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第88話

アツシは在庫ファイルを抱えたままガックリと肩を落とした。 せっかく家まで押しかけたのに何の進展もしていない。コーヒーを入れてただ髪を乾かして帰ってきただけである。 自分の臆病さを改めて見せつけられているような気がする。 このままではいけない、とは思うものの上手くいかないと元々低いモチベーションが更に下がってくる。 倉庫から出て歩き出したものの、ため息が出て仕方ない。自分の情けなさに落ち込んでいると後ろから声が聞こえてきた。キイトの声だ。 「アッシュさん?」 何、と言おうとしたが振り返った瞬間に見えたのはキイトの金色の髪だけだった。 首筋辺りに顔を埋められている感触がある。 「な……え?」 びっくりして声も出せず固まっていると、スンスンと匂いを嗅がれているのに気づいた。 ロイさんのものとは違う、キイトが付けている香水がすぐ近くで香る。頬に触れる髪も擽ったい。 「な、何?」 思わず固まっていたが何とか声を絞り出して尋ねると、キイトからは予想だにしなかった答えが返ってきた。 「アッシュさんもうすぐヒート来そうですよ」 「な、何で知って……え?」 隠しているはずのバース性の話がさらりと出てきてアツシは違う意味でまた固まる。 何故キイトはアツシがオメガだと知っているんだろうか。 そもそもキイトはベータの筈だ。 ベータはアルファやオメガとは違って香りの嗅ぎ分けは苦手なはずである。 唯一分かるのはヒートが来たオメガだけだと言われている。何故ヒートが来そうだと分かるのだろうか。 改めてキイトを探ってみるが、アルファ特有の匂いも気配もない。 「き、キイトって……ベータ、だよね……?」 恐る恐る尋ねるアツシにキイトは顔を半分填めたまま、なんでもない事のように頷いた。 「そっスよ!でも俺何故かヒート前のフェロモンは分かるんスよねー」 なんでだか分かんないけど!と呑気に話す。 「だからオメガのダチとかも多くて。定期で来ない子も居るから気づいた時は教えてあげるんス」 引き離すのも忘れて思わずキイトの話を脳内で反芻する。 そんなこと有り得るのだろうか。いや、自分だってベータだと思って生きてきてオメガだったのだから決めつけるのは良くないだろう。 そもそもキイトはこんなことで人に嘘をつくような人間じゃない。 アツシはそもそも自然ヒート自体、初めて起きたあの時以来まだ来ていない。それも無理矢理起こされるヒートが多少は関係しているのだろうとは思っていた。 あとは気持ちの問題が関係していたり、ホルモンバランス的な問題だったりと、他のオメガも同じように不定期なヒートに悩まされているらしいことは聞いている。 そういうオメガにとってキイトみたいな存在は有難いだろう。 「アッシュさんも匂いするからもうすぐっスよ。早ければ2、3日。遅くても1週間以内には来ると思うから早めに申請出しといた方が良いっスよ!」 「あ、そっか……」 オメガには事前申告でも受け付けてくれるヒート休暇が設けられている。むしろ混乱を防ぐ為事前での申告を推進しているくらいなので届け出るなら早い方がいいだろう。 そんなものがあることをすっかり忘れていたアツシはコクコクと頷いた。 「あ、ありがと……う……っ!」 グンッ、と腕を後ろに引かれて思わず言葉に詰まる。 びっくりして振り返るとニコニコと笑みを浮かべるロイさんが立っていた。 「何してるのかな?」 アツシの肩を掴みニコニコと笑っているが、よくよく見れば目の奥が笑っていない。 相変わらず器用だがあまりにも完璧な笑顔で少し怖い。 目が合うと笑みを強くされた。 これは、だいぶ機嫌が悪い。 「アッシュさんシャンプー変えたっぽいですよ」 いい匂いだから俺も使いたいなと思って、と言って頭の後ろで腕を組むとキイトは懐っこい笑みを浮かべた。 言い訳の仕方が上手い。多分、他の人に相手がオメガだと言わない為に考えたことなのだろう。 そういう機転の速さに慣れを感じる。オメガの友人が多いというのはどうやら本当らしい。 特に疑っているわけではなかったがそういう場面で改めて感じるものがあるということだ。 襲われた時の対応といい、案外機転の利く子というか凄く周りを気にかけてくれる子である。 普段はアツシに引っ付いてばかりの場面が多いだけに何だか意外な気持ちだった。 「ロイさんはシャンプー何使ってます?」 そう言ってキイトは少しずつ話を逸らしていく。 しかし話を逸らされているのはロイさんも感じ取っているのか、アツシの肩を掴む手に力が入った。 ――待って待って、俺のせいじゃない……! ミシミシと音がしそうな程の握力に冷や汗が出る。これで八つ当たりされたのではさすがにちょっと理不尽だろう。 そんなことはお構い無しにロイさんは変わらずアツシの肩を凄い力で掴んでいる。 思わず泣きが入りそうになったが雰囲気が怖くて動けなかった。 「贔屓してるとこのがあるからそれを使ってるよ」 その人、凄く高いシャンプー使ってますよ、とアツシは心の中で呟く。 ふと、ロイさんは時計を見やった。 「それより、キイトはもう休憩時間は終わりでしょ。行ってらっしゃい」 「はーい」 戻り際、キイトは一瞬アツシに目配せをして戻っていく。 成程、戻るなら今なのだなと何となく察知してロイさんに向き直る。 「じゃあ、自分も戻ります……」 しかしそこはすかさずロイさんが壁へ手をつきこちらの行く手をさえぎった。 ビックリしているうちに足の間にロイさんの長い足が割って入ってくる。そう来るとは思わずかぁっ、と頬を赤らめるとロイさんは顔を寄せた。

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