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「ただいま……」 「オー、政迩。遅かったな、大丈夫か?」  アパートに戻ると、エプロンをつけた大和が台所から嬉しそうな顔を覗かせた。今の俺が一番見たくて、だけど一番見たくなかった、あの笑顔だ。 「腹減っただろ。遅いから何度も温め直してたんだぜ。チカの大好きな激辛カレーだ」 「……遅くなって悪かった」 「しかし何してたんだよ? レジ金のマイナスでも出たか?」  俺はのろのろと上着を脱いでハンガーにかけ、口を尖らせながら大和に言った。 「心配してたなら、迎えに来てくれれば良かったのに。こんな遅くまで白鷹さんと二人で、不安じゃなかったのか」  いつもなら何を置いても迎えに来てくれそうなものだが、今日に限って、大和の心配性が発動しないなんて。 「うん、正直本当は迎えに行こうと思ったけどさ。またチカに『余裕持て』って笑われると思って、すげえ我慢したんだよ。……まあ? 俺もチカを信用してるから、言うても全然不安じゃなかったぜ」 「………」 「ほら、腹減っただろ。そこ座って、飯にしよう」 「その前に、トイレ行ってくる」 「おう」  個室の中、俺は声を押し殺して泣いた。腹の底からせり上がってくる複雑な感情を、今はどうしても抑えることができなかった。 「……う」  俺は泣いた。口に手をあて、息を止め、熱くなった目頭から流れる涙を何度も拭い、心の中で大和の名前を何度も叫びながら泣いた。  頭が痛い。ボーッとする。寝不足と微熱が同時に続いているかのようなだるさだ。  ここ最近、店に来るといつもこんな具合になる。 「最近の政迩、仕事中ずっとダンマリだな。どうしたよ、体調悪いのか?」 「べ、別に」  大和が訝しげに眉を顰め、俺の顔を覗き込んできた。 「今日はせっかく白鷹くんがいないんだから、また前みたいに二人で楽しめると思ったのに」 「うん、……」  飴玉みたいにカラフルなブレスレットを同じ色で分け、五つずつ束ねてタグピンでまとめる。単調な作業をしていると何も考えなくて済むが、大和と二人だとそうもいかない。 「……俺は楽しいよ。別に具合悪くないし。俺、いつもこんな感じじゃねえか」 「そうだっけ? 白鷹くんがいない時はもっと喋ってたと思ったけどな」 「大和、白鷹さんと何か話した? ……例の、大和が持ちたい店のこととか」  カウンターからブレスレットが落ち、床の上を転がって行った。それを拾うために屈みながら、大和が苦笑する。 「何だよ、急に。別にまだ話してねえけど?」 「出来れば早く話してほしい。俺も、大和と二人だけで働きてえし」 「……何かあったのか?」  俺は別に、と首を振って手元に視線を落とした。箱の中に一度ブレスレットをまとめて詰め込み、それを背後のネットから突き出たフックに一つ一つかけてゆく。 「………」  つい三日前、俺はこの壁にしがみついていた。背後から白鷹に犯され、声を上げて鳴いていた。しかし翌日の白鷹は何事もなかったかのように俺と接し、大和ともいつも通りの下らない会話をしていた。  俺もなるべく自然に振舞おうとしているけれど、やはり普段とは様子が違って見えるのか。大和は、俺の中の微妙な変化を無意識の内に察知しているのかもしれない。 「……え」  壁を向いていると、突然、背後から大和に抱きしめられた。 「な、なんだよ。客入ってきて見られたら厄介だぞ」 「関係ねえよ」 「馬鹿言うな。急にどうしたんだってば、大和……」 「分からん。なんか急に、抱きしめたくなった」  午後八時を過ぎているが、東楽通りは今日も多くの人が歩いている。だけど誰一人として、店内奥にいる俺達のことなんか気に留めていないらしかった。 「政迩、好きだよ」 「俺も……好き、だけど」 「今日、早く帰ろうな。それで飯食ったら、またセックスしよ」 「………」  俺達が使っているベッドも、飯を食うテーブルも、食器も。あの部屋全体、全ては白鷹が大和のために用意したものだ。実際、俺が暮らす前は白鷹も使っていたんだろう。 別にわざわざ話すことじゃないかもしれないし、それ自体気に入らないわけでもないが……どうしてか俺は、それを黙っている大和に対して少し不満を覚えた。 「セックスはしない」  だから、ほんの少しだけ。大和に意地悪したくなる。 「えっ、なんで? 俺が早漏だから?」 「……ふふ」 「わ、笑うな馬鹿っ。これでも俺だって、毎回努力してんだぞ」  思いがけない発言につい笑ってしまったが、俺はすぐにそっぽを向いて作業を再開させた。 「体力には自信あるのにな。もっと鍛えるべきなんかな」  ぶつぶつ言いながら、大和が俺から離れる。  ブレスレットの簡単なポップを描いてから、俺は早目に閉店前の掃除を始めた。大和の言う通り、今日は早く帰ってゆっくりしよう。白鷹との例の記憶が残っているこの店より、あのアパートの方が幾らか落ち着くことができる。  だけど結局のところ、そのアパートも白鷹が用意したものなのだ。どちらにしろ白鷹の手から逃れられないような気がして、俺はうんざりしながら太い息を吐き出した。 「大和は体力より、もっと気を強く持ってくれよ。そんなんじゃ、いつまでたっても白鷹さんの下から動けねえぞ」 「分かってるよ、そんくらい。でも俺にだってタイミングってモンがあるんだしさ」 「そのタイミングを逃し続けてるんだろ。何をそんなに遠慮してるんだよ、あの人に」 「なんだよ。今日の政迩、やけに厳しいな」  俺と白鷹の間に起こったこと――それを知らない大和に腹を立てたって、仕方ないのに。 「白鷹くんと、何かあったのか?」 「……別に」 「言えよ、政迩。気になるじゃねえかよ」 「別に、つってんだろ」  こんなことで言い争いたくなんかない。それなのに、どうしても口調が荒くなってしまう。大和は不満げな顔でしばらく俺を見つめ、やがて俺から距離を取るように店頭へ行ってしまった。  少しでも不穏な空気になると、大和はいつでも俺から離れてゆく。部屋の中で喧嘩になった時などは、いつも大和がネットカフェで時間を潰すことになる。だけどどんなに怒っていてもすぐに仲直りして、また笑い合ったり抱き合ったりしている俺達だから、四年も関係が続いてきた。  しかし、今回は俺達の間に第三者の存在がある。俺が白鷹に抱かれたと知ったら、果たして大和は許してくれるだろうか。  あの時の俺は、大和のためを思って拷問のような苦痛に耐えたのだ。もしも白鷹が単なる意地悪や興味本位で圧し掛かってきただけだったとしたら、刺し違えてでも逃げてきた。絶対にヤらせなかった。  大和のためだったから。大和のことが、誰よりも好きだから――。 「………」  違う。  そう言って結局俺は、自分の身に起きてしまったことを正当化しているだけだ。  大和だったら例え俺のためだとしても、死んでも他の奴を抱いたりなんかしない。もっと他の方法があるはずだと、必死になって考えるだろう。俺はこの先ずっと、大和を「裏切って」しまった罪を背負って付き合い続けなければならないのだ。  ……そんな隠し事をしながら、大和と二人の店なんて持てるのだろうか。  俺は滲んだ涙を素早く拭い、モップを片付けにスタッフルームへ入って行った。

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