からなくなっていた。 「その目、」 「……俺、着替えてきます」 何か言いかけていたが言われるのが嫌でふいと視線を逸らすと更衣室へと足早に逃げ込む。 胸が詰まっているような重苦しさを感じる。 息が十分に吸えなくて苦しい気がする。 なかなか身体が思うように動かない。それでも長居する訳にはいかない。黙々と着替えていると更衣室の扉が開いた。 他のスタッフならば挨拶をしてくるはずだが、入ってきた相手は無言のままだ。 きっと入ってきたのはロイさんなのだろう。 振り返ることも、鏡越しに確認することも出来ずただひたすら無視して着替えを続ける。 「ねぇ、」 上着を着ようとしたところで後ろから顎を掬われた。 「何、その目」 「……何でも、ありません」 目が合わせられずに視線を逸らす。 声を聞くと昨日のことが頭を過り、胸がぎゅっと苦しくなった。 「何でこっち見ないの」 それには答えず首をひねってロイさんから遠ざかる。 「……着替えるので、離してください」 それにロイさんの眉が不機嫌そうに動いたが、今は感情を動かしたくなかった。 頑なにしていないとまた泣いてしまいそうだ。 「……ちょっと、」 尚も追及しようとするロイさんを遮るように更衣室の扉が開いた。 「おっはよーん……て、あら?」 陽気に開けたはいいものの、どうも気まずいところに入ってきたらしいと気づいたマキさんがどうしたもんかと苦笑を漏らす。 「2人ともおはよう……?」 「……おはようございます」 その隙にロイさんの手から逃れると着替えを終えたアツシは更衣室を後にした。

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