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第8話 14ヶ月前
男の名字が哀川だと知ったのは、初めて逢った時から二、三ヶ月後ーー片桐のネームプレートから初心者マークが外れた頃の出来事だった。
初めて逢った時と同様に、月に二、三回ほど哀川は給電のために片桐の勤め先に現れ、給電の間他愛もない話をし、帰っていく。
ある日、給電中の哀川に電話が入った。
「はい、アイカワです」
鋭く研ぎ澄まされた仕事用の哀川の声は、片桐を恐々とさせた。正直なところ、接客中に話しかけてくれるリラックスした声が、片桐は好きだった。
「すまないね。少し声を荒げてしまって」
優しく穏やかな哀川に戻った。嬉しくなった片桐はついつい世間話を続けてしまう。
「アイカワ様って綺麗な名字ですね。愛しい川と書くのですか?」
「いや、哀しい川で哀川だ。でも男としては愛よりも哀のほうが好みかな。仕事先で名前も覚えてもらいやすいし。片桐くんだってそうだろう?」
どきん……っと心臓が跳ねた。
「……俺のこと覚えてくれていたんですか?」
すると哀川は笑いながら片桐のネームプレートを指した。
「研修卒業おめでとう。君の成長を追うのが、何だか楽しくなってきたな。また来させてもらうよ」
哀川はその言葉通り社用車はもちろん自家用車でも来店するようになり、自然と哀川と接する機会が多くなったため、片桐はアルバイトが楽しくてたまらなかった。
しかし月日が経つにつれ、片桐にとって悪いことばかり起こるようになった。
まずは後輩の存在。
片桐が初心者マークを卒業してわずか一ヶ月後に年下の女子大生が入ってきたのだ。見た目は派手だが、愛嬌があり、接客も丁寧。何より仕事を覚えるのが早かった。
自分よりも後に入ったその女が先へ進んでいくにつれて、片桐の仕事は減っていった。もちろん、哀川との会話も。
片桐は哀川のどんな情報でも知りたかった。もっと哀川を知りたかった。
哀川の吸殻は他の仕事仲間にバレないように一本一本回収して大切に保管し、違法だとわかっていてもレコーダーをポケットに忍ばせて接客したりもした。
哀川と生活圏が近かったことは、まさに奇跡だとしか言いようがない。哀川は気づかなかったが、近所のスーパーやコンビニ、家電量販店ーーそして映画館。あらゆる場所で哀川を見た。片桐は仕事が休みの時間をすべて哀川の捜索に使い、できるだけ多くの写真を撮り溜めた。
そのうち片桐にとって悲劇としか言いようがない事実を知ってしまった。
哀川には将来を誓った婚約者がいたのである。
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